第2話
第2話
目が覚めたとき、最初に見えたのは天蓋の刺繍だった。
銀糸で縫い取られたヴァレンシュタイン家の紋章——雪の結晶を抱く白百合。見慣れたはずのその意匠が、今朝は妙に鮮明に映る。前世の記憶が混ざった頭では、一瞬だけ東京のワンルームの天井を探してしまった。
身を起こすと、全身が軋んだ。昨夜の緊張が筋肉の芯まで染みていたらしい。寝台の脇の小卓に、マリアが用意してくれたのだろう、薄荷の香りがする温かな布巾が置かれている。それで顔を拭いながら、私はゆっくりと息を整えた。
窓の外では、王都の朝が白み始めていた。鐘楼から朝課の鐘の音が流れてくる。荘厳な響きが石壁を伝い、空気を震わせる。公爵家の王都別邸は王城にほど近い丘の上にあり、窓からは尖塔の並ぶ市街が一望できた。穏やかな朝の光景。けれど、その穏やかさの下に張り巡らされた蜘蛛の糸のような権謀を、今の私は知っている。
『——整理しましょう』
寝台から降り、書き物机に向かった。引き出しから便箋と羽根ペンを取り出す。セレスティアの身体に染みついた所作で、自然とペンが動いた。前世の私なら付箋とボールペンだったところだけれど。
インク壺の蓋を開ける。微かに鉄と没食子の匂いがした。ペン先を浸し、便箋の上に最初の文字を記す。
——破滅フラグ、三本。
ゲーム『聖女の祝福』において、悪役令嬢セレスティア・ヴァレンシュタインの末路は三段階で確定する。前世の記憶を丹念に辿りながら、私はペン先を走らせた。
第一のフラグ。不敬罪。
ゲームでは、婚約破棄に激昂したセレスティアがリーゼロッテに詰め寄る。その際に「聖女候補」であるリーゼロッテへの暴言が不敬にあたるとされ、王家から正式な処分が下る。ヒロインの涙ながらの証言と、居合わせた攻略対象たちの証言が決め手になるのだ。
『これは昨夜、回避した——少なくとも、最初の火種は消した』
壇上で取り乱さなかったこと。礼を尽くして退場したこと。あの場にいた数百人の貴族が証人になっている。だが油断はできない。ゲームのセレスティアは婚約破棄後も社交の場でリーゼロッテと接触し、その度に対立を深めていった。つまり——。
便箋に書き足す。「回避条件:リーゼロッテとの接触を完全に断つ。社交界そのものから距離を置く」
第二のフラグ。領地没落。
ヴァレンシュタイン公爵家は、王国北部に広大な領地を持つ名門だ。しかしゲームの設定では、先代の放漫経営により領地の財政は逼迫している。婚約破棄による信用の失墜が追い打ちをかけ、商人たちが取引を打ち切り、領民は流出し、公爵家は実質的な破綻に追い込まれる。没落した貴族に味方はいない。
『ゲームでは背景設定の一文でしかなかった「領地の衰退」……でも、ここは現実。放っておけば本当に潰れる』
回避条件を書く手が、少し震えた。「回避条件:領地の財政再建。衰退を実績で覆す」。言葉にするのは簡単だ。けれど前世でも経営などしたことのない元会社員に、中世風の領地経営が務まるのか。
——いいえ。弱気になっている場合ではない。前世の知識がある。簿記の基本も、農業の改良手法も、流通の仕組みも、断片的とはいえ知っている。ゲームの攻略情報には、領地に関するフレーバーテキストもあった。微かな手がかりだけれど、何も持たないよりはずっといい。
第三のフラグ。聖女イベントでの最終断罪。
ペン先が、ここで止まった。
ゲーム終盤、リーゼロッテが正式に「聖女」として覚醒するイベントがある。神殿での大規模な儀式の中で聖なる力を発現し、王国中にその名が轟く。そしてその直後、聖女の権威を背景に、セレスティアへの最終的な断罪が下される。「聖女に仇なす悪女」の烙印。国外追放、全財産没収——ゲームのバッドエンドそのものだ。
『問題は、聖女覚醒の条件』
記憶を必死に掘り起こす。ゲームの攻略サイトに書かれていた情報。聖女覚醒には複数の条件がある。王太子との絆の深化、神殿での祈りの蓄積、そして——「悪役令嬢との対立による精神的覚醒」。つまりセレスティアとの対立そのものが、聖女覚醒の触媒になっているのだ。
便箋に書いた。「回避条件:対立の構図を成立させない。触媒を消す」
三本のフラグを見つめる。一の回避と三の回避は、実は同じ方向を指していた。リーゼロッテとの接触を断ち、対立の構図そのものを消すこと。そしてそのために最も確実な手段は——。
『王都を離れる』
ペンを置いた。便箋の上に並んだ三行の文字を、朝の光が白く照らしている。整然とした字面とは裏腹に、内容は途方もなく重い。不敬罪、領地没落、聖女断罪。一つでも折り損ねれば、待っているのは破滅だ。
けれど、逆に言えば——三本とも折れさえすれば、私は生き延びられる。
便箋を折り畳み、引き出しの奥にしまった。誰にも見られてはならない。「ゲームの記憶」などという荒唐無稽な根拠は、この世界では狂人の戯言でしかないのだから。
身支度を整える間も、頭の中では計画が組み上がっていく。前世の私は、毎日終電まで残業するような生活の中で、限られた時間を最適化することだけは得意だった。ToDoリストを作り、優先順位をつけ、一つずつ潰していく。あの頃は自分のためにではなく、会社のためにそうしていた。今度は違う。
マリアが朝の支度を手伝いに来た時には、もう腹は決まっていた。
「マリア。お父様は今朝、お屋敷にいらして?」
「はい。書斎にいらっしゃるかと存じます」
公爵家の王都別邸は、本邸ほどの規模はないが、それでも十分に広い。書斎へ向かう廊下を歩きながら、使用人たちの視線を感じた。昨夜の婚約破棄はもう屋敷中に知れ渡っているのだろう。すれ違う侍女が慌てて目を逸らし、廊下の角で従僕が何事か囁き合っている気配がする。
構わない。この程度の視線は、昨夜の大広間に比べれば春風のようなものだ。
書斎の扉を叩くと、低い声が応じた。
「——入りなさい」
父、アルベルト・ヴァレンシュタイン公爵。白銀の髪に深い皺が刻まれた壮年の貴族は、書斎の大机に向かい、何かの書簡に目を通しているところだった。私が入室すると、ペンを置き、静かにこちらを見た。
その目に、叱責はなかった。失望もなかった。ただ、深い疲労と——かすかな痛みのようなものが、鋼色の瞳の奥に沈んでいた。
「昨夜のことは聞いている」
「はい」
「……よく堪えた」
短い言葉だった。けれど、その一言に込められた感情の重さに、不意に胸が詰まった。この人もまた、昨夜の壇上での出来事を——娘が公衆の面前で辱められる光景を、どこかで聞き、あるいは目にしていたのだ。
感傷に浸っている暇はない。
「お父様。お願いがございます」
「申してみなさい」
「領地に参りたいのです」
父の眉が微かに動いた。それだけだった。声を荒げることも、驚きを表すこともなく、ただ鋼色の瞳で私を見据えている。
「社交界は、しばらく私の名で持ちきりでしょう。その間にヴァレンシュタインの名で表に出れば、お父様のお立場にも障りがございます」
これは嘘ではない。けれど、本当の理由でもない。
「領地で静かに過ごすことが、今は最善かと存じます」
父は長い沈黙の後、机の引き出しから一通の書簡を取り出した。
「昨夜のうちに、領地の代官から報告が届いている。今期の収穫も芳しくないそうだ」
やはり、ゲームの設定通り。領地の財政は悪化の一途にある。
「……お前がそう望むなら、止めはしない」
父はそう言って、窓の外に目をやった。朝日が書斎の革張りの調度を琥珀色に染めている。
「だが、覚えておきなさい。ヴァレンシュタインの名は、お前が生まれるずっと前からあり、お前がいなくなった後も続く。——お前自身が何を選ぶにせよ、その重みだけは忘れるな」
それは許可だった。同時に、はなむけの言葉でもあった。不器用な父なりの。
「心得ております、お父様」
深く、深く頭を下げた。公爵令嬢としての作法ではなく、父親に対する娘として。
書斎を出ると、廊下の窓から差し込む朝日が目に眩しかった。
『三日以内に発てる。準備は最小限でいい。大荷物で出れば「未練がましい」と言われる。身軽に出れば「逃げた」と嗤われる。——なら、嗤わせておきましょう』
社交界の目には、昨夜の婚約破棄に打ちのめされた令嬢が、恥を忍んで田舎に引っ込んだようにしか映らないだろう。敗走。没落の始まり。哀れな元婚約者の末路——。
それでいい。むしろ、そう思ってくれた方が都合がいい。嘲笑は注目を外す煙幕。王都の社交界が私を忘れてくれれば、リーゼロッテとの接触は自然と断たれる。不敬罪のフラグは遠ざかり、聖女覚醒の触媒も消える。
残るは、第二のフラグ。
領地を建て直す。帳簿を読み解き、農地を耕し、商いの道を拓く。前世の知識と、この身体に刻まれた公爵令嬢の教養と——何より、ゲームのシナリオを知っているという、たった一枚の切り札を武器に。
廊下の向こうから、マリアが小走りに駆けてくるのが見えた。手には旅支度の書き付けらしきものを抱えている。昨夜の私の言葉を覚えていて、もう準備を始めてくれていたのだろうか。その姿に思わず笑みが零れた。
「マリア。三日後に発つわ。荷物は最小限に——それと、領地の帳簿を全て用意してもらえるかしら」
「帳簿、でございますか」
「ええ。過去五年分、全て」
マリアの目がまた大きくなった。けれど今度は、昨夜とは違う色が浮かんでいた。困惑と、それから——微かな期待のようなもの。
「かしこまりました、お嬢様」
深く頷くマリアの横を通り過ぎ、自室へ戻る廊下を歩く。窓の外では、王都の街並みが朝の光に輝いていた。この景色を見るのも、しばらくは最後になるだろう。
『ゲームでは、セレスティアは一度も領地を訪れない。領地はただの設定で、背景の一文で「没落した」と処理されるだけ。——でも、ここは現実なのよ』
設定の一行に押し込められた場所に、生きている人がいる。前世の記憶がある今の私には、それがわかる。
三日後、計算された撤退が始まる。
壇上で折らなかった膝を、今度は大地に突き立てる番だった。