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残弾二発、雨の路地裏で

第1話 第1話

第1話

第1話

雨。

革靴が水溜まりを蹴る。背後で銃声が三度。

肩を掠めた弾が煉瓦の壁に火花を散らした。焦げた火薬の匂い。脇腹に走る、引き裂かれるような熱。指先まで血が垂れている。

「逃がすな——生け捕りだ!」

怒声が路地に反響する。俺は左手でリボルバーの撃鉄を起こしたまま、狭い夜の路地を斜めに駆け抜けた。残弾二発。心臓の音が、雨音より大きい。シャツが背中に張り付く。汗と血と雨水と、何が混じっているのかも、もう分からない。

三年前、俺の家族はこの組織に消された。父、母、妹。理由は今でも分からない。葬儀の夜、棺の中の妹の頬に触れた時、指先の冷たさが俺の中の温度を全部持っていった。八歳だった。たった八歳の誕生日の翌週に、妹は冷たくなった。

それから三年、俺は名を捨て、職を捨て、縁を捨てた。場末の射撃場で銃を覚え、潜伏先で短刀の握りを覚えた。組織の末端から這い上がり、末端を裏切り、ようやく幹部の喉元まで辿り着いた——そのはずだった。

「お前、本当に"あの男"の息子だな」

応接室。葉巻の煙の向こうで、男はそう笑った。俺の父の名を、男は知っていた。三年かけて隠した俺の本名を、初対面で当てられた。引き金を引く前に、背後でドアが弾けた。

——詰めが甘かった。

俺は走る。湿った夜気が肺を焼く。仇の名を、口の中で噛み締める。死ねない。まだ、何一つ、取り返していない。

路地の角を折れた。死角。一瞬だけ背を煉瓦に預け、息を整える。

雨水がうなじを伝う。冷たい、はずだ。だが、何も感じない。

リボルバーの弾倉を横に振り出す。光る薬莢。空の薬室、四つ。装填し直す時間も、補給する場所もない。革ジャケットの内ポケットに指を入れる。皺くちゃの写真が一枚。妹が八歳の誕生日に俺の腕にぶら下がっている、その写真。油紙で包んでいる。それだけが、今夜俺が持っている全部だった。

写真の角は、もう何度も折れて、白く擦り切れていた。妹の笑顔の上に、雨水が一滴落ちる。慌てて袖で拭った。指先が震えていた。寒さじゃない。怒りでも、恐怖でもない。もっと、深いところから来る震えだった。三年。三年だ。三年かけて、俺はこの夜まで辿り着いた。なのに、たった一晩で——

足音。

「右から二人、左から三人、上から——」

口の中で呟く。屋根の上にも一人。雨に濡れた瓦の上、スコープの赤い点が向かい側の壁を舐めている。

六人。残弾二発。

笑えない冗談だった。

俺は走り出した。路地を真っ直ぐ。一直線。撃たれる前に、撃つ。先頭の影が角から覗いた瞬間、撃鉄を落とした。

銃声。

弾は男のこめかみを抉った。倒れる音。鉄と血の匂いが、雨に混じる。

残り、一発。

「止まれ!」

別の角から声。サブマシンガンの安全装置が外される、乾いた音。俺は迷わず反対側の路地へ飛び込んだ。狭い、両側を煉瓦で塞がれた、行き止まりかもしれない道。

走りながら、頭の中で組織図を開く。第三制圧班。隊長は元自衛隊。狙撃手は二人。距離を詰めるしかない。腰の鞘から短刀を抜く。鈍く光る刃。雨が刃身を伝って、俺の手首を濡らす。

——いける。

そう思った瞬間、目の前が壁になった。

煉瓦。三メートル。よじ登るには、両腕の力を回復させる時間がいる。脇腹の傷から、血の流れが速くなっている。手のひらで押さえると、布越しに、ぬるい液体がじわりと滲んだ。傷口の奥で、何かが脈打っていた。臓物が、まだ生きている、と訴えていた。

背後、足音。複数。

ぴた、ぴた、ぴた。複数の革靴が、水溜まりを踏み締めながら近づいてくる。一定のリズム。訓練された者の歩調。一人ではない、二人でもない。揃って、追い詰めにきている。

詰みだ。

俺は壁に背を預け、ゆっくりと振り返った。

煉瓦の冷たさが、傷口から血を抜き取っていく気がした。雨は止む気配がない。空を見上げる余裕もないが、視界の端で、街灯の光が雨粒に滲んで、橙色に揺れていた。

路地の入り口に、影が六つ並んだ。

正確には、五人と一つの銃口。先頭の男が、無線機に何かを呟いている。屋根の上の狙撃手は、まだ俺に照準を合わせている。赤い点が、ゆっくり、俺の額の中央に這い上がってきた。一寸の狂いもない。引き金一つで、俺の頭蓋は花のように開く。

「ナイフを捨てろ」

低い声。隊長らしき男だった。黒い戦闘服。額に古い切り傷。年の頃は四十前後。声に抑揚がない。何百回も、こうして人を追い詰めてきた声だった。

俺は短刀を、ゆっくり水溜まりに落とした。

ぴしゃ、と音が立つ。

刃が水面で跳ね、煉瓦に当たり、乾いた金属音を残して止まった。三年前、潜伏先の老師から譲り受けた、その一本。手放すのに、思ったより躊躇いはなかった。

「リボルバーもだ」

俺は撃鉄を起こしたまま、銃口を上げた。

ただし、相手にではなく——自分のこめかみに。

男たちの動きが止まる。先頭の隊長の眉が、微かに動いた。想定外、という顔だった。無線機に呟いていた口が、止まった。

「俺は撃たれて死ぬ気はない」

声が震えていないことに、俺自身が驚いた。

「父の何を、母の何を、俺が知っていると思ってる? お前らは生け捕りに来たはずだ。動けば、俺は俺を撃つ」

雨が銃身を伝う。引き金に掛けた指が、冷たい鉄を確かめている。あと、数ミリ。それで終わる。家族の元へ、行ける。

——いや。

行けない。

仇の名を、まだ叫んでいない。父の名を呼んだあの男の喉に、俺はまだ何の傷もつけていない。

俺の中で、何かが軋んだ。妹の冷たい頬と、幹部の笑い顔が、雨の中で重なる。指が震えた。引き金が、わずかに引かれた。

撃鉄が、薬室を、ほんの一ミリだけ滑った。

その瞬間。

閃光。

——いや、閃光ですらなかった。何かが視界の隅を、横に走っただけだった。風よりも静かに、影よりも速く。

音はなかった。先頭の男の頭が、糸の切れた人形のように落ちた。膝が崩れる前に、右の男が壁に叩きつけられる。誰が、何を、どうやって——

俺の目は、追えていなかった。

二人。三人。屋根の狙撃手が瓦を踏み外して落下する音。地面を叩く重い音、四つ。それぞれが、一秒も間を空けずに連なる。雨音すら、その動きの前では遅すぎた。

最後の一人が振り返った時、その喉元には、一本の杖が突き付けられていた。

杖。

ただの、節くれ立った木の杖だった。漆も塗られていない。先端も、ただ削っただけの粗い木肌。それが、男の喉仏の真上で、ぴたりと止まっていた。

「動くな」

しわがれた声。俺の耳ではない、最後の追手の耳に向けられた声。

雨の路地に、白髪の老人が立っていた。

痩せた身体。茶色の外套。裾が雨を吸って黒く変色している。背の高さは俺より一寸ほど低い。両肩は雪を載せたように白く濡れていた。だが——気配が、まるで無かった。すぐ目の前に立っているはずなのに、俺の本能が、そこに「人」を捉えていなかった。

老人は、最後の男の喉から杖を、ほんの一寸引いた。

それだけで、男は崩れ落ちた。意識を奪っただけだ。殺してはいない——なぜか、分かった。

老人がこちらを向く。

落ち窪んだ目。深い皺。痩せた頬。だが、背筋だけが、若い樹木のように真っ直ぐだった。

俺はまだ、自分のこめかみに銃口を当てたままだった。

老人が、ゆっくり歩み寄る。雨が、その白髪を伝って落ちる。一歩。二歩。水溜まりを踏む音すら、立たなかった。三歩目で、老人は俺の前で立ち止まった。

俺の銃口は、依然として、自分のこめかみに当たっている。指は、まだ引き金に掛かっている。だが、老人の眼差しは、その銃をまるで見ていなかった。俺の目だけを、射抜くように見ていた。

「下手な復讐だ」

しわがれた声。

「死んだ家族の影を抱えて、自分も死にたがっている男の目だ。仇を討つ前に、自分が壊れる目だ」

言葉が、雨より冷たく刺さった。

「だが——目だけは、死んでいない。育てがいがある」

差し出された掌。皺だらけの、節くれ立った、雨に濡れた掌。

それなのに。

その掌だけが、温かそうに見えた。

俺の指が、引き金から、ほんの少しだけ、ずれた。

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