第2話
第2話
銀髪の青年の後ろを歩き続けて、どれくらい経っただろう。
石畳の凹凸が、薄底のローファーの裏から疲れた足裏に突き上げてくる。制服のスカートの裾に乾きかけた泥がこびりついて、歩くたびに布がわずかに軋んだ。粉塵で喉の奥がざらついていた。唾を飲むたびに、鉄の味が舌の付け根に広がる。
青年は一度も振り返らなかった。けれど、私の歩幅が乱れて足音が途切れると、ほんの半拍、前を行く靴音が遅くなる。そのわずかな配慮に気づいたときから、彼の背中を見る目が少しだけ変わった気がした。
夕闇の中、たどり着いたのは白い石で積み上げられた建物だった。天を突く尖塔、弓なりにくり抜かれた窓、入口の両脇には天秤のような紋様が彫り込まれている。教会、なのだろうか。けれど、十字架に似た形の上に、見たことのない月の意匠が重ねられていた。扉の蝶番が軋んで、重い木戸が内側へ開く。
中は、蝋燭の匂いがした。日本のお寺の線香とも、バニラとも違う、蜂蜜を焦がしたような甘く乾いた香り。長い廊下の奥から、祈りの声に似た旋律が細く流れてくる。石の床は冷えていて、ローファーの底越しにも冷気が這い上がってきた。
「——」
私を案内してきた青年が、廊下の途中で誰かを呼び止めた。白い詰襟の衣をまとった年配の女性が、驚いた顔で駆け寄ってくる。短く言葉が交わされた。抑揚のある異国の音。女性の視線が私を捉え、次に制服に落ち、それからもう一度、私の目に戻ってきた。
やがて女性が手の中で小さな何かを握り、私の首元にそっと差し出した。掌に収まる大きさの、くすんだ真鍮の輪。中央に薄緑の石がはめ込まれている。
「これを、首に掛けなさい」
——聞こえた。
はっきりした、日本語で。
喉が詰まった。女性の口は確かに異国の言葉を紡いでいる。唇の形が日本語のそれじゃない。けれど、耳に届く瞬間、意味が、声が、輪郭を持って脳に入ってきた。
「言葉の聖具です。私どもが話す内容が、あなたの母語に変わって届きます。あなたが話す言葉も、同じように私たちに届きます」
女性が、子どもに言い聞かせるように続けた。鎖を首にかけると、薄緑の石が胸元に収まって、皮膚に触れた金属がひやりと冷たい。
「……ここは、どこですか」
ようやく、まともな声が出た。
「アルテミア王国、王都ラウレンディア。聖リュエル大神殿。あなたのお名前は」
「……鈴音。須藤、鈴音」
「スズネ様、ですね」
女性は深く頭を下げた。その動作がやけに丁寧で、かえって居心地が悪かった。私はただの、放課後の廊下から放り出された高校二年生だ。様、と呼ばれる意味が分からない。
青年——レクト、と女性が呼んだ——が、私から少し離れた柱に背を預けて腕を組んでいる。視線はこちらに向いているけれど、監視しているのか、見守っているのか、判別がつかない。青い瞳は蝋燭の光を吸い込んで、夕刻の湖面みたいに静かだった。
「スズネ様、少しだけ、あなたの力を調べさせていただいてよろしいでしょうか」
女性——ミレリアと名乗った司祭が、声を落として尋ねた。あの路地でのことを、彼女は既に把握している。私が頷く前に、レクトが報告を上げたのだろう。
「調べるって、どうやって」
「魔力測定器、という聖具があります。石に触れていただくだけで済みます。痛みはございません」
痛みはない。その一言が逆に、針を刺すような緊張を呼び起こした。爪先が冷えて、制服のリボンの結び目が首筋で汗ばむ。
連れて行かれたのは、円形の小部屋だった。中央の台座に、拳ほどの大きさの透き通った水晶が据えられている。細い銀の枠が水晶を囲い、枠からは文字盤のような目盛りが放射状に伸びていた。目盛りの上で、細い針が一本、静かに揺れている。
「先年、侯爵家の嫡子が測って、針が三分の一まで上がりました。歴代の聖女様方は、針が振り切れる、と記録にございます」
ミレリア司祭が、水晶を指して説明する。レクトの後ろに控えていた他の司祭が二人、壁際に並んで静かに成り行きを見ていた。
「……触るだけ、ですか」
「ええ。手を乗せるだけで結構です」
心臓の鼓動が耳の奥まで上がってきた。路地で起きたことを、もう一度呼び覚ます気がして、怖い。掌の真ん中が、思い出したようにじわりと熱を孕む。あれをもう一度、引き出すのか。
ゆっくりと、右手を水晶にかざす。指先が震えた。台座から数センチのところで止めて、司祭を見る。ミレリアは小さく頷いた。
手を下ろす。
指先が水晶に触れた瞬間——
目盛りの針が、視線を追う間もなく振り切れた。
振り切れて、そのまま水晶の中心で、白銀の光が渦を巻き始めた。路地裏で見たあの光だ。見間違えるはずがない。けれど今度は、私の身体の内側ではなく、水晶の中で膨れ上がっている。ぽた、と汗が額を伝う。水晶の表面に、細いひびが走るのが見えた。一本、二本。枝分かれする罅が、内部まで食い込んでいく。
「——手を、離してください!」
ミレリアの声が鋭く飛んだ。同時に、レクトが柱から身を起こす気配があった。
離そうとしたのに、掌が水晶に吸い付いて動かない。光の熱が、手首から肘まで駆け上がっていく。あの路地のときと同じ。溶けた金属が血管を昇ってくる感覚。違うのは、今度はどこに向かえばいいのか、光自身も迷っているように見えることだった。
指の腹に力を込めて、無理に手を引き剥がした。
一拍遅れて、水晶が——弾けた。
乾いた破裂音ではなく、鐘を逆再生したような、空気そのものが裂ける音。銀の枠が歪み、目盛りの針が根元から折れて飛ぶ。破片が散ったわけではなかった。水晶はその場で細かな粒子になって、蝋燭の光に照らされながら、ゆっくりと床に降り積もっていった。雪のように。
小部屋の中に、沈黙が満ちる。
「——桁外れだ」
壁際の司祭の一人が、しわがれた声で呟いた。
「歴代の聖女様方は、振り切れた、と記録にあります。しかし、測定器を砕いたという記録は、どこにも」
ミレリアが、胸の前で両手を組んだまま、微かに震える声で言った。
レクトだけが、何も言わなかった。腕を組んだままの姿勢は崩れていない。けれど、私を見る青い瞳の奥に、最初に路地で会ったときにはなかった、別の色が差し込んでいた。困惑ではない、警戒とも違う——計算、のような、冷えた思考の気配。
小部屋から、高い天井の会堂に場所を移されたのは、それから半刻も経たないうちだった。
円卓を囲むように、何人もの大人たちが集まっていた。赤い縁取りの祭服をまとった枢機卿と思われる老人。紺の正装に、胸に勲章を並べた男たち——貴族、らしい。ミレリア司祭は壁際に控え、レクトは円卓の少し離れた場所に立って、左手を剣の柄に添えたまま動かなかった。
私は円卓の中央の、一つだけ置かれた木の椅子に座らされた。背もたれの彫刻が背骨に当たって痛い。誰も私に話しかけなかった。まるで、私がそこに居ることと、議題そのものが、同じ距離にあるみたいだった。
「聖女の称号を持たぬ、来歴不明の異邦の娘」
顎の細い貴族の男が、扇を開きながら切り出した。木でできた扇の骨が、こつ、こつと掌に当たる音がする。
「歴代聖女を凌駕する魔力を、制御できる保証もない。先ほど、測定の聖具を一つ、壊したと聞く。あれは三代前の聖女様が寄贈された、代替えの効かぬ品ではなかったかね」
ミレリア司祭が唇を結んだ。答えない、というより、答えられないのだろう。
「もし、あの力が王都の中心で発露したら、どうなる。先日の路地裏の一件は聞き及んでいる。石畳ごと、人が吹き飛ばされた、と」
吹き飛ばされた、の一語に、胸の奥が冷たく縮む。男たちは、あの二人の暴漢のことを知らない。私が襲われかけたことも。ただ「路地が壊れた」ことと「異邦人が居た」ことだけが、彼らの議事録に並んでいた。
「速やかに、聖具付きの塔に軟禁し、しかるべき処遇が定まるまで外出を禁ずるのが妥当と考える。これは王国の安全保障の問題だ」
軟禁。
翻訳の聖具が、その言葉を正しく日本語に変換してくれる。親切なほど正確に。胸元の薄緑の石が、このときばかりは恨めしかった。
別の貴族がそれに追随し、老枢機卿は口を閉ざしたまま、私を見ていた。観察されている。値踏みされている。けれど、そこに人格を見てくれている視線は、一つもなかった。
扇を持った男の指が、骨をこつ、こつと鳴らし続けている。その音が、なぜか路地裏で聞いた黄ばんだ歯の男の足音と重なった。
私は、膝の上で制服のプリーツを握った。布が指の間で折れて、爪が掌に食い込む。力の大きさで人を傷つけたのも、力の大きさで値段をつけられるのも、結局同じ天秤に乗っているのだと、うっすら理解しはじめていた。
「——あの」
声が喉に張り付いた。それでも、一度だけ、押し出した。
「私、ここがどこかも、まだ分からなくて。帰り道も、分かりません。勝手に暴れたり、しません」
たどたどしい言葉が、聖具を通じて大人たちに届いたはずだった。誰も、目を合わせなかった。扇の男が、軽くひとつ、鼻で笑った。
そのときだった。
円卓の縁を、こつ、と硬い音が叩いた。レクトが、剣の柄の頭で卓の角を軽く打っただけの、小さな音。けれど、会堂の空気が、ほんの一瞬、彼の方に引き寄せられた。
「軟禁、には、異議がある」
低い声が、翻訳の聖具を通じて私の耳にも、日本語で届いた。
全員の視線がレクトに集まる。彼は円卓に歩み寄ることもせず、ただ立ち位置を保ったまま続けた。
「路地裏の件は、私が第一に現場を確認している。発露した光は、無差別の破壊ではない。異邦の娘は、壁を背にして怯えていた。守る、の型だ。攻める、の型ではない」
守る、の型。
扇の男の眉がわずかに歪むのを、私は椅子から見ていた。枢機卿は目を伏せたまま、まだ何も言わない。
円卓の一人が、レクトの発言を遮るように手を挙げた。彼は口を閉じたが、視線は動かさなかった。円卓の大人たちが、目配せをしあう。会議は継続、別室で、という呟きが、短く交わされる。
結論は、先送りにされた。——けれど、この会堂に連れてこられたときより、空気は明らかに重くなっていた。
ミレリア司祭が私の肩にそっと手を置いて、立つよう促した。立ち上がる膝が震える。扉の方へ歩く途中、レクトの横を通り過ぎた。彼はこちらを見なかった。ただ、剣の柄にかけていた左手を、ほんの少しだけ、緩めた。
廊下の向こうで、誰かが早口に叫んでいる。先送り、軟禁、聖女——聞き取りたくない単語だけが、翻訳の聖具を通じて脳に積み上がっていった。胸元の薄緑の石が、じわりと、一度だけ、熱を持った気がした。