第1話
第1話
春の舞踏会の夜、私の人生は終わった——と、周囲の誰もが思ったことだろう。
大広間の中央、何百もの燭台が黄金の光を注ぐ華やかな空間で、第二王子アルベルト殿下は朗々と宣言なさった。
「リーゼロッテ・フォン・ヴァイスブルク。私はあなたとの婚約を破棄する」
シャンデリアの硝子片が揺れて、微かな音を立てた。それとも、あれは私の耳鳴りだったのかもしれない。
広間を埋め尽くす貴族たちの間にさざ波が広がる。扇の陰に隠された囁き、好奇の視線、そして——隠しきれない嘲笑。私はそのすべてを、まるで他人事のように受け止めていた。
「エミリア・ランドルフこそ、真の聖女の資質を持つ乙女である。私の伴侶にふさわしいのは彼女だ」
アルベルト殿下の隣で、男爵令嬢エミリアが控えめに目を伏せている。薄い亜麻色の髪を揺らし、いかにも「私は望んでいないのに」という顔を作って。あの仕草を、私は何度も見てきた。茶会で、園遊会で、殿下の目がある場所ではいつも。
広間の空気が、私の返答を待っている。
私は背筋を正した。コルセットが肋骨を締め付ける感覚が、むしろ今は心地よい。身体の芯に一本の鋼を通してくれるようで。
「承知いたしました、殿下」
自分でも驚くほど、声は凪いでいた。
「長きにわたるご厚誼に、心より感謝申し上げます」
深く、優雅に、一分の隙もない礼を取る。ヴァイスブルク公爵家の令嬢として、十二の歳から叩き込まれた所作。最後くらい、完璧に。
左手の絹の手袋に指をかけた。婚約の証として殿下からいただいたもの。純白の絹に金糸で王家の紋章が刺繍された、美しい手袋。
一枚、二枚。丁寧に外し、両手で捧げるようにして差し出す。
「お返しいたします」
殿下の手が手袋を受け取る。その指先が一瞬だけ躊躇ったことに、私は気づいた。けれど、もう遅い。
手袋を外した素手の指先が、ほんの刹那、淡い光を帯びた気がした。気のせいだと思った。胸元の首飾り——亡き母の形見の青い石——が微かに熱を持ったことも、この場の緊張のせいだと。
広間の隅、柱に寄りかかるようにして立っていた一人の男が、わずかに目を細めた。騎士団長レオンハルト・ヴェルナー。氷の騎士と呼ばれる彼が私の指先を見ていたことを、この時の私はまだ知らない。
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「まあ、可哀想なリーゼロッテ様」
振り返らずに広間を出ようとした私の背中に、その声は投げかけられた。エミリアだった。
「お辛いでしょうに……。私、何かお力になれることがあれば——」
芝居がかった同情。声には甘い蜜が塗られ、しかしその下に棘が潜んでいることを、私は知っている。この三年間、何度この手の慈悲を浴びせられてきたことか。殿下の前では清楚な微笑みを絶やさず、私と二人きりになると一転して冷ややかな目で値踏みするように見つめてくる——あの二面性を、私以外の誰が知っているだろう。
広間中の視線が再び私に集まる。ここで取り乱せば、エミリアの筋書き通りだ。哀れな元婚約者が、聖女様の慈愛に縋る構図。
「お気遣いに感謝いたします、エミリア様」
微笑んだ。完璧に。
「どうぞ殿下をお支えくださいませ。王国の未来は、真の聖女の双肩にかかっておりますもの」
エミリアの笑顔が一瞬だけ強張った。私の言葉の中に仕込んだ毒に気づいたのだろう。「真の聖女」——その称号の重さが、いずれ彼女を押し潰すことになる。聖女には王国を守る義務が伴う。治癒の儀式、結界の維持、魔獣災害への対応。そのすべてを担う覚悟が、この娘にあるのかしら。
けれどそれは、もう私の憂慮すべきことではない。
踵を返した。大広間の扉へ向かう私の足取りは、我ながら見事に安定していた。背中に感じる幾百の視線。同情と嘲りと、そしてごく少数の——怒りに似た何かを含んだ眼差し。
七年だった。
十の歳で婚約が決まり、十七の今日まで。殿下のお好みの茶葉を覚え、苦手な政務の補佐を務め、社交界では殿下の評判が傷つかぬよう細心の注意を払い続けた七年。その年月が、たった数言で灰になった。返された手袋の感触すらもう思い出せないのに、殿下に初めて茶を淹れた日の緊張だけは、なぜかまだ胸の奥に残っている。
大広間の扉に手をかけたとき、ふと、身体が軽くなったことに気づいた。
肩に乗っていた重石が消えている。義務という名の鎖。期待という名の枷。王妃になるために抑え込んできた、私自身のすべて。
ああ、と思った。
——ようやく、自由になれる。
その感情が胸の奥から湧き上がった瞬間、首飾りの青い石に亀裂が走った。
微かな、硝子が割れるような音。
広間の燭台が、一斉に揺れた。黄金の炎が青白い光に染まり、石床に見たこともない紋様が浮かび上がる。光の筋が蔦のように壁を這い、天井を駆け、大広間全体を包み込んでいく。
私は自分の両手を見下ろした。指先から淡い光が溢れている。止められない。止め方を知らない。光は脈拍に合わせるように明滅し、心臓が一つ打つたびに強さを増していく。腕を伝い、肩を通り、全身が薄い燐光に包まれていく感覚。熱くはない。むしろ深い湖の底に沈むような、冷たく澄んだ力の奔流だった。
「な——何だ、これは!」
アルベルト殿下の声が裏返る。エミリアは顔から血の気を失い、その場にへたり込んだ。宮廷魔術師の長が目を見開いている。
「古代防護結界……。まさか、これは伝承にある——」
ざわめきが広間を満たす。だが私の耳には、別の音が聞こえていた。亡き母の声だ。幼い日、首飾りを着けてくれたときの、あの穏やかな声。
『リーゼロッテ。この力を、誰にも知られてはなりません』
ごめんなさい、お母様。私は心の中で呟いた。もう、隠しきれないようです。
光が収まるまでの数十秒は、永遠のように長かった。紋様が薄れ、燭台の炎が元の色に戻っていく。けれど広間の空気は決定的に変わっていた。
私は努めて平静を装った。
「失礼いたしました。少々、取り乱したようです」
嵐のような沈黙の中、私は扉を開けて広間を出た。背後で誰かが息を呑む音がした。エミリアの聖女としての権威が、今この瞬間に、根底から崩れ始めたことを——広間にいた全員が理解していた。
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廊下は嘘のように静かだった。
舞踏会の喧騒が厚い扉の向こうに遠ざかり、月光だけが石造りの回廊を照らしている。私はようやく、仮面を下ろした。
震えていた。膝が、指先が、唇が。あの光は何だったのか。首飾りの中で眠っていた母の遺産——聖女の力。それが今、封印の器を砕いて溢れ出した。
自分の身体の中に、制御できない奔流がある。その恐怖に、私は歯を食いしばった。
「夜風が冷える」
声と共に、肩に重みが乗った。
振り返ると、騎士団長レオンハルト・ヴェルナーが立っていた。銀灰の髪を無造作に流した長身の男。その手が、黒い外套を私の肩にかけている。
「レオンハルト卿」
「騒ぎを見ていた」
それだけだった。聖女の力について問い質すでもなく、事情を聞くでもない。ただ外套を渡し、廊下の先——私の居室へ続く方角に視線を向けた。護衛するように、半歩後ろに立っている。
この人はいつもそうだ。宮廷の社交には興味を示さず、舞踏会でも壁際で腕を組んでいるだけ。氷の騎士と呼ばれ、感情を見せない人。
けれど今、彼の差し出した外套は温かかった。体温が残る黒い布地から、かすかに鉄と革の匂いがした。剣の手入れに使う油の香り。宮廷の甘い香水に慣れた鼻には不思議と心地よく、その素朴さがかえって今の私には救いだった。
「……感謝いたします」
声が掠れた。泣いてはいない。泣くものかと思った。ヴァイスブルクの名は今夜限りで私から剥がれるかもしれないが、母が教えてくれた矜持だけは手放さない。
レオンハルト卿は何も言わず、私が歩き出すのを待って、その後ろをついてきた。
月明かりの回廊に、二つの足音だけが響く。
胸元で、砕けた首飾りの破片がかすかに光っていた。封印は解けた。もう元には戻せない。明日、この城で私を待つものが何であれ——王家の怒りか、公爵家の断罪か——私は自分の足で立たなければならない。
角を曲がる直前、ふと振り返った。
レオンハルト卿の灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見ていた。そこに浮かんでいたのは、同情でも好奇心でもなく——。
何か、静かな決意のようなものだった。
その意味を知るのは、もう少し先のことになる。