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悪役令嬢、雪姫と呼ばれて

第1話 第1話

第1話

第1話

大広間に響いた声は、氷のように冷たかった。

「セレスティア・ヴァレンシュタイン。余は本日をもって、お前との婚約を破棄する」

 シャンデリアの光が揺れた——いいえ、揺れたのは私の視界だったのかもしれない。

 壇上に立つ王太子エドワード殿下の金糸の髪が、燭台の炎に照らされて眩しいほど輝いている。その横に寄り添うように立つ少女——栗色の巻き毛に翡翠の瞳、いかにも可憐という言葉を体現したような令嬢が、殿下の腕にそっと手を添えていた。

 リーゼロッテ・ヘルツフェルト。男爵家の出でありながら、入学以来あらゆる貴公子の心を攫ってきた学園の寵児。

 彼女の唇が、ほんの僅か、弧を描くのが見えた。

 その瞬間だった。

 頭の奥で何かが弾けた。砕けたのではない。むしろ、閉じていた箱の蓋が一斉に開いたような感覚。洪水のように流れ込んでくる記憶——満員電車の圧迫感、汗と香水が入り混じった車内の空気、コンビニの珈琲の苦味が舌に蘇り、蛍光灯に照らされたパソコンの画面が瞼の裏で明滅する。残業明けの深夜、コンビニの駐車場で缶コーヒーを握りしめながら見上げた東京の空——星のない、橙色に濁った空。そして。

『——聖女の祝福?』

 知っている。この場面を、知っている。

 前世の記憶。日本という国で、平凡な会社員として生きていた私の記憶が、濁流のように蘇っていく。毎日同じ時刻に同じ電車に乗り、同じデスクで同じ作業をこなし、唯一の楽しみが帰宅後にプレイする乙女ゲームだった。そしてその記憶の中に確かにあった。画面の向こうで繰り広げられた物語——乙女ゲーム『聖女の祝福』。

 私は、その悪役令嬢だ。

 全財産没収。国外追放。ゲームでは、この婚約破棄がバッドエンドへの最初の一歩だった。

 大広間を見渡す。数百の貴族たちが私を見ている。嘲り、憐れみ、あるいは好奇——その視線の一つひとつが肌に突き刺さるようだった。シャンデリアから零れる光が貴婦人たちの宝石に反射して、まるで無数の目が瞬いているようにも見えた。どこかで扇の裏に口元を隠す衣擦れの音がして、押し殺した囁きが波紋のように広がっていく。

『ああ、この空気。この悪意の湿度——前世の満員電車よりもよほど息苦しい』

 けれど不思議と、涙は出なかった。

「殿下がリーゼロッテ嬢に心を寄せておられることは、学園中の者が知っております」

 エドワード殿下の碧い瞳が僅かに見開かれた。侮蔑でも怒りでもない、予想外の反応に対する純粋な困惑の色。壇上の殿下は、私が泣き崩れるか、あるいは激昂して醜態を晒すか、そのどちらかを期待していたのだろう。その傍らでリーゼロッテが殿下の袖を不安げに引く仕草が見えた。計算され尽くした庇護欲の誘い方。ゲームの攻略サイトで読んだ「ヒロインの自然体に見せかけた戦略性」という考察が、妙にリアルな実感を伴って胸に落ちた。

『ああ、そうだったわね。ゲームのセレスティアは、ここで泣き叫んでリーゼロッテに掴みかかるのよ。それが不敬罪の証拠になって——』

 背筋を伸ばした。震える指先を、スカートの裏で握り締める。爪が掌に食い込む痛みが、かえって意識を鮮明にした。唇が微かに震えたのは、悔しさからではない。この場を乗り切らなければならないという、前世の記憶が与えてくれた切迫感からだった。

 オーケストラが沈黙している。楽士たちでさえ弓を止め、大広間を支配しているのは息を詰めた数百人分の静寂だけだった。

「——殿下、お気遣いなく。むしろ感謝いたしますわ」

 私の声が大広間に染み渡った瞬間、空気が変わった。

 ざわめきが波のように広がる。エドワード殿下の眉が怪訝に寄せられ、リーゼロッテの微笑みが一瞬だけ凍りついた。

「……何だと?」

「長きにわたるご縁をいただきましたこと、ヴァレンシュタイン家として光栄に存じます。殿下の今後のご多幸を、心よりお祈り申し上げますわ」

 完璧な角度で膝を折り、礼を取る。公爵令嬢として叩き込まれた作法が、こんなところで役に立つとは思わなかった。スカートの絹地が床に広がる際の微かな衣擦れの音が、静まり返った大広間に不思議なほど大きく響いた。顔を上げたとき、私は微笑んでいた。少なくとも、そう見えるように唇の形を作った。頬の筋肉が引きつりそうになるのを、歯を食いしばることで堪える。

 殿下の傍らに並ぶ攻略対象——いいえ、貴公子たちの顔を一人ずつ見る。宰相の息子、騎士団長の嫡男、学園の主席魔術師。彼らの瞳に浮かぶ軽蔑の色を、私は静かに記憶に刻んだ。宰相の息子は鼻で笑うように口角を上げ、騎士団長の嫡男は壁に寄りかかったまま腕を組み、主席魔術師は銀縁の眼鏡を押し上げながら値踏みするような視線を向けている。

『覚えておくわ。この顔を、全部』

 大広間を後にする足取りは、自分でも驚くほど安定していた。背中に無数の視線が突き刺さるのを感じながら、私は扉に手をかける。厚いオークの扉が閉まる直前、ヒロインの声が聞こえた。

「可哀想な方……。でも、これでよかったのですわ」

 扉が閉まった。

 回廊に出た瞬間、膝から力が抜けた。壁に手をついて、ようやく息を吐く。冷たい石壁の感触が掌に伝わり、それが今この世界にいるという現実を否応なく突きつけてくる。指先が小刻みに震えている。大広間では気づかなかったが、ドレスの背中が冷たい汗で張り付いていた。吐く息が白い。春だというのに、王城の回廊は底冷えするほど寒かった。

「——お嬢様」

 背後から駆け寄る足音。振り返ると、侍女のマリアが蒼白な顔で立っていた。私より二つ年上の、誰よりも長く仕えてくれている女性。その手には、私が大広間に置いてきてしまった手袋が握られていた。

「マリア。大丈夫よ、立てるわ」

「お顔が……真っ白でございます」

 そうでしょうね、と心の中だけで答えた。前世の記憶が蘇ったばかりで、頭の中は嵐のように情報が渦巻いている。ゲームの知識、前世の記憶、そして今この身体に残るセレスティアとしての十七年の人生——三つの自分が混ざり合って、まだ輪郭が定まらない。

 マリアが差し出してくれた手袋を受け取ろうとして、自分の手がひどく震えていることに気づいた。手袋を嵌めるのに三度も失敗して、結局マリアが黙って嵌めてくれた。その手が温かくて、不意に目頭が熱くなる。大広間で流れなかった涙が、こんなところで出かけるなんて。

 けれど、一つだけ確かなことがある。

『このまま何もしなければ、私は全てを失う』

 ゲームのシナリオ通りに進めば、この後に待っているのは破滅だけ。不敬罪、領地没落、聖女による最終断罪。三本の破滅フラグが、時限爆弾のように時を刻んでいる。

 回廊の窓から、月明かりが差し込んでいた。王都の夜空は澄んでいて、遠くに王城の尖塔が銀色に光っている。

「マリア」

「はい、お嬢様」

「明日、お父様にお話ししたいことがあるの。——領地に、帰りたいと」

 マリアの目が大きく見開かれた。領地帰還。社交界の人間にとってそれは事実上の敗北宣言に等しい。婚約破棄された令嬢が都を逃げ出した——そう囁かれるのは確実だった。

 だが、それでいい。

『笑わせておけばいい。嘲笑は注目を外す最良の煙幕よ』

 前世の記憶が告げている。破滅フラグを折る方法は、すでに見えている。ヒロインに関わらなければ不敬罪の証拠は生まれない。領地を立て直せば公爵家の没落は防げる。そして聖女覚醒の条件そのものを崩せば、最終断罪は起こらない。

 壁から手を離し、背筋を伸ばした。まだ膝は震えている。けれど、さっきまでとは違う。恐怖だけではない何かが、胸の奥で静かに燃え始めていた。

「お嬢様……本当に、よろしいのですか」

 マリアの声が震えていた。忠実な侍女の瞳に滲むのは、涙だろうか。

「ええ」

 月明かりに照らされた回廊を、私はゆっくりと歩き出した。

 背後の大広間からは、まだ華やかな音楽と笑い声が漏れ聞こえてくる。あの場にいる誰もが、今夜の出来事を「悪役令嬢の末路」として語り継ぐのだろう。

 構わない。

 あの壇上で膝を折らなかった。それだけで十分だ。この先に待つものが何であれ——

『見ていなさい。ゲームの筋書き通りになんて、させないから』

 回廊の先に、夜の闇が広がっていた。けれど私の足は、もう震えてはいなかった。

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