第2話
第2話
月明かりの回廊を三つ曲がり、私の居室の扉が見えてきた頃、レオンハルト卿の足音は絶妙な間合いで私の背後を進んでいた。早すぎず、遅すぎず。護衛というより、倒れかけた者を支えるための備え――そうとでも呼ぶべき距離感。
舞踏会の喧騒はもう遠く、絨毯の敷かれていない石造りの回廊には、私のヒールの音と、彼の踵金具の音だけが、わずかにずれて重なっていた。
扉の前で、私は振り返った。
「こちらで結構ですわ、レオンハルト卿」
レオンハルト卿は答えず、ただ私の顔を見ていた。広間で私の指先から漏れた光について、宮廷の者なら誰もが我先にと問い質したはずのことを、彼は一度も問わなかった。
「外套は、明朝お返しいたします」
「明日で構わない」
短く、レオンハルト卿は答えた。
「今夜の風は、貴族令嬢が独りで耐えるには冷えすぎる」
感謝の語が喉まで上がり、そのまま飲み込んだ。声にすれば、角の取れた泣き声になる。代わりに、令嬢教育で磨き抜いた浅い礼だけを、私は彼に差し向けた。
「では、明日」
「――ああ」
厚い木の扉を閉めた。
背をその板に預けた途端、膝が折れた。絹の裾が緋色の絨毯の上に花びらのように広がり、私は座り込んだまま、浅い呼吸を幾度も繰り返した。
鉄と革の匂いが、借り受けた外套の肩から微かに立ち上り、この居室にはいっそ場違いな残り香として居座って、宮廷の甘い空気を一つずつ押し退けていく。
ドレスの胸元に、指先を差し入れる。生地越しに、砕けた石の稜角が指の腹を刺した。
母の、形見だった。
* * *
居室の蝋燭はすでに落としてあったが、月光が石造りの窓から充分に差し込んでいた。青白い光の中で、鏡台、文机、寝台の四本柱、すべてが見慣れた輪郭を保っている。何も壊れていない。広間で私の身体から溢れた奔流も、この部屋までは届かなかった。
壁の時計が、十一時を告げた。
震える指で胸元の金具を外し、砕けた首飾りを両手に乗せた。青い石は三つに割れ、細い銀鎖の内側で小さく震えている。石そのものが震えているのか、私の掌が震えているのか、もう判別はつかなかった。
『リーゼロッテ。この石を、あなたの肌から離してはなりません』
十二の歳、母がそれを私の首に結んでくれた日のこと。あのときの母の指はひどく冷たくて、けれど声はいつもどおり穏やかだった。
『そして、この石が割れる日が来たら――あなたは独りで、決めねばならないのよ』
何を決めるのか、母は教えてくれなかった。その三月後、母は流行り病で逝った。石は私の胸で生き続け、婚約の七年、王太子の隣に立つ式典の数々を、黙って耐え共にしてくれた。
今夜、石は割れた。契りとともに。
「……勝手に、砕けないでくださいませ」
自分のものとは思えぬ、掠れた声が漏れた。
「まだ、お母様の声を、聞いていたかったのに」
胸の奥で、あの冷たい指の感触を、もう一度だけ再生しようとした。十二歳の私の首筋を、銀鎖が一周していく時の、あの微かなくすぐったさを。結び目を確かめる母の吐息が、耳たぶに温かくかかったことを。けれど記憶の襞はすでに摩耗しきっていて、母の指は、どうしても輪郭を取り戻さなかった。残されたのは、七年前に自分が覚えたはずの感覚の、やせ細った残響ばかりだった。
石の破片を握りしめた瞬間、掌から淡い燐光が滲み出した。広間で見たのと同じ、青白い光。けれど今、それは誰にも制御されず、私の意思を待たずに、ひとりでに鼓動していた。
指の節から手首、肘の内側へと、光の筋は細い川のように広がった。絹の手袋の縫い目を、青白い紋様が裏側から透かし上げ、それはあたかも自分ではない誰かが、私の皮膚の下でゆっくりと呼吸しているかのようだった。熱もなく、冷たさもなく、ただ脈々と在るだけの輝き。血の通い方が、七年ぶりに違う色で変わったような、そういう類の生々しさが、骨の芯までじわりと沁みていく。喉の奥で、理由もなく甘い味がした。
蝋燭立てが、音もなく床から三寸ほど浮いた。
書棚の最上段の書が、背表紙を揃えて並び替わった。
化粧台の小瓶が、一本、二本と空中に浮かび上がり、緩やかに螺旋を描いて踊り始める。
硝子と硝子が触れ合う、鈴のような微かな音色が月光の中を滑り、絨毯の毛足を撫でる風の動きまでが、いつもとは違う旋律で渡っていく。部屋そのものが、私の胸元の石と呼応して、ひそやかに呼吸を始めていた。気配だけが満ちて、重さがない――そんな異様な静けさが、耳の奥で鳴っていた。
私は座り込んだまま、呼吸を止めた。
自分の中にある何かが、七年分の抑圧を取り戻すかのように、勝手に動いている。怒りでも、悲しみでもない。――ただ、出たいのだ、この力は。
『誰にも、知られてはなりません』
母の声が、記憶のどこからか、鋭く響いた。
爪が掌に食い込み、石の稜角が皮膚に喰い入った。
その痛みだけが、今夜この身体を所有しているのが私自身であることを、辛うじて証明してくれる錨だった。血が一滴、白い絹の手袋の内側を走り、掌の熱と溶けて、細い筋となって指の股へ流れ込む。私は息を、ゆっくりと長く吐き出した。母の声が遠ざかるたびに、部屋の呼吸も、わずかずつ穏やかになっていった。
* * *
立ち上がろうとして、脚に力が入らなかった。両手で床を押し、爪先で絨毯を踏みしめて、ようやく身を起こす。
鏡台の前に立った。
鏡の中の私は、夜会の装束のまま、銀の髪を結い上げたまま、ヴァイスブルクの娘として恥ずかしくない姿を保っていた。けれど両の指先から漏れ出る淡い光までは、隠せていなかった。
頬にはまだ広間の紅が残り、睫毛の縁には乾ききらぬ涙の気配が溜まっている。けれど眉の線だけは、母譲りの、誰にも折れない直線を保っていた。私は鏡面に一歩近づき、吐息で曇った銀の面の向こうに、七年前の自分の面影を探そうとして、やめた。あの娘はもう、どこにもいない。ただ、今この鏡の前に立っている女が、これから一人で歩いてゆくのだ、という事実だけが、硝子の冷たさと共に額に返ってきた。
深く、息を吸った。
吸うたびに、光は強くなった。吐くたびに、わずかに鎮まった。つまりこれは、呼吸のような何かなのだ、と私は思った。恐れれば荒れる。鎮めれば収まる。母が私に教えようとして教えきれなかった器の使い方を――封印の内側で静かに眠っていたはずの、この力の扱いを――私は今から、独りで学ばねばならない。
「止まって」
空中を旋回する小瓶に向かい、静かに囁いた。
「元の位置へ、戻ってくださいませ」
小瓶は一瞬だけ空中で震え、それから緩やかに化粧台の上へ降りていった。正しい位置に、正しい順序で。蝋燭立ても、書も、元の場所に静かに戻っていく。
硝子と木と紙とが、それぞれに異なる囁きで、順繰りに沈黙へと身を沈めていく。最後の小瓶が化粧台の大理石に触れた瞬間、微かな陶酔のようなものが私の指先を走り抜け、直後に訪れた深い脱力が、膝の裏をまた震わせた。支配した、という感覚ではなかった。むしろ、大きな獣の首筋にほんの一瞬だけ掌を置かせてもらった、そういう類の畏れが、胸の奥に一滴、残った。
息を、吐いた。
制御できたわけではない。今のは、この力がたまたま私の言葉を聞いてくれただけ。そのことを、自分が一番よく分かっていた。
けれど――
――私は、独りで立てる。
その確信が、ドレスの胸元からふいに立ち上ってきた。七年間、私の身から抜けていた背骨が、今夜、砕けた石と引き換えに戻ってきたように。
肩が、七年ぶりに本来の高さへと戻った。背筋を張るという所作を、私は長らく儀礼としてのみ行ってきた。けれど今夜、背骨の一本一本が、内側から静かに押し上げられるようにして、あるべき位置に収まっていく。呼吸が深くなる。胸郭が広がる。それは誰かに教えられて覚えた形ではなく、幼い頃の私自身が、疾うに忘れていた立ち方だった。鏡の中の女は、初めて、その肩に自分の重みを載せていた。
鏡の中の自分に、私はもう一度、完璧な礼をして見せた。
「おやすみなさいませ、リーゼロッテ」
王太子の婚約者だった娘に、別れを告げた。
それから、結い上げた銀の髪に差し込まれた真珠の髪飾り――婚約の証として殿下から贈られた一対の髪飾りを、一本ずつ丁寧に外した。もう一方の手袋と並べて、化粧台の上に置く。明朝、城を去るとき、この部屋から持ち出さない品々だった。
* * *
暖炉の薪は、いつ燃え尽きたのか音も立てずに崩れていた。窓の外で、夜明けの一番鳥が早くも鳴き始めている。王都の東の空が、わずかに藍を含み始めていた。
朝が来れば、父から書状が届くだろう。公爵家の名で、王家の不興を買った娘をどう扱うかを告げる、短い書状が。私は静かに読み、静かに答える覚悟だった。
床板の上、砕けた首飾りの破片がまだ淡く光を帯びていた。拾い上げ、絹のハンカチに包み、嫁入り支度の箱の底へ仕舞う。もう胸には戻さない。この力は、母に守られるためのものではなくなったのだから。
文机の抽斗から、亡き母が遺した北方辺境――痩せた小領地の管理権状を取り出した。紙は色褪せ、蝋印の臙脂だけが、まだ生々しい血のように濃かった。
私はそれを胸に抱き、夜明けを、待った。