第3話
第3話
三日後の朝は、拍子抜けするほど静かだった。
公爵家の王都別邸の正門前に、質素な二頭立ての馬車が一台。それが、ヴァレンシュタイン公爵令嬢の旅立ちの全てだった。大荷物を連ねた華やかな行列など最初から望んでいない。けれど、見送りの一人もいないというのは——わかっていたはずなのに、胸の奥がちくりと痛んだ。
門の向こう、並木道の陰に人影が見えた。見覚えのあるドレスの色。学園時代に「お友達」と呼び合っていた令嬢たちが、三人ほど扇の陰に口元を隠して、こちらを窺っている。わざわざ見送りに来たのではない。「落ちぶれた悪役令嬢の敗走」を自分の目で確かめに来たのだ。
扇の向こうから、押し殺した笑い声が風に乗って届いた。
「——まあ、あの馬車。従者も侍女も最小限ですのね」
「婚約破棄されて三日で都落ちですもの。当然ですわ」
『聞こえているわよ。聞こえるように言っているのでしょうけれど』
不思議と、怒りは湧かなかった。前世の記憶が蘇ってからまだ三日しか経っていないのに、この世界の悪意に対する耐性がずいぶん上がった気がする。いいえ、違う。前世でも似たようなものだった。社内の陰口、取引先の冷笑——形が違うだけで、人の悪意の温度はどの世界でもそう変わらない。
正門の脇に、父が立っていた。見送りの言葉はなかった。ただ、鋼色の瞳で一度だけ頷いた。それで十分だった。
「お嬢様、お荷物の積み込みが終わりました」
マリアが小走りに駆け寄ってきた。旅装に着替えた侍女の姿を見て、私は思わず足を止めた。その手には、自身の旅行鞄が提げられている。
「マリア。あなた——」
「お供いたします」
短い言葉だった。けれどその声には、一切の迷いがなかった。
「領地への転任は、お父様にもご許可をいただいております。昨夜のうちに」
昨夜のうちに。つまりマリアは、私が出立を告げるより前に、自分の意思で同行を決めていたのだ。婚約破棄された令嬢に付き従うことが、侍女としての経歴にどれほどの傷をつけるか——この聡明な女性が知らないはずがない。
「……ありがとう、マリア」
それ以上の言葉は、喉の奥で詰まって出てこなかった。
馬車に乗り込む間際、並木道の令嬢たちがまた何か囁き合うのが見えた。御者が鞭を振るい、車輪が石畳の上で軋みを上げる。王都別邸の門が、ゆっくりと遠ざかっていく。
振り返らなかった。
馬車が王都の外壁を抜けると、景色が一変した。
石畳の街路が土の道に変わり、密集した建物が畑と牧草地に取って代わる。窓の外を流れていく田園風景を眺めながら、私は深く息をついた。都の空気がいかに重かったかを、今になって実感する。
「お嬢様、お加減はいかがですか」
向かいの席でマリアが心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫よ。少し——考え事をしていたの」
馬車の揺れが単調な律動を刻む中、私の意識は自然と内側に沈んでいった。
前世の記憶。佐藤美咲という名の、何の変哲もない会社員だった私。毎朝七時十五分の電車に乗り、九時に出社し、終電近くまで残業して、コンビニ弁当を食べて眠る。その繰り返しの日々の中で、唯一の光が乙女ゲーム『聖女の祝福』だった。
週末の夜、狭いワンルームのベッドの上で。画面の向こうの美しい世界に没頭しながら、「こんな世界に生まれたかった」と何度思ったことか。華やかな宮廷、優雅な社交界、煌びやかなドレスに身を包んだ令嬢たち——。
『まさか本当に来てしまうとは思わなかったけれど』
唇の端が自嘲気味に歪んだ。しかも憧れたヒロインではなく、悪役令嬢として。
けれど——と、膝の上で拳を握った。前世の三十年は無駄ではなかった。会社員として叩き込まれた実務能力。数字を読む力。限られた予算でやりくりする知恵。上司の無茶な要求を何とか形にしてきた折衝術。どれもこれも、華やかさとは無縁の地味な能力ばかりだ。
だが今、この世界で私が直面しているのは、まさにそういう問題なのだ。逼迫した財政。荒廃した農地。流出する人口。これは宮廷の恋愛劇ではなく、経営再建だ。
『前世の私が十年かけて身につけた実務能力と、この身体に刻まれた公爵令嬢の教養。それからゲームの知識——たった三枚の手札。でも、何も持たない令嬢よりはずっとましよ』
窓の外で、景色が少しずつ変わり始めていた。豊かだった農地が痩せた土地に変わり、手入れの行き届いた生垣が荒れた雑木に取って代わる。
「マリア。領地まであとどのくらい?」
「この先の丘を越えれば、もう領境でございます」
身を乗り出して窓の外を見た。丘の稜線の向こうに、夕暮れの空が広がっている。
馬車が丘を越えた瞬間、息を呑んだ。
眼下に広がるのは——荒野だった。
いいえ、荒野という言葉は正確ではない。かつて畑だったであろう土地が、雑草に覆われて放棄されている。水路は半ば崩れ、水は澱んで黒ずんでいた。点在する農家の屋根は傾き、生垣は手入れされた形跡がない。道端に転がった荷車は車輪が外れたまま朽ちかけている。
ゲームでは、この光景はたった一行だった。「ヴァレンシュタイン領は衰退の一途を辿っていた」——それだけ。背景設定の一文。画面には映すら映らなかった風景。
けれど今、目の前にあるのは現実だった。
馬車が領地の入口——石造りの門柱が片方だけ残った関所跡——を通過すると、人の姿が見えた。道端で何かの作業をしていた農夫が、馬車の紋章を見て帽子を取った。痩せた顔に、感情の読めない目。その背後に、薄汚れた衣服を纏った子どもが二人、こちらを覗き込んでいる。
馬車の中から見下ろす私と、道端から見上げる彼ら。その視線が交差した瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
『この人たちは——ゲームの駒じゃない』
ゲームの中のセレスティアは、一度もこの領地を訪れなかった。社交界で足掻き、不敬罪で裁かれ、領地の没落を止められぬまま破滅していった。この場所に暮らす人々の顔を、一度も見ることなく。
馬車が領主館に向かって進む間、私は窓から目を離せなかった。崩れかけた石垣。涸れた井戸。傾いだ風車。一つひとつの光景が、ゲームの設定テキストとは比較にならない重さで目に焼きつく。
「お嬢様……」
マリアが何か言いかけて、口をつぐんだ。私の顔に浮かんでいたものが何だったのか——たぶん、怒りだったのだと思う。ゲームのシナリオに対してではない。この現実を、画面の向こうのフレーバーテキストとして消費していた前世の自分に対する、静かな怒り。
領主館が見えてきた。灰色の石壁に蔦が這う、決して大きくはない館。王都の邸宅と比べれば質素だが、かろうじて体裁は保っている。正門の前に、数人の使用人が並んで待っていた。その最前列に、恰幅のいい壮年の男が立っている。領地代官のベルトランだろう。
馬車が止まった。
御者が扉を開け、踏み台を置く。その一段に足をかけた瞬間、夕風が頬を撫でた。乾いた土と枯れ草の匂い。王都の花園とは似ても似つかない、荒れた大地の匂い。
地面に降り立つ。薄い靴底を通して、硬く乾いた土の感触が足裏に伝わった。
代官ベルトランが深く頭を下げた。
「お嬢様、ようこそお越しくださいました。——長旅でお疲れでございましょう」
その声に滲むのは歓迎よりも、困惑だった。当然だろう。婚約破棄された令嬢が突然領地に帰ってくるなど、吉報であるはずがない。
けれど、私は笑った。今度は、壇上で作った微笑みではなく。
「ベルトラン。明日の朝一番に、過去五年分の帳簿を全て揃えておいてくださる?」
代官の目が、驚きに見開かれた。
「それから——領地の全農地と水路の地図も。歩いて回りたいの」
夕陽が荒れた農地を赤く染めていた。ゲームのテキストでは一行で済まされた衰退。その現実の重さを、今、この足で踏みしめている。
『ここから始める。帳簿の数字と、この目で見た現実と、前世の知識を突き合わせて——一つずつ、立て直す』
背後で、マリアが旅行鞄を抱えて馬車から降りるのが見えた。荒れた領地に、たった二人。だがこの二人から始めるのだと、不思議な確信があった。
沈みゆく陽の最後の光が、崩れた水路の先——遥か遠くの地平線を照らしている。その光景は荒涼としていて、同時に、どこまでも広かった。