第1話
第1話
「アンナリーゼ・フォン・ヴァイスハウプト公爵令嬢との婚約を、本日をもって破棄する」
第二王子カールの声が、大広間の天井画に吸い込まれていく。シャンデリアの蝋燭が揺れたのは、誰かが息を呑んだせいだろうか。百を超える炎が一斉にたわみ、天井に描かれた女神の横顔が一瞬だけ歪んだように見えた。私の名はリーゼロッテ。アンナリーゼというのは洗礼名で、家族と王家の者だけが使う呼び名だった。——いえ、もう王家に私の居場所はないのだから、その呼び名も今日で最後になる。
「余はエルゼ・フォン・ブレンナー男爵令嬢への真実の愛に目覚めた。形骸化した政略の鎖に、これ以上縛られるつもりはない」
真実の愛。その言葉を耳にした瞬間、私の中で何かが冷えた。怒りではない。悲しみでもない。ただ、五年という歳月が一枚の紙切れのように破り捨てられた、その軽さに対する静かな驚きだった。大広間に満ちる香——蜜蝋と白百合と、微かに汗を含んだ香水の甘さ——が、急に重たく鼻の奥に張り付いた。
カールの隣に立つ男爵令嬢が、申し訳なさそうに目を伏せている。白磁のような頬に、計算されたかのように一筋だけ涙の痕が光っていた。あの仕草すら計算であることを、この広間にいる淑女の半数は見抜いているはずだ。けれど誰も声を上げない。王子の寵愛という風向きに逆らう者は、この宮廷にはいない。
三百を超える貴族たちの視線が私に集まっていた。同情、嘲笑、好奇心——それぞれの感情を纏った目が、私の一挙手一投足を品定めしている。衣擦れの音すら止んで、大広間がひとつの巨大な耳になったかのようだった。ここで涙を見せれば、明日の社交界で「哀れな公爵令嬢」として消費される。怒りを見せれば、「やはり気位の高い女だった」と噂される。どちらも、亡き母が教えてくれた淑女の振る舞いではない。
私は背筋を正したまま、スカートの端をそっと摘んだ。絹の感触が指先にひんやりと触れる。その冷たさに意識を集中させることで、胸の奥で渦を巻く感情を押さえ込んだ。
「承知いたしました、殿下」
声が震えなかったことを、心の底から母に感謝した。
「五年にわたるご厚誼に、謹んで感謝申し上げます。殿下とブレンナー男爵令嬢のご多幸を、心よりお祈りいたします」
完璧な角度の礼。膝の曲げ方、指先の添え方、視線の落とし方——すべてを母に教わった通りに。床に敷かれた深紅の絨毯の織り目が、伏せた目にくっきりと映った。これが最後の舞台ならば、一分の隙もなく演じ切る。それだけが今の私にできることだった。
顔を上げたとき、カールの表情にわずかな戸惑いが滲んでいるのが見えた。泣き崩れるか、取り乱すか、あるいは縋りつくか。彼はそのどれかを期待していたのだろう。整った眉がほんの少し寄せられ、台本にない場面に立たされた役者のような顔をしていた。期待に応えて差し上げられず、申し訳ございません——そんな皮肉が喉元まで上がりかけたが、飲み込んだ。品格とは、言わない言葉の中にこそ宿るものだから。
「ああ、それから」
踵を返しかけた私の背に、カールの声が追いすがった。
「婚約の祝いに贈ったドレスだが、もう不要だろう。侍女に命じて処分させる。あれは王家の織匠が手がけたものだ、私物として持ち出されては困る」
心臓が一拍だけ、強く打った。
あのドレス。銀糸と月白の絹で仕立てられた、婚約の証。けれど私にとって大切なのは、王家の織匠の技ではない。裏地に施された刺繍——母が自らの手で縫い込んだ、小さな花模様の連なり。母が亡くなる三月前に、「これだけは覚えておいてね」と微笑みながら針を動かしていた、あの刺繍だ。窓辺の椅子に腰掛けた母の横顔。春の午後の光の中で、細い銀針が規則正しく布を刺す微かな音。あの穏やかな時間の手触りを、私は今も指先に覚えている。
「……殿下のお心のままに」
声は平静を保った。けれど指先が微かに冷えていくのを感じた。母の遺したものが、この宮廷からまた一つ消えようとしている。父の邸では後妻のマルガレーテが母の痕跡をすべて片付けてしまった。蔵書も、調度品も、肖像画さえも。残されたのは、あのドレスの裏地に縫い込まれた刺繍だけだった。
私は再び礼をして、大広間を辞した。背後で社交界の囁きが波のように広がるのを感じながら、一歩一歩を正確に刻んだ。扉が閉まるまでは、リーゼロッテ・フォン・ヴァイスハウプト公爵令嬢として歩く。それが私の最後の矜持だった。
大広間の扉が背後で閉じた瞬間、世界が静かになった。
長い回廊には人影がない。壁に掛けられた歴代王妃の肖像画が、等間隔に並ぶ燭台の光を受けて薄闇の中に浮かんでいた。絨毯が足音を吸い込み、私の呼吸だけが廊下に残る。石壁から染み出す夜気が首筋に触れ、大広間の熱気に火照っていた肌が急速に冷えていく。
ここでようやく、唇を噛んだ。
痛みが走る。血の味がする。鉄錆に似た、温かくて生々しい味。それでいい。この痛みだけが、今の私が確かにここに立っている証だった。
五年間、私は完璧な婚約者であろうとした。社交の場では王子の隣でにこやかに笑い、政務の補佐では誰よりも早く書類を整え、外交の席では三カ国語で通訳を務めた。母がそうしていたように——王宮図書館の司書でありながら、どの貴婦人よりも優雅に振る舞っていた母のように。夜会のあと疲れ果てて控え室で靴を脱いだとき、足の甲に赤い靴擦れの跡がくっきりと残っているのを何度見たことだろう。それでも翌朝には笑顔で社交の輪に戻った。完璧であることが、私の存在を許される唯一の条件だと信じていたから。
それがどれほど無意味だったかを、今日知った。
カールが求めていたのは有能な伴侶ではなく、自分を無条件に慕う柔らかな存在だったのだ。男爵令嬢の潤んだ瞳と控えめな微笑みの前では、私の五年間など紙屑同然だった。
——いいえ、もうよしましょう。
窓の外に目をやると、王宮の庭園が月光に青白く照らされていた。薔薇の季節にはまだ早い。剪定されたばかりの枝が、骨のように夜空に伸びている。あの庭園を二人で歩いたこともあった。カールが退屈そうにしていたことを、今なら正確に思い出せる。私が庭師から聞いた薔薇の品種の話をしているとき、彼の視線はいつも噴水の向こうに逸れていた。あの視線の先に何があったのか——今さら確かめる意味もない。
涙は出なかった。五年の歳月に対する悲しみよりも、あのドレスのことが胸を占めていた。
母の刺繍。裏地に隠れるように縫い込まれた、あの精緻な花模様。生前の母は穏やかに笑って「おまじないよ」とだけ言った。幼かった私はそれを信じた。けれど今になって思えば、母の指先はあまりに正確で、あまりに真剣だった。おまじないにしては、あの目は——
考えを振り払うように歩き出す。回廊の突き当たりを右に曲がれば、正門への階段だ。このまま王宮を出て、馬車に乗り、公爵邸に帰る。それが今夜なすべきことのはずだった。
けれど足が止まった。
左の廊下の先——石造りの階段を地下に降りた突き当たりに、王宮の廃棄庫がある。不要になった調度品や衣装が、処分を待って積み上げられる場所。カールが「処分させる」と言ったあのドレスは、おそらく今夜のうちにあそこへ運ばれる。明日になれば焼却炉に送られるか、端布にされて下働きの雑巾になるだろう。
母の刺繍が、雑巾に。
右の廊下には月明かりが差し込んでいた。正門へ続く、正しい道。左の廊下は暗く、燭台の火すらまばらだった。追放された令嬢が王宮の地下に忍び込むなど、発覚すれば残された名誉の欠片すら失う。
私は左の廊下を見つめた。
母が遺してくれたものは、もうあのドレスしかない。父の邸にはない。この宮廷にもない。世界のどこにも、もうない。
暗い廊下の先に、かすかに地下への階段が見えた。石段の冷たさが、ここからでも感じ取れるような気がした。冷気が足元から這い上がるように、左の廊下から湿った空気が流れてくる。その奥に、母の最後の欠片が眠っている。
——取り戻さなければ。
名誉も、体面も、公爵令嬢としての分別も、今この瞬間は意味を持たなかった。私を突き動かしているのは、もっと深い場所にある、もっと単純なものだった。母の手の温もりを、この世界から消させたくない。ただ、それだけだ。
スカートの裾を握る指に、力がこもった。