第2話
第2話
足音を殺すために、まず靴を脱いだ。
絹の室内履きを片手に持ち、素足で石の廊下を歩く。足裏に冬の名残のような冷たさが走ったが、かえって意識が研ぎ澄まされた。燭台の火は三つに一つしか灯されておらず、壁の影が濃い帯となって廊下を区切っている。あの影から影へ渡るように進めば、巡回の衛兵に見咎められる恐れは少ない。
王宮の夜は、昼とは別の顔を持つ。大広間の華やぎが嘘のように、回廊には静寂と石灰の匂いだけが満ちている。どこか遠くで時計塔の鐘が一つ鳴った。深夜一時。大広間の夜会はまだ続いているはずだった。カールと男爵令嬢の——いえ、あちらのことはもう考えまい。今の私が考えるべきは、地下への道筋だけだ。
階段の手前で足を止めた。石段は螺旋を描いて地下へ降りている。壁に嵌め込まれた鉄製の燭台には蝋が半分ほど残っており、かろうじて二、三段先までを照らしていた。その先は闇だ。蝋燭の炎が微かに揺れ、壁に映る自分の影が不規則に伸び縮みする。まるで先を行く誰かが手招きしているようで、背筋に小さな寒気が走った。かつて社交の教本で読んだ一節が脳裏をよぎる——「淑女の足は、地下に向かう階段を知らぬもの」。今夜の私は、その教えに背くことになる。
一段目に足を置いた瞬間、石の角が足裏に食い込み、小さく顔をしかめた。靴を脱いだことを後悔する暇もなく、螺旋は私を飲み込んでいく。一段降りるごとに空気が重くなり、地上の乾いた冷気が、湿り気を帯びた土の匂いへと変わっていった。壁に触れた指先が湿っている。石と石の継ぎ目から滲み出た水滴が、長い年月をかけて筋をつくり、それが燭台の微かな光を受けて黒い血管のように壁面を走っていた。
螺旋階段を降りきると、天井の低い通路に出た。壁の石組みが粗くなり、空気に微かな黴の匂いが混じる。天井が近い。手を伸ばせば指先が冷たい石に触れてしまうほどで、息をするたびに地下特有の湿った重さが肺に沈む。ここから先は使用人の領分だ。貴族の足が踏み入れることを想定していない造りで、通路の幅も狭い。スカートの裾が両側の壁を擦り、絹が石に引っかかる小さな音がやけに大きく響いた。
通路の突き当たりに、木製の扉があった。鍵はかかっていなかった。
廃棄庫は思いのほか広かった。
天井から吊るされた角灯が一つだけ、薄い橙色の光を落としている。その下に、小さな山のように積み上げられた品々が見えた。衣装箱、割れた鏡台、脚の欠けた椅子、黄ばんだレース布——王宮の栄華の残骸が、処分を待って沈黙している。壁際には衣装掛けが並び、色褪せたドレスが幽霊のように吊るされていた。
目が慣れるにつれ、部屋の全容が浮かび上がる。奥行きは十歩ほど。右手の壁に沿って衣装箱が積まれ、左手には木枠に布を被せただけの簡素な棚がある。その棚の上段に、見覚えのある銀の光沢が微かに覗いていた。
あった。
月白の絹と銀糸——母の刺繍が施されたドレス。衣装袋にも入れられず、無造作に棚に載せられている。明日にはこの場所からも消えるはずだった布の塊が、角灯の光を受けて鈍く輝いていた。
手を伸ばしかけた、その瞬間だった。
衣装箱の陰から、がさりと音がした。
息が止まった。反射的に身を引き、衣装掛けの影に滑り込む。色褪せたドレスの裾が頬に触れた。埃と古い香水の残り香が鼻を刺す。心臓が喉元まで跳ね上がり、耳の奥で自分の脈拍だけが異様に速く鳴っている。
音の主が立ち上がった。角灯の光に照らされたのは、下級侍女の装いをした若い女だった。質素な灰色の衣服に白い前掛け。両腕に抱えているのは、廃棄品の中から選り出したらしい端布やレースの切れ端だ。侍女は怯えた兎のような目であたりを窺い、こちらの気配を探っていた。
処分品の横流しか、あるいは自分の繕い物に使うための持ち出しか。いずれにせよ、見咎められれば侍女の立場では解雇では済まない。つまり彼女もまた、ここにいてはならない人間ということになる。
私たちの目が合った。
侍女が息を呑む音が聞こえた。暗がりの中でも、私の衣服が侍女のそれとは明らかに異なることは分かるだろう。侍女の顔が蒼白になり、抱えていた端布を取り落としそうになるのが見えた。
「っ——」
声を上げかけた侍女に、私は人差し指を唇に当てた。
「お静かに」
囁くような声で言った。命令ではなく、共犯者への合図として。
「私はここにいなかった。あなたもここにいなかった。——それでよろしいかしら」
侍女が目を見開いた。この状況で取り乱さず、ましてや叱責もせずに共犯を提案する人間が現れるとは思っていなかったのだろう。数秒の沈黙のあと、侍女はこくりと頷いた。
「は、はい——お嬢様」
「リーゼロッテ、と。お嬢様と呼ばれるような身分は、今夜をもって失いましたので」
口元に薄い笑みが浮かんだのを自分でも感じた。奇妙なことに、身分を笑い飛ばす言葉が思いのほか軽やかに出た。もう守るべき体面がないというのは、こういう自由を含んでいるのかもしれない。
侍女は——歳は私より少し下だろうか、そばかすの浮いた丸い頬をした娘だった——抱えた端布をそっと胸に寄せ、怯えと安堵の入り混じった目で私を見つめた。
「あの……今夜の大広間のこと、厨房まで聞こえておりました。その、お気の毒に——」
「お気遣いは不要よ」
遮ったのは、同情を拒みたかったからではない。この場に長く留まるべきではなかったからだ。
「あなたのお名前を伺ってもよろしいかしら」
「マリーと申します」
「マリー。可愛らしいお名前ね。——ではマリー、私は棚の上のものを一つ引き取って、このまま出ます。あなたはあと三分ほどしたら、別の出口からお戻りなさい。鉢合わせは一度きりのほうがお互いに安全ですもの」
マリーが再び頷く。その目に、先ほどまでの怯えとは違う光が宿ったのを見た。利害の一致による信頼。貴族の令嬢も下級侍女も、夜の廃棄庫では同じ密行者に過ぎない。その対等さが、むしろ心地よかった。
棚に手を伸ばし、ドレスを引き出した。銀糸の冷たい感触が指に馴染む。思ったより軽い。けれどこの軽さの中に、母が遺した最後の言葉が縫い込まれている。衣装箱の蓋をそっと開け、底に敷かれていた薄紙でドレスを包んだ。目立たぬように、腕に抱える。
「ご武運を、マリー」
「——リーゼロッテ様も」
様をつけたのは侍女としての矜持だろうか。私は小さく微笑んで、廃棄庫を後にした。
帰路は来た道を逆に辿った。螺旋階段を上り、暗い回廊を影伝いに進む。足裏に伝わる石の冷たさが、行きよりも心地よく感じられた。取り戻したものの重みが、腕の中にある。
正門近くの控えの間に辿り着いたとき、窓から差し込む月光が包みの中のドレスを白く照らした。馬車を呼ぶ前に、確かめたいことがあった。
薄紙を開き、ドレスの裏地に指を滑らせた。
母の刺繍は裏地の左身頃に集中している。表からは見えない位置に、野薔薇と忘れな草の花模様が連なっている。幼い頃は「おまじない」として眺めるだけだった。けれど今、指先で糸の一本一本をなぞっていくと——
違和感があった。
花弁を形作る糸の色が、微かに不規則だった。銀、白銀、灰銀、青銀——四色の糸が一定の法則で配置されている。それは刺繍の意匠としては不自然だった。花弁の美しさを追求するなら、同系色のグラデーションにすればいい。なのに母は、あえて糸の色を切り替えている。まるで——
まるで、文字を綴るように。
月明かりの下で、私は息を止めたまま裏地を見つめた。母の針はただ花を縫っていたのではない。この色の配列には意味がある。規則がある。糸の色が変わる位置を追っていくと、それは花模様に擬態した何かの——暗号だ。指先が震えた。寒さではない。この布の下に、母が私だけに宛てた言葉が眠っているのだという確信が、指の先から胸の奥まで静かに駆け上がってきたのだ。
王宮図書館の司書だった母。古い言語にも暗号体系にも通じていたはずの母が、娘の婚約のドレスの裏地に、誰にも気づかれぬよう縫い込んだ符号。
「お母様——これは何を」
呟いた声は、自分の耳にも届かなかった。窓の外で雲が流れ、月がいっそう明るくなる。銀糸の一本一本が月光を吸い、裏地の花模様がまるで発光するかのように浮かび上がった。忘れな草の青銀の花弁が、野薔薇の灰銀の茎が、母の指先が選び抜いた配列のままに、解かれることを待つ封書のように、静かに私を見返していた。