第3話
第3話
夜明けの光が、東の窓から灰の帯となって差し込み始めた。
暖炉の最後の熾きが音もなく崩れ、その刹那だけ、燃え尽きた薪の奥にひそむ赤が、しなびた薔薇の花弁の色を思わせて立ち上がった。私は文机に凭れたまま、母の遺した管理権状を胸に抱いて、瞼だけを閉じていた。眠ったかと問われれば、否と答えるほかない。けれど起きていたかと問われても、首肯することはためらわれた。胸元の奥――砕けた首飾りを収めた絹のハンカチが、夜半を境に、ひっそりと温度を変え続けていたからだ。時に人肌より温かく、時にひやりと冷たく。まるで独りで呼吸をしているかのように、石の破片は私の左胸の薄い場所で、淡々と拍動を続けていた。
鳥の声がした。一羽だけ、東の庭のどこか、早咲きの欅の梢から。
十七年、毎朝聞いてきたはずのその声が、今朝に限っては、妙に遠くに感じられた。王都は間もなく目覚める。官衙の門が開き、伝令が石畳を蹴り、紙と蝋印の仕事が始まる。昨夜の大広間の騒動はすでに王家の耳に達し、父の耳にも――公爵邸の書斎の、青銅の文鎮の傍らにも、届いているはずだった。
ゆっくりと瞼を押し上げると、部屋は、昨夜よりも一段、静かだった。書棚の書物はすべて元の位置に戻り、化粧台の小瓶も並び直されている。けれどその静けさの底、床板の継ぎ目から、指ほどの幅の青白い光が一筋、うっすらと漏れ続けていた。絨毯を持ち上げてみれば、そこには、見慣れぬ紋様が薄く焼き付いているのだろう。
「……お母様」
声にならぬ声で、私は囁いた。
「私、どこまで、独りで行けるでしょうか」
胸の奥で、昨夜の答えの欠片が、まだかすかに鳴っていた。――独りで、立てる。ただそれだけが、今朝の私に許された真実のすべてだった。
* * *
扉を、遠慮がちな拳が叩いた。
「――お嬢様、マルタでございます」
返事までに、三つ数えるあいだの間を要した。息を整えるのに、それだけの時間が要る朝だった。
「お入り」
扉が、慎ましく開いた。
銀の髪に白いリボンを結んだ老侍女が、朝の盆を抱えて入ってくる。湯気を立てる薄荷茶、焼きたてのブリオッシュ、蜂蜜の小壺。私が幼い頃から同じ位置に置かれ続けてきた朝食の布陣を、マルタはひとつも違えなかった。昨夜の大広間のことも、母の遺した石のことも、まるで知らぬ顔で、いつも通りの盆をいつも通りの小卓に置く。
けれど、皺の深いその手が、ほんの一瞬、小卓の縁で止まった。
蜂蜜の小壺が、匙ごと、ふわりと一寸ほど浮き上がったのだ。
「……あら」
マルタは、まったく驚かなかった。小壺をそっと指で押さえ、匙の位置を直し、何事もなかったかのように木目の上へ戻した。
「お母様の、お力でございますね」
静かに、マルタは言った。
「――知っていたの」
「奥方様の侍女を、十六年、務めさせていただきました」
マルタは顔を上げ、紺色の瞳で私を真っ直ぐに見た。その眼には、昨夜の広間で私に向けられた百の視線のうち、どれとも違う色が宿っていた。同情でも好奇心でもない、ただ――長く守り続けてきた秘めごとを、今朝ようやく声にすることを許された者の、穏やかな諦めのような色だった。
「奥方様も、ご結婚の前にお式服を合わせられた朝、茶器が宙を舞ったことがございます。わたくしは、それは見事な舞でしたと申し上げました。奥方様はお笑いになって、『マルタ、あなたは怖がらないのね』と仰ったのです」
皺の寄った瞼が、一度、深く伏せられた。
「怖がる理由が、わたくしには、ついに、ひとつも見つかりませんでした」
盆の下から、マルタは二通の書状を取り出した。一通は封蝋が蒼く、もう一通は臙脂。
「こちらは、夜明け前に、レオンハルト様より。もう一通は、まだ、届いてはおりません」
「届いて、いない?」
「公爵家のお使者が、今しがた、城門をくぐられた由にございます。おそらくは、あと半刻ほどの後に、こちらへ」
半刻。
父からの書状は、すでにこの城の石畳の上を、こちらへ向かって歩き始めている。
私は、蒼い封蝋の書状を手に取った。蝋を割るために指を添えた瞬間、マルタの茶器から立ち上る湯気が、燭台の方角とは逆へ揺れた。部屋の空気が、また、私の脈に合わせて呼吸を始めている。マルタは湯気を目で追い、わずかに微笑んだ。咎めない微笑みだった。
封蝋は、家紋を押していなかった。氷の騎士と呼ばれるあの男は、印章を使うべき場面と使わぬ場面を、明確に分けているらしい。
短い一行だった。
『馬は、いつでも』
それだけ。――意味を咀嚼するために、私はもう一度、呼吸を整えなければならなかった。城を去る日の私の足のことを、彼はすでに考えている。昨夜、廊下で肩に外套を掛けたときから、あるいはもっと以前から、彼は、すでに。
書状を折り畳み、文机の抽斗へ仕舞った。
「マルタ」
「はい、お嬢様」
「衣装箪笥の一番奥、灰色の旅装束を出してくださる? 絹のドレスは、二、三枚を残して――あとは、あなたが良いようにして」
マルタの手が、一瞬、顫えた。けれど返事は、いつもと同じ調子に整えられていた。
「承知いたしました」
* * *
マルタが衣装箪笥へ向かう背を見ながら、私は立ち上がった。
脚の震えは、もう、ほとんど残っていなかった。
窓辺に寄り、銀の留め金を外して、両開きの硝子を静かに押し開ける。朝の冷気が、絹のガウンの襟を鷲掴みにし、首筋の熱を一息に攫っていった。東の空は、薔薇色と乳白の縞が重なり合い、城壁の向こうの尖塔を、血と骨の両方の色で縁取っている。
息を、ゆっくりと三度、吸った。
そして、右の掌を、自分の前に、晒してみせた。
指の節から、昨夜と同じ青白い光が、恥ずかしげに立ち昇る。けれど今朝の私は、それを、見つめ続けた。逃げず、抑え込まず、ただ――あなたは誰、と問うように、じっと。光は脈拍に合わせて揺れ、少しずつ、形を帯び始めた。
掌の上に、薄い紋様が浮かんだ。
円環の中に、七枚の花弁を持つ、一輪の花。
見覚えのない意匠のはずだった。けれど、どこかで、確かに、見たことがあった。幼い日、母の寝室の祭壇を飾っていた古い刺繍の中に。結婚式の聖典の、いちばん奥の頁に。――いや、もっと近い場所に。
母の左手の、人差し指の腹。
そこに、生まれつきの薄い痣のような紋があった。私が幼い頃、それを指先でなぞりながら、「これは、お母様の守り」と低く呟いた、あの吐息混じりの声を、今、唐突に、私は思い出した。
花弁の数が、七枚だったのだ。
長く、息を、吐いた。
掌の上の光は、ゆっくりと指の間へ滲み、やがて、肌の下へと静かに収まっていった。受け入れられた、という感覚だった。奪われたのでも、奪ったのでもない。母の遺したものを、私が、私の身体の内側に、自分の意思で迎え入れたのだ。熱はなく、冷えもなく、ただ一本の細い絹糸を丁寧に巻き取るような、ひそやかな充足だけが、胸の底に残った。
「お嬢様」
マルタが、灰色の旅装束を胸に抱えて、振り返った。
「只今のお力は――」
「お母様の、守りでした」
自分でも、その断定の確かさに驚きながら、私は答えた。
「お母様は、私を、独りで旅立たせるために、あの石の奥に、これを遺してくださったのだと思います」
マルタは、深く、息を吐いた。安堵でも憂いでもない、長く閉じ込められていた何かがようやく行き場を得た、そういう類の息だった。
旅装束を衣装架にかけ、マルタは姿見の前に立つ私の背後へ回った。夜会の装束の、きつく結ばれた絹紐を、一本ずつ、慣れた手つきで緩めていく。昨夜、私を公爵家の娘として束ねていた布の束が、今、音もなく、私の足元へ降りていった。
私は、鏡の中の、素のままの自分の肩を見た。
春の冷えを帯びた素肌は、まだ若く、そして、まだ、何ひとつ、損なわれてはいなかった。
* * *
扉の向こう、遠い廊下から、足音が聞こえ始めた。
一人ではない。二人、三人――革の長靴の踵が石を打つ、重く、急がぬ足音。公爵家の紋章を帯びた従者の、あの独特の歩幅だった。七年間、私の生家からの使いを迎え続けてきた耳は、その調子を決して聞き違えない。
マルタが、旅装束を抱えたまま、扉の方角へ目を遣った。
私は窓を静かに閉じた。朝の冷気が、部屋の内側で、鳥肌の名残だけを残して消えていく。絹のハンカチを胸元から取り出し、砕けた首飾りの破片を、今度は掌にひとつだけ、握り込んだ。
「お嬢様」
「ええ」
背筋を、伸ばした。昨夜、砕けた石と引き換えに取り戻した一本の背骨が、朝の光の中で、もう一度、あるべき位置へと、静かに収まる。
足音は、もう、私の居室の扉のすぐ外に迫っていた。
「――お迎えいたしましょう、マルタ」
扉を、慎ましい拳が、三度、叩いた。