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銀糸の暗号と北方の公

第3話 第3話

第3話

第3話

母の刺繍は、暗号だった。

その確信は、一晩の眠りを経ても薄れるどころか、いっそう鮮明になった。公爵邸の自室に戻り、窓辺の書き物机に角灯を置いて、ドレスの裏地と向き合い続けた。灯芯が時折はぜる小さな音だけが、静まり返った部屋に時の流れを刻んでいた。夜が白み始め、中庭の小鳥が最初のさえずりを零す頃になっても、私は針目を追う指を止められなかった。

四色の銀糸——銀、白銀、灰銀、青銀。その配列を羊皮紙に書き写していくと、花弁ごとに四種の記号が現れた。一つの花に五枚の弁があり、各弁の糸色の組み合わせが一つの符号を成している。野薔薇と忘れな草が交互に並ぶ構成は、符号と符号の区切りを示す句読点の役割を果たしているようだった。角灯の光を傾けるたびに、銀糸の微妙な色差が浮かび上がり、書き写す手が自然と速まった。

これは単なる換字式暗号ではない。

母が王宮図書館の司書であったことを思い出す。古今の文献を渉猟し、失われた言語の断片を繋ぎ合わせることに情熱を注いでいた人。幼い私を膝に乗せて、「言葉は隠れるのが上手なのよ」と笑っていた母。日だまりの匂いと、古い紙の匂い。あの穏やかな声と一緒に記憶に染みついた、書斎の空気の温もり。頁をめくる母の細い指先に、今の私と同じインクの染みがあったことまで、不意に思い出される。あのとき見せてくれた古い写本の頁に、似た記号の体系があったような気がする。四つの要素を組み合わせて意味を成す、王国の黎明期に使われていたという——

「ルーネンブルク式暗号」

声に出した途端、記憶の底から浮かび上がるものがあった。母の書斎——今は後妻によって客間に変えられてしまった部屋——の本棚に、背表紙の金文字が褪せた一冊があった。『北方古語と暗号体系の研究』。母が何度も開いていたその本の中に、四元素を基盤とする古い符号の解読表が載っていたはずだ。

記憶を頼りに、羊皮紙の上で糸色と符号を対照させていく。銀を第一元素、白銀を第二、灰銀を第三、青銀を第四として——花弁五枚の配列を一つの音節に読み替えると、文字の連なりが浮かんだ。

最初の野薔薇の花群。七つの花が並ぶその配列を、震える指で一つずつ変換していった。

——「北の離宮」

息を呑んだ。羽根ペンの先から墨が一滴、羊皮紙の端に落ちたことにも気づかなかった。次の忘れな草の群れを読む。

——「銀の書架」

そして三つ目の花群。

——「第三の扉」

北の離宮、銀の書架、第三の扉。

母は何かの在処を示している。北の離宮とは、王都から遠く離れた北方辺境にあるという、今はもう使われていない王家の別邸のことだろうか。銀の書架という言葉には、文献の保管場所を思わせる響きがある。母はそこに何を隠したのか——あるいは、そこにある何かを私に見つけさせようとしているのか。

けれど、暗号はここで途切れた。

四つ目以降の花群は、冒頭の三群とは符号の構造が異なっていた。同じルーネンブルク式の基盤を使いながら、変換の鍵が途中で切り替わっている。母は暗号を多層構造にしていたのだ。第一層の鍵で読めるのは冒頭の道標だけ。その先に記された本当の内容を解くには、第二層の鍵が要る。

そしてその第二層の鍵は、私の記憶の中にはなかった。

母の蔵書があれば手がかりが得られたかもしれない。だが後妻のマルガレーテが母の書斎を片付けたとき、蔵書の大半は古書商に売り払われたと聞いている。残された数冊を探し出せたとしても、ルーネンブルク式暗号の多層構造を解説した文献が含まれている保証はない。

確実なのは一つ。北方辺境のノルトハーフェンには王国最古の古文書館があり、ルーネンブルク式暗号の原典とされる文献が収蔵されているという話を、母がかつて語っていた。第二層の鍵を見つけるには、あの古文書館の蔵書を調べるしかない。

だが——北方辺境。王都から馬車で七日の道のり。

婚約を破棄された公爵令嬢に、旅の手段などあるはずもなかった。旅費も護衛も、社交界の紹介状すら持たない。昨夜までは王太子妃候補として国中の扉が開いていたこの身が、今朝にはどこにも行き場のない身の上に変わっている。暗号の先を読みたいという切望と、それを阻む現実との間で、指先が無意識にドレスの裏地を握りしめていた。

そのとき、部屋の扉が叩かれた。ノックというよりは通告に近い、短く硬い音だった。

「リーゼロッテ、入りますよ」

返事を待たずに扉が開いた。マルガレーテだ。後妻である彼女は父より十ほど年下で、蜂蜜色の巻き毛と柔らかな微笑みの奥に、絹で包んだ鉄の意志を持つ女性だった。今朝はその微笑みすら省略して、冷ややかな目で室内を一瞥した。彼女が纏う百合の香水の匂いが、朝の空気を硬く塗り替えた。

「昨夜のこと、もう宮廷じゅうに知れ渡っておりますわ」

「存じております」

「あなたのお父様も、大変お心を痛めていらっしゃいます」

心を痛めている。その言い回しに苦い笑いがこみ上げた。父はカールとの婚約が決まった日にも、母が亡くなった日にも、同じ表情で同じように目を逸らしていた。心を痛めることと、行動を起こすことの間には、父の中では果てしない距離がある。いつだって父は、嵐が通り過ぎるのを書斎で待つ人だった。

マルガレーテの視線が書き物机の上に留まった。広げられたドレスと、符号を書き連ねた羊皮紙。怪訝そうに眉を寄せたが、追及はしなかった。もとより彼女の関心は古い暗号などにはない。

「単刀直入に申しますわね。ヴァイスハウプト家の体面を考えれば、婚約破棄された令嬢がいつまでもこの邸にいるわけにはまいりません」

予想していた言葉だった。それでも、こうも早く切り出されると息が詰まる。喉の奥がきつく締まり、次の呼吸を取り込むまでに一拍の間が必要だった。椅子の肘掛けに置いた手が、知らず白くなるほど力がこもっていた。

「お父様のお考えでは——」

「フリーデンベルク修道院に入られるのがよろしいかと。山間の静かなところですし、世間の目からも離れられます」

修道院。社交界から消えた令嬢の行き先としては、もっとも穏便な選択肢ではある。しかしそれは事実上の幽閉だ。俗世との接触を断たれた修道院の壁の内側に入れば、北方辺境の古文書館はおろか、王都の古書商を訪ねることすらかなわなくなる。母の暗号は永遠に解かれぬまま——。

「お支度の期限は三日後。お父様もそれで承知なさっています」

「父がご自分のお口で仰らないのですね」

声は平静を保ったつもりだった。けれどマルガレーテの目が一瞬だけ揺れたのは、私の声の底に走った刃を感じ取ったからかもしれない。

「お父様はお忙しいのです。あなたも大人でいらっしゃるのだから——」

「承知いたしました。三日ですわね」

遮るように答えた。これ以上この人の前で感情を滲ませたくなかった。マルガレーテは一瞬何か言いたげに唇を開きかけたが、結局は小さく頷いて部屋を出ていった。扉が閉まる音が、判決の槌のように響く。廊下を遠ざかる彼女の足音が完全に消えるまで、私は息を止めたまま動けなかった。

三日。たった三日で、すべてが閉じる。

書き物机の上に広げられたドレスの裏地を見下ろした。銀糸の花模様が角灯の光を受けて鈍く光っている。「北の離宮、銀の書架、第三の扉」——母が遺した道標は、今の私には手の届かない場所を指し示していた。

羊皮紙の符号の列を指でなぞる。第二層の暗号は沈黙したまま、その先に何が綴られているのかを明かそうとしない。北方の古文書館に行かなければ読めない。けれど北方に行く手段がない。修道院の壁が、三日後に私と母の秘密との間に立ちはだかる。

窓の外では、公爵邸の庭園で庭師が薔薇の枝を剪定していた。乾いた鋏の音が規則正しく響く。切り落とされた枝が地面に落ちるたび、小さな埃が朝日の中に舞い上がる。あの薔薇のように——不要と判断されたものは、切り落とされて終わるのだろうか。

そう思いかけたとき、階下から侍従の声が聞こえた。控えめだが、どこか緊張を含んだ声音。来客を告げている。

「リーゼロッテお嬢様、お手紙が届いております。——差出人のお名前は記されておりませんが、封蝋の紋章は北方辺境のものかと」

北方辺境。

心臓が、強く脈を打った。ドレスの裏地に綴られた道標と、今まさに届いた手紙の出処が、一本の糸で繋がったような感覚が胸を貫く。偶然にしてはあまりに——。

私は書き物机の上の羊皮紙にそっと布を被せ、部屋を出た。

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