第2話
第2話
鏡の中で、銀糸の刺繍を施した深紅のドレスが、燭台の光を吸って鈍く輝いていた。
「お嬢様、髪留めはいかがなさいますか」
侍女のマリアが、青金石を鏤めた髪飾りを掲げた。私はほんの少し顎を引き、いつものリゼルヴァーナの声で応えた。
「いつものもので結構よ」
傲慢で、少しだけ気怠げな響き。十七年間染み込んだ発声は、前世の記憶が戻っても消えてはいない。消すつもりもない。今夜はこの声こそが、私の最後の武器になる。
化粧台の引き出しの奥、二重底の下に、三通の書簡が隠してあった。一通は王都南門の関所長宛て——「公爵家の商会が臨時の荷馬車を出す」と記した、公爵家の印影を偽装した通行許可申請。一通は南部の商会に偽造身分証を請け負わせるための手付金の送り状で、金貨二十枚を前払いで押さえてある。そして最後の一通は、ハンス宛ての遺書めいた覚書だった。もし私が明日の朝までに戻らなかったら、これを父に渡してほしい——それだけ書いて封をした。研究ノートの半分は既に焼却し、残りは暗号化して領地外の秘匿先に発送済みだ。ハンスには何も告げない。老執事が後で咎を受けないよう、共犯の証拠は一つも残さない。
「お嬢様」
マリアが背後から髪を結い上げながら、鏡越しに目を合わせた。
「今夜は……ウェルネスト家のご令嬢も、いらっしゃるそうですね」
「ええ」
私は扇をひらりと開き、半分だけ顔を隠した。
「楽しみにしているわ。奨学生の娘とやらが、どれほどの作法をお持ちか拝見しましょう」
ゲーム通りの、嫌味な口調。鏡の端で、マリアの眉がかすかに寄るのが見えた。幼い頃から私を知るこの侍女は、ここ数日の主人の変化を、薄ぼんやりと嗅ぎ取っているだろう。だが今夜だけは、完璧にシナリオ通りのリゼルヴァーナでいなければならない。そうでなければ、私の不在は夜会の途中で露見する。
王城の大広間は、千の魔灯石で昼のように照らされていた。
天井に吊された魔導シャンデリアの内部には、結晶格子の均一性を極限まで磨き上げた魔鉱石が充填されている。前世の言葉で近似するなら、単結晶シリコンのインゴットを光源に転用したようなものだ。光量のブレが少ないのは、結晶欠陥が意図的に制御されている証拠だった。壁面を飾る白薔薇の花弁には、香油がひと滴ずつ吹きつけてあるらしく、歩を進めるたびに、甘やかな匂いが幾重にも重なって鼻腔に絡んだ。弦楽四重奏の旋律は穏やかな舞曲に移り変わり、床の大理石には、上気した令嬢たちの裾が扇のように翻っては畳まれる。
我ながら、どうしようもない研究者だと思う。命の瀬戸際で、まだ装置の分析をしている。
「リゼルヴァーナ嬢」
高い位置から降ってきた声に、心臓がひとつ、冷たく跳ねた。王太子エルヴィン。金髪に青い瞳。ゲームの立ち絵そのままの、完成された造形。だが今は、その美しさを観察する余裕はなかった。彼の纏う香水は、前回対面した時よりも一段強く、どこか焦れたような鋭さを含んでいた。
「エルヴィン様。今宵の装い、よくお似合いですこと」
私は膝を軽く折り、扇の縁越しに微笑んだ。エルヴィンの視線は、すでに私を通り過ぎている。彼が探しているのは、婚約者の私ではない。台本通りだった。彼の瞳は大広間の端々を撫でるように泳ぎ、栗色の髪を探し当てた瞬間にだけ、熱を帯びた。その変化を、私は扇の陰からじっと測った。
「ウェルネスト侯爵家のご令嬢は、もうお見えかしら」
私は自分から尋ねた。エルヴィンの眉が、かすかに不快に歪む。婚約者が真っ先に他家の令嬢の名を口にする——この不自然さを、一瞬でも彼の記憶に違和感として残せれば、それで十分だった。後日、私の逃亡を彼が追跡する際、判断の迷いとして作用する。
「向こうだ」
彼が顎でしゃくった先に、奨学生用の簡素な仕立てのドレスを纏った、栗色の髪の少女が立っていた。周囲の令嬢たちは不自然に距離を取り、彼女を島のように孤立させている。扇で口元を隠した娘たちが、視線だけを矢のように投げつけ、互いに耳打ちし合っては含み笑いを漏らす。その光景は、硝子瓶に閉じ込められた蝶を、幾人もの子供が棒で突ついているのに似ていた。
私は扇を閉じ、一歩、また一歩と彼女に向かって歩いた。大広間の視線が集まるのが、肌で分かる。悪役令嬢が奨学生の娘に声をかけに行く——これから何が起こるか知っている観客のように、貴族たちは息を潜めていた。楽団の弦のすり減った音色さえ、遠くでぼやけて聞こえる。自分の踵が大理石を叩く音ばかりが、やけに明瞭に頭の中で反響した。
「——あなた」
私はヒロインの前で足を止め、扇の先端で彼女のドレスの裾をかすかに示した。
「その縫製、平民仕立てでしょう。この格式の夜会には、些か場違いではなくて」
ヒロインの頬が、ゆっくりと赤く染まった。周囲から、押し殺した嘲笑が漏れる。エルヴィンが顔色を変えた。だが私は構わなかった。ゲーム通りの嫌がらせを、台本通りに演じきる。そうすれば今夜の間、誰も私の不在を疑わない。
そのはずだった。
ヒロインが、顔を上げた。
栗色の睫毛の下から、真っ直ぐに、私の瞳を覗き込んでくる。その瞳の色は、淡い緑。ゲームの立ち絵通り。だが——宿っている温度が違った。
屈辱に震える少女の目ではない。恥じらいに俯く田舎娘の目でもない。ほんの刹那、そこに浮かんだのは、盤面の駒を数え、相手の次の手を計算する観察者の目だった。扇を持つ私の指先の震えまで、彼女の視線は丁寧に拾い上げた気がした。それだけではない。私の履いているヒールの高さ、ドレスの裾に染みついた微かな泥、耳朶の後ろに残した香水の量——そのすべてを、ほんの一秒に満たない視線の移動で、彼女は順に採寸したように思えた。
背筋を、氷の指が撫で上げた。
「……恐れ入ります、クロイツ公爵令嬢」
彼女の声は、台本通りに震えていた。語尾はか弱く、表情はすぐに伏せられ、先ほど見た瞳の温度が錯覚だったかと疑うほど、完璧に演じ直されている。あまりに滑らかな切り替え。まるで、何度も同じ「屈辱の場面」を別の舞台で演じ慣れている役者のような、底の見えない慣れ。
私も、完璧に微笑み返した。
「ごめんなさいね。お気を悪くしないで」
扇を開き、ひらりと身を翻す。大広間の貴族たちは、満足げに囁き交わした。悪役令嬢の嫌がらせ——予定調和の一幕。だが、私の背中は冷たい汗で濡れていた。絹のドレスの内側で、背骨に沿って一筋、冷たい雫が這い落ちていく感触が、やけに生々しい。
見間違いか。それとも——あの娘もまた、何かを知っているのか。
考察する時間はなかった。会場の古大時計を見上げる。舞踏が始まるまで、あと十五分。その間に私は化粧室に立ち、裏口へ回り、商人の荷馬車に乗り換えて南門へ向かう。三日かけて設計した逃亡動線の、最初の扉がもう目の前にあった。
大理石の廊下を歩きながら、自分の指先を見つめた。かすかに震えている。恐怖ではない。興奮でもない。この体がリゼルヴァーナとしての最後の舞踏会を今、終えるのだと、体のほうが先に理解していた。
化粧室の隣、使用人用通路の扉の前で、マリアが待っていた。
「お嬢様」
差し出されたのは、灰色の粗布の外套。裾には意図的に泥が擦りつけられている。商人の妻が羽織るような、どこにでもある安物。頭からすっぽり被れば、廊下の灯りの下でも顔の輪郭は沈む。
「——ありがとう、マリア」
彼女の家族は南部の商会に繋がっている。偽造身分証の手配は、彼女を通じて進めた。共犯だ。だが今夜限りで、彼女はすべてを忘れる役を演じる。
「お嬢様が、お幸せであられますように」
マリアは深く一礼し、扉を開いた。
石畳の坂道に、低い踵の靴音が響いた。前世の研究室で、徹夜明けに廊下を歩いた時の音と、どこか似ている。あの頃の私は、明日の実験のことしか考えていなかった。今の私もまた、明日のことしか考えていない——ただし、その明日は国境の向こう側だ。
荷馬車の幌が、私を呑み込んだ。御者が小声で手綱を引き、車輪がゆっくりと回り始める。振り返らなかった。振り返れば心が揺れる。父の白髪、ハンスの皺の刻まれた手、書庫の古い魔法書——置いていくものを数え始めたら、国境には辿り着けない。
幌の隙間から、王城の窓灯りが遠ざかっていった。あの大広間のどこかで、今もエルヴィンとヒロインが踊っているのだろう。そして、あの一瞬の瞳の「知性」——その意味を、私はまだ何も知らない。
明日の夜明け前、私は国境の山脈を越える。
処刑時計の針は、止まってはくれない。だが今夜、針が指す文字盤を、私はこの手で確かにずらしたのだ。