第1話
第1話
最初に聞こえたのは、水の音だった。
ぽたり、ぽたり。規則的な雫の音が、意識の暗闘の中に細い糸のように差し込んでくる。
冷たい雫が頬を打つ感覚で目を開けると、灰色の空が視界いっぱいに広がっていた。灰色、というより、鉛を溶かして薄く延ばしたような、重たく沈んだ色だった。背中に硬い石の感触。肩甲骨のあたりが特にひどくて、まるで何時間もこの姿勢で横たわっていたかのように鈍く痛んだ。湿った空気が鼻の奥をつく。土と、苔と、どこか動物の体臭に似た、知らない匂い。ここは——どこだろう。
身体を起こすと、見覚えのない景色が四方を囲んでいた。苔むした石壁、軒先から垂れる色褪せた布、足元には水溜まりに浸かった古い石畳。路地裏だ。でも、こんな場所を私は知らない。石壁の隙間から雑草が伸びている。葉の形が違う。理科の授業で見たどの植物とも似ていない、妙にねじれた蔓が壁を這っていた。
つい数分前まで、学校の廊下にいたはずだった。放課後の掃除当番で、窓際のカーテンを束ねていたら、足元が急にぐらりと傾いて——そこから先の記憶がない。カーテンの布の感触だけが、まだ右手に残っている気がした。あの白い、洗いざらしの手触り。それが最後の「日常」の感触だった。
「……嘘でしょ」
自分の声が、やけに小さく路地に吸い込まれた。石壁が声を反射しない。まるでこの場所が、音ごと飲み込んでしまうかのように。制服のスカートに泥がこびりついている。膝を見ると、擦り傷から薄く血が滲んでいた。触れると、じわりと熱い痛みが指先から腕へ駆け上がる。痛い。夢じゃ、ない。
立ち上がろうとして、壁に手をついた。指先が震えていた。爪の間に入り込んだ砂利の感触が、嫌にはっきりしている。通りの向こうから人の気配がする。声も聞こえる——けれど、何を言っているのか分からない。日本語じゃない。英語でもない。聞いたことのない言葉が、遠くでざわめいている。抑揚の付き方が独特だった。語尾が跳ね上がるような、歌みたいなイントネーション。耳が必死に意味を拾おうとして、何もつかめないまま空回りしている。
路地の奥から出ようと一歩踏み出したとき、角を曲がって男が二人、こちらに入ってきた。
大柄な体格。汚れた革の上着。腰には鞘に収まった短剣がぶら下がっている。目が合った瞬間、男たちの顔に下卑た笑みが浮かんだ。何か言っている。分からない。でも、その声色と、こちらを値踏みするような視線だけで十分だった。片方の男の口元が歪んで、黄ばんだ歯が覗く。酒の匂いが風に乗って届いた。甘ったるくて、腐りかけた果実のような匂い。
後ずさる。壁に背中がぶつかった。行き止まり。苔むした石の冷たさが、肩甲骨を通じて背骨に染み込む。
片方の男が腕を伸ばしてきた。太い指が、私の手首を掴もうとする。爪の中まで汚れた、節くれだった指。
「やめて——」
叫んだ。日本語が通じないことなんて、その瞬間は考えもしなかった。ただ怖かった。呼吸が浅くなる。心臓が喉の奥まで跳ね上がって、視界の端が暗く滲む。身体の芯が凍りつくような恐怖の中で、胸の奥から何かがせり上がってくるのを感じた。
熱い。掌が、焼けるように熱い。
みぞおちの奥——身体の中心よりもっと深い場所から、溶けた金属が血管を駆け上がるような熱が腕を伝って指先に集まっていく。
見下ろす暇もなかった。両手から白銀の光が噴き出した。音もなく、前触れもなく、ただ圧倒的な光が路地を満たした。一瞬、世界が白く塗り潰される。影も色も奥行きも消えて、まぶたの裏まで焼きつくような閃光。
次の瞬間——轟音。
石壁が砕け、石畳がめくれ上がり、路地の半分が瓦礫に変わった。衝撃波が全身を叩き、耳の奥がきんと鳴る。砕けた石の破片が頬をかすめ、細い切り傷が一筋走った。男たちの姿はもうなかった。吹き飛ばされたのか、逃げたのか。白い粉塵が舞い上がる中、私はただ立ち尽くしていた。
自分の手を見た。指先がまだ淡く光っている。何。これ、何。
掌を裏返し、もう一度見る。光は少しずつ消えていく。蛍の灯が萎むように、指の一本一本から色が失せていく。手は震えていた。怖いのか、驚いているのか、自分でも分からなかった。ただ、胸の中にあった熱が嘘のように引いていくのだけは確かだった。あれほどの灼熱が、跡形もなく消えている。まるで最初からなかったかのように。
足元の石畳が陥没している。さっきまで壁だったものが、崩れた石の山になっている。これを——私が?
粉塵が晴れていく。路地の外から、怒号のような声が近づいてくる。金属が擦れる鋭い音。複数の足音。走っている。
逃げなきゃ。そう思ったのに、足が動かなかった。膝に力が入らない。何が起きたのか理解できないまま、ただ瓦礫の中に突っ立っている自分が、ひどく滑稽に思えた。
粉塵の向こうから、影が現れた。
最初に見えたのは、抜き身の剣だった。夕暮れの薄い光を受けて、刃が鈍く光っている。刃渡りは腕の長さほど。刃紋が流水のように波打ち、これが飾りではなく、幾度も実戦で振るわれた武器であることを物語っていた。次に、銀色の髪。短く切り揃えられた前髪の下に、鋭い目があった。整った顔立ちだけれど、柔らかさはない。鍛え上げられた体躯に、深い藍色の軍服。胸元に刻まれた紋章——交差する二本の剣と、その上に翼を広げた鳥の意匠——が、彼が単なる兵士ではないことを告げていた。
彼は剣を構えたまま、瓦礫の中心に立つ私を見た。
何か言った。低い声だった。質問しているような語尾。でも意味は分からない。
私は口を開いた。声が出なかった。喉がからからに渇いている。唾を飲み込もうとして、それすら満足にできなかった。
彼の目が、私の手元を見た。もう光は消えている。それから制服を見て——この世界には存在しないはずの仕立てと素材を見て——わずかに眉が動いた。ブレザーのボタン、プリーツスカートの折り目。彼にとっては見たこともない衣服のはずだった。
数秒だったのか、もっと長かったのか。沈黙の中で、彼と目が合った。
青い瞳だった。冷たい色なのに、そこに浮かんでいたのは敵意ではなかった。警戒は確かにある。けれどそれ以上に、困惑している——いや、私の目の中にあるものを確かめようとしているような、そんな眼差しだった。恐怖に強張った顔をした女子高生が、瓦礫のまん中で膝を震わせている。その光景から、彼は何を読み取ったのだろう。
彼は何かを判断したように、静かに剣を下ろした。
刃先が石畳を指す。構えを解いたその動作は、ほんの小さなものだった。けれど私には、世界の全部が少しだけ息を吹き返したように感じられた。止まっていた呼吸が、ようやく胸に戻ってくる。吸い込んだ空気が、粉塵混じりなのに甘く感じた。
銀髪の青年が、後ろに控えていた兵士たちに短く指示を出す。兵士の一人が走り去り、残りが瓦礫の周囲に散った。統制の取れた動きだった。彼の言葉一つで人が動く。この人は、ただの兵士じゃない。
青年が再び私に視線を戻した。今度は少しだけ声を落として、ゆっくりと何かを言った。言葉は分からない。でも、その声の温度は最初とは違っていた。問い詰めるのではなく、確認しているような——大丈夫か、と聞いているような、そんな響き。
私はようやく、一つだけ言葉を絞り出した。
「……助けて」
日本語だ。通じるはずがない。分かっている。でもそれしか、出てこなかった。母国語ですら、たった三文字を押し出すのが精一杯だった。
彼は一瞬、目を細めた。それから小さく頷いた。言葉が通じたわけではないと思う。けれど、私が何を求めているのかは伝わったのだろう。震える声と、縋るような目。言語の壁を越えて届くものが、確かにあった。
藍色のマントの裾が翻る。青年は踵を返し、ついてこいと言わんばかりに歩き始めた。
振り返らなかった。でも、歩調が少しだけ遅い。私に合わせてくれているのだと、ふと気づいた。
瓦礫を跨ぎ、崩れた路地を抜ける。見知らぬ空の下、見知らぬ街が夕焼けに染まり始めていた。橙と紫が入り混じった空が、石造りの街並みを柔らかく包んでいる。尖塔のある建物が遠くに見える。教会だろうか。空を鳥が横切っていく——けれどそれは、私の知っている鳥ではなかった。四枚の翼を持つ、虹色の小さな生き物。夕日を透かしたその翼が、硝子細工のようにきらめいて、一瞬だけ見惚れた。こんな状況でなければ、綺麗だと素直に思えたかもしれない。
ここは日本じゃない。それどころか、私の知っている世界ですらない。
銀髪の青年の背中を追いながら、私はまだ震えの止まらない手を、制服のポケットに押し込んだ。指先にスマートフォンの冷たい感触がある。画面を見る勇気はなかった。圏外の二文字が、きっとこの現実に止めを刺すから。
前を歩く青年の銀髪が、夕日に透けて淡く光った。この人が誰なのか、どこへ連れて行かれるのか、何一つ分からない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
あの掌から溢れた白銀の光——あれは間違いなく、私の中から出たものだった。そしてこの青年は、それを見てなお、剣を下ろした。
その意味を、私はまだ知らない。