第3話
第3話
控えの間は、ひどく静かな部屋だった。
先ほどまでいた会堂の、扇の骨が鳴る音も、翻訳の聖具を通じて積み重なった単語も、木の扉一枚隔てた向こうへ遠ざかっていた。代わりに耳に届くのは、蝋燭の芯が弾ける細い音と、自分の呼吸だけだった。ミレリア司祭は、しばらくここでお待ちください、と言い残して部屋を出て行った。茶の入った陶器のカップが、卓の上で湯気を細く立ち昇らせている。見知らぬ香りの、赤みを帯びた液体。口をつける気にはなれなかった。
部屋の壁には、薄く織られたタピストリーが一面に垂れていた。銀糸で織り出された女性の姿と、その掌から広がる白い光。歴代の聖女、なのだろうか。胸元の薄緑の石が、時折思い出したように温度を変える。翻訳の聖具というものが、使われていないときにも呼吸しているのだと、指先で触れて初めて気がついた。
吹き飛ばされた、と。
扇の男の声が、まだ頭の奥で響いている。路地裏の破片の音と、水晶が粒子になって降り積もる音が、いつのまにか区別がつかなくなっていた。私がしたこと。私に貼られようとしている札。それらが、自分の身体から切り離されて、大人たちの円卓の上で勝手に値段をつけられていく気がした。
窓の外を見た。尖塔の向こうで、夕焼けの残りが紫に沈みかけている。さっき空を横切った四枚翼の鳥は、もういない。石造りの屋根の連なりが、淡く赤を残したまま、ゆっくりと闇に吸い込まれていく。
膝の上で、制服のプリーツを握っていた手を、そっと開いた。掌に、爪の跡が四つ、薄く残っていた。
どれほどの時間が経ったのかは、よく分からなかった。
扉が再び開かれたとき、蝋燭の数が一本だけ増えていた。ミレリア司祭が、静かな足取りで私を迎えに来る。戻られますか、とは聞かれなかった。戻る、以外の選択肢が私にないことを、司祭もきっと知っていたのだと思う。
廊下の先の会堂は、今度は扉が閉じられていた。重たい木戸を、司祭がゆっくりと押し開ける。蝶番の音が、先ほどよりも長く尾を引いた。
中に入ると、空気が張り詰めているのが肌で分かった。扇の骨を鳴らしていた男は、今度は扇を閉じて膝の上に置いている。閉じられた木目が、蝋燭の光を拾って鈍く光っていた。枢機卿の老人は、卓の正面で両手を組み、目を伏せたままだった。レクトの位置は変わっていない。柱に背を預けるのをやめて、円卓の少し手前に一歩だけ、足を進めている。左手はやはり剣の柄に添えられたまま、微かにも動かなかった。
さっき座らされた椅子の前に、もう一度立たされる。座れ、とは誰も言わなかった。
「——騎士団預かりと、する」
声を発したのは、枢機卿だった。それまで一言も発していなかった老人の声は、思ったより低く、渇いていた。
翻訳の聖具が、その短い一言を日本語に変換する。騎士団預かり。
「近衛騎士団副団長、レクト・ヴァンディスの進言による。異邦の娘の身柄は、聖具付きの塔ではなく、近衛騎士団の所管とする。監督責任は、同副団長が個人として負う。期限は次の神議会まで」
扇の男が、手にしていた扇を卓の縁に軽く打ち付けた。こつ、と乾いた音。
「枢機卿猊下、それは——」
「異論は、既に聞いた」
枢機卿の言葉は短かった。けれど、短さがそのまま、この会議で何が動いたのかを物語っていた。異論は出た。出された上で、押し返された。それが、誰によってか——私はレクトの横顔を、ちらりと見た。青い瞳は正面を向いたまま、こちらを見ない。ただ、首筋の線が、路地で初めて会ったときよりほんの少し緊張しているように見えた。
「ただし、条件がある」
枢機卿の視線が、ゆっくりと私に向けられた。
「異邦の娘よ。騎士団の敷地から、副団長の許可なく出ることはならん。力を、みだりに振るうこともならん。この二つを守る限り、塔には送らぬ。守れぬのであれば、軟禁は即時、発動する」
喉の奥が、ひりついた。守る、と言うには、守り方を知らない。けれど、首を横に振れば、先ほどまで耳の奥で響いていたあの「軟禁」という言葉が、もう一度息を吹き返してしまう。
「……分かりました」
声が、思ったより掠れた。
枢機卿は小さく頷いた。それ以上は、言わなかった。扇の男が何かを言いかけて、結局やめた。円卓の空気は、納得には程遠かった。ただ、結論は出たのだ、という重たい諦めが、祭服の肩の角度に表れていた。
神殿の門を出たのは、空がすっかり夜に沈んでからだった。
レクトの歩幅は、来たときと同じように、ほんの少しだけ狭い。並んで歩く、というより、半歩斜め後ろをついていく私に合わせて調整されている。彼は一度も振り返らない。けれど、石畳の段差に差し掛かるたびに、前を行く足音のリズムが一度だけ遅れた。
石造りの街並みを抜けて、篝火の焚かれた広い門の前に辿り着いた。門の上に、路地で最初に彼を見たときに胸元で見たのと同じ紋章——交差する二本の剣と、翼を広げた鳥——が、鉄で打ち出されている。門番が敬礼する。レクトは小さく手を上げて応じ、私を先に通した。
敷地の内側は、思っていたよりも静かだった。兵舎らしき長い建物が二棟、向かい合って並んでいる。中庭の奥に、砂の敷かれた訓練場らしき空間が見えた。夕餉の時間はとうに過ぎているのだろう。どこかの窓から、低い笑い声と、食器の触れ合う音が細く漏れてくる。その日常の気配だけが、神殿の冷えた空気とは違うものを、私の肩からほんの少しだけ力を抜かせた。
「——副団長」
兵舎の入口で、一人の兵士が駆け寄ってきた。レクトより頭半分ほど背が低い。栗色の髪を後ろで束ねた、私より少し年上に見える青年だった。胸の紋章が、レクトのそれより一つだけ少ない。
「部屋の手配、済みました。南棟の、客人用の一室です」
「頼んだ。——ユーリ、彼女を案内してくれ。俺は、残務がある」
レクトはそれだけ言うと、私にも一瞥をくれずに、兵舎の反対側の廊下へ姿を消した。マントの裾が、廊下の角を曲がって見えなくなる。
残されたのは、栗色の髪の青年——ユーリと、私だけだった。
「こっちです、スズネ様」
ユーリの言葉も、翻訳の聖具を通じて届く。様、はやめてください、と私は小さく首を振った。ユーリは眉尻を下げて笑った。困ったような、けれど柔らかい笑い方だった。
南棟の三階。木の階段を上がる靴音が、静かな廊下に響く。案内されたのは、思ったよりも広い一室だった。窓が一つ、寝台が一つ、机と椅子。壁に小さな姿見。寝台の脇に、白いブラウスのようなものと、膝丈のスカートが、畳まれて置かれていた。
「とりあえず、今夜の分です。制服の方は、明日、仕立ての者に見てもらいます」
制服、という単語のところで、ユーリはちらりと私のブレザーを見た。彼にとっては見慣れないはずのそれを、驚くでもなく、ただ事実として受け止めている目だった。
「あの、」
扉に手をかけて出ていこうとするユーリを、思わず呼び止めていた。
「レクトさんは——副団長さんは、どうして、私のことを」
聞きたかったのは、もっと別のことだった気がする。けれど、言葉にしようとすると、輪郭がぼやけた。どうして剣を下ろしたのか。どうして、軟禁に異議を唱えたのか。どうして、自分の責任にしかならないような提案を——。
ユーリは少しの間、扉の取っ手に手をかけたまま、動きを止めていた。それから、何かを確かめるように、私の方に身体を向け直した。
「副団長が、ああいう提案をされるのは、初めてです」
声を落として、静かに言った。
「七年、お仕えしてますが。自分の裁量で、他人の進退を引き受けるような。そういう方じゃ、ないんです」
そういう方じゃ、ない。
ユーリの言葉は、責めているようでも、驚いているようでもなかった。ただ、事実を、扉の前にそっと置いていくような言い方だった。
「——なので、どう受け取っていいのか、自分にも、まだよく分かりません。でも」
ユーリは、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「悪いようには、されないと思います。副団長のすることですから」
それだけ言って、ユーリは扉を閉めた。木の扉が、柔らかい音で閉まる。
一人になった部屋で、私はしばらく、扉の前に立ち尽くしていた。
机の上に、ぽつんと置かれた真鍮の鍵。レクトが持つ、と話に聞いていた鍵が、なぜ机の上にあるのかは、聞きそびれた。握ると、ほんのりと人の体温が残っている気がした。
窓辺に寄って、カーテンをそっと引いた。外では、兵舎の篝火が一つ、また一つと絞られていく。敷地の片隅、訓練場の向こうに、長身の影が一つ、腕を組んで立っていた。距離があって顔は見えない。けれど、銀の髪が篝火の残り火を淡く受けて、輪郭だけが、ぼんやり浮かんで見えた。
胸の奥が、小さく軋んだ。
痛み、と呼ぶには温度が合わない。感謝でもない。安堵でもない。ただ、名前のつかない何かが、薄緑の石のすぐ下で、一度、脈を打った。
そういう方じゃ、ないんです。——ユーリの声が、耳の奥で繰り返す。
それなら、どうして。
答えは、窓の向こうの影からは返ってこなかった。鍵の角を、掌にそっと食い込ませたまま、私はしばらくカーテンの隙間に立っていた。明日が来る、と思った。会ったこともない騎士たちと、仕立て直される衣服と、敷地の外に出られない日々と——そしてもう一度、あの青い瞳に向き合う朝が、来る。