第1話
第1話
魔素の結晶格子が、ありえない角度で屈折した。
研究室の薄暗がりの中、私は試験管を光にかざしたまま息を止めていた。燭台の炎が揺れるたびに、管の中の淡い青色が明滅する。この結晶構造——六方晶系に似た対称性、格子間に走る微細な魔力の通り道。間違いない。前世の研究室で何千時間と睨み続けた、あの超伝導材料の格子定数と一致している。
「嘘でしょう」
声が震えた。自分の声が、まだこの体に馴染まない。
リゼルヴァーナ・クロイツ。クロイツ公爵家の一人娘にして、王太子エルヴィンの婚約者。そして乙女ゲーム『蒼穹のフィロソフィア』において、ヒロインを虐げた報いで断罪される——悪役令嬢。
三日前、前世の記憶が戻った。突然ではない。ずっと違和感はあった。魔法学の講義で教授が魔素の性質を説明するたびに、既視感が胸を刺した。それが三日前の夕刻、屋敷の書庫で古い魔法書を開いた瞬間に堰を切った。森村凛——二十八歳、材料工学の博士課程。超伝導材料の結晶構造解析を専門としていた、地味な研究者。その三十年分の記憶が、一気に流れ込んできた。
そして理解した。この世界の魔素は、ただのファンタジー的な概念ではない。結晶構造を持ち、温度と圧力で相転移し、特定の条件下で抵抗ゼロの魔力伝導を示す——前世の物理法則と地続きの、解析可能な物質なのだと。
窓の外で、礼拝堂の鐘が深夜の二時を告げた。
私は試験管を木製の架台に戻し、手帳を開いた。表紙には金箔で公爵家の紋章が押されている。中身は、この三日間で書き溜めた魔素の結晶構造のスケッチと数式で埋まっていた。前世の知識を総動員して、この世界の魔法体系を材料工学の視点から再構築する。それが今の私にできる唯一のことだった。
なぜなら、残り時間がない。
ゲームのシナリオ通りなら、約一年後——秋の収穫祭の夜、王太子エルヴィンはヒロインへの求愛を宣言し、私との婚約を破棄する。そこから断罪イベントが連鎖的に発動する。クロイツ公爵家への弾劾。領地の没収。そして、処刑。
「……あと一年」
呟いて、目を閉じた。暗闇の中で、前世の記憶が映写機のように回る。ゲームをプレイしたのは高校生の頃だ。細部まで覚えているわけではない。けれどリゼルヴァーナの末路だけは、嫌というほど鮮明だった。
断頭台の上で泣き叫ぶ悪役令嬢を、プレイヤーは「ざまぁ」と笑った。画面の向こう側にいた私も、たぶん笑っていた。
今、その断頭台に乗るのは、この体だ。
燭台の蝋が垂れて、机に小さな染みを作った。私は目を開け、手帳の新しいページに書き込む。
『魔素結晶格子の第一原理計算——クロイツ領産の魔鉱石を標本として』
研究者の習性は、体が変わっても消えない。
翌朝、朝食の間で父と顔を合わせた。
クロイツ公爵アルベルト。白髪交じりの壮年の紳士で、領地経営に関しては有能だが、王都の政治には疎い。私が処刑される未来を、この人は知らない。
「リゼルヴァーナ、顔色が悪いな。また夜更かしか」
「少し本を読んでいただけですわ、お父様」
銀の匙でスープを掬いながら、私は完璧な令嬢の微笑みを貼り付けた。三日前までは自然だったこの仮面が、今は息苦しい。
「来週の夜会の件だが」
父の声に、背筋が冷えた。
「王太子殿下が直々に招待状を送ってこられた。ウェルネスト侯爵家のご令嬢——なんといったか、あの奨学生の娘も出席するそうだ」
ヒロインだ。
奨学生として王立学院に入学した没落貴族の娘。ゲームではこの夜会が、リゼルヴァーナがヒロインに最初の嫌がらせを仕掛けるイベントの舞台になる。
「楽しみですわ」
私は微笑んだまま、胸の中で歯車が噛み合う音を聞いた。来週。もうそこまで来ている。
「ハンス」
食後、廊下で執事を呼び止めた。
「何でございましょう、お嬢様」
初老の執事は、穏やかな目で私を見た。幼い頃からこの家に仕え、リゼルヴァーナの——私のわがままを一度も咎めなかった人だ。
「今夜、私の研究室に魔鉱石の標本を追加で届けてちょうだい。それと——帝国に関する地誌があれば」
ハンスの眉がかすかに動いた。
「帝国の地誌、でございますか」
「ええ。外交史と国境周辺の地理に詳しいものを。学院の課題ですわ」
嘘だ。学院にそんな課題はない。だがハンスは深く問い詰めなかった。ただ一瞬、長年の忠誠が培った直感で、何かを嗅ぎ取ったような目をして。
「かしこまりました。今宵中にお持ちいたします」
「ありがとう」
その感謝が、本来のリゼルヴァーナらしくない柔らかさを帯びていたことに、ハンスは気づいただろうか。
夕刻。学院から戻った私は、自室に直行した。
窓を閉め、遮音の魔道具を起動する。前世の記憶が戻ってから、この儀式は欠かさない。研究は秘密裏に行わなければならない。公爵令嬢が魔素の結晶構造を解析している——そんな噂が立てば、ゲームのシナリオに余計な変数が加わる。
机の上に、午前中に学院の実験棟から持ち出した魔鉱石の破片を並べた。五つの標本。産地と純度がそれぞれ異なる。
ルーペ型の魔道具で結晶面を拡大する。
「……やはり」
声が漏れた。午前中の仮説が裏付けられている。クロイツ領産の魔鉱石は、格子欠陥の配列が他の産地と明確に異なる。前世の用語で言えば、ピニング中心の密度が異常に高い。超伝導体において、ピニング中心は磁束線を固定し、臨界電流密度を向上させる。魔素に置き換えれば——
「魔力の流路を安定させる要因が、結晶構造のレベルで組み込まれている」
手が震えた。興奮ではない。恐怖だ。
この世界の魔法は、天賦の才能や血統で語られてきた。だが違う。魔素という物質の結晶構造が、魔法の効率と出力を物理的に規定している。貴族の血統が魔法に優れるのは、彼らの領地で産出される魔鉱石の結晶構造が、偶然か意図的にか、魔力伝導に最適化されているからだ。
天才も凡人もない。あるのは格子定数の差異だけだ。
これは危険な知識だった。貴族社会の正統性——血統による魔法の優劣という大前提を、根底から覆す。ゲームの悪役令嬢が処刑される程度の話ではない。この研究が知られれば、クロイツ公爵家どころか、王家を含む貴族体制そのものが揺らぐ。
研究ノートを閉じ、しばらく天井を見つめた。
蝋燭の炎が影を揺らす。この部屋の壁に染み付いた魔素の残滓が、かすかに青く発光していた。この光を美しいと思えるのは、前世の記憶があるからだ。リゼルヴァーナとして生きていた頃の私は、きっと気にも留めなかっただろう。
ノックの音。
「お嬢様、ご依頼の品をお持ちいたしました」
ハンスの声だ。私は研究ノートを引き出しに滑り込ませ、鍵をかけてから扉を開けた。
銀の盆の上に、三冊の分厚い革装本と、追加の魔鉱石標本が載っていた。
「『ヴェルザリア帝国地誌概論』、『両国国境紀行』、そして『帝国の街道と要衝』でございます。書庫の奥から発掘いたしました」
「完璧よ、ハンス」
本を受け取る指先が、わずかに汗ばんでいた。ハンスの目が、それを見ていた。
「お嬢様」
「何かしら」
「——お体にお気をつけて」
それだけ言って、老執事は一礼して去った。
扉を閉め、鍵を回す。地誌を開き、帝国との国境線を指でなぞった。
シナリオ通りに進めば、来週の夜会が最初の分岐点だ。ヒロインへの嫌がらせイベントを発動させれば、処刑への歯車が一つ回る。発動させなければ——ゲームのシステムが別のルートで補正をかけてくるかもしれない。どちらにせよ、このまま王都にいれば処刑は避けられない。
ならば、舞台ごと降りる。
敵国ヴェルザリア帝国。祖国とは百年にわたる冷戦状態にあり、魔法体系も政治体制も根本的に異なる。ゲームでは終盤の戦争イベントの敵国として登場するだけで、内部の描写はほとんどなかった。
つまり——シナリオの外だ。
処刑回避の計画が、輪郭を持ち始めていた。身分を偽り、国境を越え、帝国に潜伏する。そこでなら研究を続けられる。この世界の魔素の謎を、誰にも邪魔されずに解き明かせる。
研究ノートを引き出しから取り出し、最後のページを開いた。
震える手で、一行だけ書きつけた。
『この世界から出る方法』
その下に、帝国の地図を広げた。蝋燭の灯りが、国境線の山脈を琥珀色に染めている。
夜はまだ長い。処刑時計の針は、止まってはくれない。