第1話
第1話
「リーシェ。婚約の件だが――白紙になった」
父の声は、朝の書斎に落ちた硬貨のように冷たく響いた。
私は椅子に腰かけたまま、手元のティーカップを見つめていた。紅茶の水面がわずかに揺れている。それが自分の指の震えのせいだと気づくまで、少しだけ時間がかかった。
白紙。その二文字が耳を通り抜け、胸の奥のどこかに沈んでいく。意味を理解するより先に、体が反応していた。背筋が伸び、呼吸が浅くなり、まぶたの裏がじんと熱くなる。けれど、それだけだ。涙は出ない。出し方を、とうの昔に忘れてしまった。
「聖女の素質を持つ令嬢が現れたそうだ。男爵家の出だが、神殿が正式に認定した。王家としては――そちらを選ばれるとのことだ」
昨日のことだった。
婚約式という名の、長い長い儀式。王宮の礼拝堂に響く賛美歌。オスカー殿下の冷えた指が私の手に触れた、あの形ばかりの誓い。式の後、殿下は一度も私と目を合わせなかった。けれどそれは、いつものことだった。
礼拝堂のステンドグラスから差し込む光が、殿下の横顔を七色に染めていたのを覚えている。美しい人だった。冷たい美しさ。冬の湖面に似た青い瞳が、私ではない何かを映していた。式の最中、私は殿下の指先の温度だけを数えていた。あの手には体温がないのだろうかと、場違いなことを考えながら。あれが――たった一日前のことだった。一日で、あの儀式のすべてが茶番に変わった。
「リーシェ、聞いているのか」
「はい、お父様」
私は紅茶を一口含んだ。ダージリンの渋みが舌の上に広がる。いつもと同じ味がした。世界が変わったはずなのに、紅茶の味は変わらない。その事実が、ひどく奇妙に思えた。
父――ヴァレンシア公爵は書斎の窓際に立ち、こちらを見ていなかった。庭園に目を向けたまま、報告書を読み上げるような口調で続ける。
「正式な婚約破棄の儀は三日後、王宮の大広間にて執り行われる。それまでに身辺の整理を済ませておきなさい」
身辺の整理。その言葉の意味を、私は正確に理解していた。王太子妃候補として賜った衣装、装飾品、王家の紋章が入った一切の品々。それらを返却せよということだ。
十七年分の、私という存在の痕跡を消せということだ。
寝室の衣装棚に吊るされた象牙色のドレス。王家の紋章が刺繍された手袋。殿下から形式的に贈られたサファイアのブローチ。一度も着ける機会のなかった舞踏会用のティアラ。それらひとつひとつに、私の時間が縫い込まれている。選び方を学び、手入れの仕方を覚え、身につけたときの立ち居振る舞いを何百回と練習した。それらを箱に詰めて返すとき、私は何を思うのだろう。
「承知いたしました」
声は震えなかった。当然だ。震えないように訓練されてきたのだから。
父がわずかに振り返った気配がした。何かを言いかけて、やめたようだった。慰めか、叱責か。どちらであっても、この人は結局言葉を飲み込むのだ。いつもそうだった。この書斎で、この窓辺で、背中だけを見せて。
ヴァレンシア公爵家の長女として生を受けた日から、私の人生には一本の線路だけが敷かれていた。王太子オスカー・レーヴェンハルトとの政略結婚。それが私の存在理由であり、公爵家が私に投じた莫大な教育費の回収手段だった。
礼儀作法、社交術、舞踏、刺繍、語学、政治史、王家の系譜。すべてを完璧にこなした。完璧にこなすことだけが、私に許された唯一の自己表現だった。
六歳で王室典範の序列を暗唱した。八歳で大人の社交界に立ち、笑みの角度を褒められた。十二歳で他国の大使と外交の茶席を共にし、一言の失言もなかった。そのたびに父は満足げに頷き、教育係は安堵のため息をつき、私は自分がうまく機能していることを確認した。人形が自分の関節の滑らかさを検査するように。
泣くことは許されなかった。怒ることも。喜ぶことすら、場にそぐわなければ咎められた。
だから私は、感情を殺すことだけは誰よりも上手くなった。
父が書斎を出ていく足音を聞きながら、私はカップをソーサーに戻した。微かな音が立つ。それだけの動作に、不釣り合いなほどの集中を要した。指先がまだ震えている。この震えは悲しみではない。もっと得体の知れない、名前のつかないものだ。
廊下から、使用人たちの囁き声が聞こえてくる。
「――お気の毒に」
「聖女ですって。男爵令嬢が」
「これでヴァレンシア家も終わりね」
壁越しに漏れるその声は、同情の形をした好奇心だった。彼女たちの目は今朝から明らかに変わっていた。私が廊下を歩けば会話が途切れ、すれ違いざまに視線が背中に刺さる。昨日まで「未来の王太子妃」だった私は、今日からは「捨てられた令嬢」になった。
それでも構わない。
元より、オスカー殿下に愛情など抱いていなかった。政略結婚の道具に恋慕の感情を持つことは、あまりに愚かで、あまりに危険で、あまりに無意味だと知っていた。殿下もまた同じだったのだろう。あの冷えた指先に、一片の温もりも感じたことはなかった。
けれど。
ティーカップの縁に視線を落としたまま、私は胸の奥に灯ったものの正体を探っていた。悲しみではない。失望でもない。もっと硬く、もっと熱い何か。
――怒りだった。
オスカー殿下に対する怒りではない。婚約を破棄されたことへの怒りでもない。
私は、自分自身に怒っていた。
十七年間。ただの一度も、自分の意志で何かを選んだことがなかった。学ぶ科目も、着る服も、交わす言葉も、浮かべる表情も、すべて他人が決めた。私はそれを疑いもせず、従順にこなしてきた。完璧な駒として。そしてその駒は今、たった一人の男爵令嬢の出現によって、盤上から弾かれた。
あの男爵令嬢は、きっと自分の意志で神殿の門を叩いたのだろう。聖女の素質は天賦のものだとしても、それを受け入れ、王宮へ向かう決断をしたのは彼女自身だ。たとえ周囲に押し流されたのだとしても、その流れに身を委ねるという選択をした。私にはそれすらなかった。流れに委ねることすら選ばず、ただ水路の形に沿って流されてきただけだった。
紅茶はすっかり冷めていた。
私は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。朝の光が薄いカーテン越しに差し込んでいる。庭園の薔薇はまだ蕾のまま、春を待っている。
聖女の素質を持つ男爵令嬢。神殿が認めた、光の力を宿す娘。
それが何だというのだろう。
婚約破棄は三日後に迫っている。王宮の大広間で、貴族たちの視線を浴びながら、私は公式に「不要」を宣告される。哀れみ。好奇心。あるいは嘲笑。そのすべてを受け止めて、なお背筋を伸ばして立っていなければならない。
それくらいは、できる。十七年間かけて鋳造された鋼の礼節は、少なくともそのためには役に立つ。
けれど、その後は。
婚約破棄の後、私はどこへ行くのだろう。何をするのだろう。公爵家の長女という肩書は残るが、王太子妃候補でなくなった私に、父が新たな役割を与えるとは思えない。別の政略結婚に差し出されるか、領地で静かに朽ちるか。いずれにせよ、また誰かが決めた道を歩くことになる。
窓の外、庭師が薔薇の手入れをしていた。枯れた枝を丁寧に剪定し、新しい芽を残す。不要な部分を切り落とし、必要な部分だけを生かす。
私は、切り落とされた枝の方だ。
そう思った瞬間、胸の奥の怒りが一段と強くなった。静かに、けれど確かに。
嫌だ、と思った。
言葉にしたのは、おそらく生まれて初めてだった。声には出さない。口の中で、舌の上で、その二文字を転がしてみる。幼い頃から禁じられてきた言葉。公爵令嬢は嫌だと言ってはならない。不満を口にしてはならない。与えられたものに感謝し、求められた役割を全うせよ。
――嫌だ。
もう、誰かに決められた道を歩くのは。
その感情がどこへ向かうのか、まだ分からなかった。怒りの炎は灯ったばかりで、熱はあっても光はない。私には力もなく、後ろ盾もなく、逃げ場もない。公爵家の娘であることだけが私のすべてで、そのすべてが私を縛る鎖だった。
三日後の大広間で、私は完璧に振る舞うだろう。それは確信できる。
けれどその後、私がどうなるのか。
窓の外では、朝日が庭園の露を光らせていた。剪定された枝が地面に落ちている。
私は知らなかった。
三日後、あの大広間で、私の掌に宿るものの正体を。それが十七年間の鋳型を内側から砕く、最初の亀裂になることを。
朝の紅茶は、もう完全に冷め切っていた。