第3話
第3話
階段の踏み板が、もう一度、軋んだ。 ぎし、ぎ、ぎし。降りてくる。 俺の指先は、まだ、雅人の染みのぬるさの上に、置かれたままだった。剥がそうと思えば剥がせる。なのに、手のひらが、その温度から、離れられない。離してしまえば、こいつが、ここに居たという証拠が、本当に、無くなる気がした。 「奏太くん」 階段の中腹で、声がした。さっき礼拝室で聞いた囁きとは、トーンが違った。あれが「待ち焦がれた者を呼ぶ声」だとすれば、これは、走り去った犬を、玄関先で迎えに出てきた飼い主の声に、近かった。 怒っていない。咎めてもいない。ただ、心配を、申し訳程度に、混ぜている。 その混ぜ方が、どこか、慣れていた。何度も、何度も、こういう声で、誰かを、呼び戻してきた者の、抑揚だった。
懐中電灯を、向けた。 段の途中、下から四段目に、彼女の素足が、止まっていた。爪先のあたりに、薄く、湿気の輪が、初めて、出来ている。さっき礼拝室では見えなかった、ただの「立ち止まった人間が残す跡」だ。 そのことが、なぜか、もっと、怖かった。彼女が、いま、人間の側に、降りてきている。 踏み板に置かれた足の指は、十本、ちゃんと数えられた。爪は、伸びすぎてもいないし、欠けてもいない。生きている誰かの、生活の続きにある足だった。それが、よけいに、間違っている、と思った。 「ねえ。一回、立って」 彼女は、両手を、すこし広げた。怪我をした子供を、抱き止めるときの構えに似ていた。 俺の膝が、勝手に、伸びた。腰の力で立った、というより、染みの上から、何かに、引き剥がされた、と言うほうが、近かった。雅人だったぬるみが、指先から、ふっと、離れた。 「いい子」 彼女が、笑った。
裸足が、染みを、避けて歩いた。 ヒロの輪郭にも、雅人の輪郭にも、足の指は、触れなかった。まるで、それが何であったか、最初から、知っていたみたいに。 俺の前に立つと、彼女は、首をすこし傾げた。前髪の隙間から、左目の濁りが、また、ぬらりと光った。 「ごめんね」 彼女は、言った。 「もっと、ゆっくり、会いたかったんだけど」 雅人とヒロのことだ、と、頭の冷たい部分が、ようやく、解釈した。 「お前が、やったのか」 喉から絞り出した声は、自分のものとは思えないほど、低くて、震えていた。 「私じゃないよ」 彼女は、首を振った。 「あの子たちが、勝手に来ちゃっただけ。三階に、来ていいのは、奏太くんだけだったのに」 あの子たち、と。 さっきまで配信機材を担いで笑っていた二人の男が、彼女の口の中では、もう、過去形に、なっていた。過去形にされた瞬間に、二人の声も、笑い方も、舌打ちの癖も、まとめて、彼女の唇の裏側に、しまわれた気がした。
冷たい指が、俺の頬に、触れた。 驚くより先に、皮膚の表面が、ぴくり、と痙攣した。彼女の指先は、礼拝室で触れた時より、ほんのわずかに、温度を持っていた。雅人の染みの、最後のぬるさを、彼女が、自分の指先に、移してきたようだった。 親指の腹が、頬骨に沿って、上に、撫で上げられた。爪のざらつきは無く、当たるのは、滑らかな、湿った皮膚だけだ。 撫で上げられた皮膚の下で、奥歯が、勝手に噛み合った。歯の根に、にぶい痺れが走った。逃げろ、と、身体のどこかが、まだ言っている。なのに、頬の表面は、その指先を、迎え入れるように、ほんの少し、寄って行こうとしていた。 「奏太くんだけは」 息が、唇のすぐ前で、止まった。 「絶対に、殺さないから」
絶対に、殺さない。 その前に置かれた「だけは」の二音節が、俺の頭の中で、ゆっくり、形を変えていった。 あの二人は、殺されたのだ。 ということは、彼女は、殺せるのだ。 そしてその上で、俺だけは、殺さない、と、彼女は、選んだ。 それを、優しい、と感じた、俺の脳の回路が、こわい。 怖いのに、頬の、彼女の指の置かれた一点だけが、不自然に、熱を持ち始めていた。 その熱は、湯たんぽみたいに、ゆっくりと、頬の内側に、染みていった。耳の付け根まで、染みた頃には、自分の心臓の鼓動が、頬骨を通して、彼女の指に、伝わっているのが、分かった。聞かれている、と、思った。脈の数を、数えられている。
ポケットの中で、スマホが、震えた。 俺は、肩を、ぴくり、と跳ねさせた。 彼女の指は、頬から、離れない。 震えが、二回、三回、続いた。通知だ。 「出ていいよ」 彼女が、囁いた。 俺は、震える指で、ジーンズからスマホを引き抜いた。ロック画面に、DMの通知が、二件、重なっていた。 雅人の、アカウントから。 『にげて』 ひらがな、四文字。 もう一件、ヒロのアカウントから。 『そいつ、化け物』 指先が、画面の上で、止まった。 雅人もヒロも、いま、この一階の床に、染みになって、いる、はずだ。 死んでから、誰が、これを、打ったんだ。 ひらがな四文字の「にげて」は、雅人が、生前、酔った時にだけ送ってくる、ふざけたDMの書き癖と、同じだった。漢字を使うのが面倒くさい、と笑っていた、あの打ち方だった。死んだ人間の癖まで、誰かが、わざわざ、真似ていた。
画面の光が、俺の顔を下から照らしているのだろう。彼女の左目の濁りが、その光を受けて、虹彩のように、ぬめっとした模様を浮かべた。 彼女は、画面を、覗き込まなかった。文面を、確認しようとも、しなかった。すでに、知っているからだ、と、頭のどこかが、冷たく、理解した。 「逃げて、って」 彼女は、笑った。 「どこに、逃げるつもり?」 俺は、足を、後ろに、引こうとした。 動かない。 膝から下が、礼拝室で会った時と、同じ重さで、床に、押し付けられていた。腿の筋肉が、それを引き上げようとして、ぴくり、ぴくり、と無駄な信号を出している。 スマホが、もう一度、震えた。 無視した。逃げて、の四文字を、上書きするだけの言葉を、俺は、もう、思いつけなかった。 「奏太くん」 彼女の手が、俺のスマホを持つ手の甲に、そっと、被さった。 冷たい甲が、こちらの血管の上に、ちょうど合わせて、置かれていた。 「動けないなら、私が、連れていってあげる」 ぐ、と、引かれた。 俺の手首が、彼女の方に、軽く傾いだ。それだけで、地面に縫い止められていたはずの足が、ふっ、と、軽くなった。彼女の指先一つで、重力が、書き換えられた。 書き換えられた、と感じた瞬間、自分の体重が、自分のものではなくなった気がした。腰から下が、誰かに借りた荷物のように、彼女の歩幅に、勝手に合わせて、動き出した。 そのまま、彼女は、俺の手を、引いて、歩き出した。 玄関ホール。倒れた三脚を、踏まないように、彼女の素足が、ひょい、と一度、跳ねた。床に残った染みの輪郭の、ちょうど、外側を、彼女は、選んで歩いた。雅人の頭のあった辺りを、彼女は、踏まなかった。それが、唯一、彼女に残された、人間らしい礼儀のように、見えた。
割れた玄関扉の、内側まで、引かれた。 扉の隙間から、夜の山の、本物の冷気が、流れ込んできた。線香でも、雨に濡れた紙でもない、ただの、夏の山の、湿った空気。麓の方から、蝉の鳴き声が、ようやく、戻ってきていた。 彼女は、敷居の手前で、止まった。 そこから先には、出ない、というふうに、踵が、止まった。 「ここまで」 俺の手を、放した。 彼女の指の温度が抜けた瞬間、皮膚の上に、輪のような感触が残った。 「奏太くん。また、来てね」 彼女が、笑った。 「私のこと、見つけてくれて、ありがとう」 それは、初めて、十六、七歳の女の子の声、らしい、声だった。
俺は、敷居を、転びそうな足取りで、跨いだ。 夜気が、肺に、流れ込んだ。むせた。むせている自分の声が、生ぼけて、生臭く、ひどく人間くさかった。 背後で、玄関扉が、軋みながら、ゆっくりと、閉まった。閉めたのは、彼女の手じゃない。誰の手でも、無かった。 車まで、走った。キーを、ポケットから引き出すのに、二回、落とした。エンジンをかけた瞬間、ハンドルに、突っ伏した。指の腹に、雅人の染みの、最後のぬるさが、まだ、薄く、残っていた。 スマホを、ダッシュボードに放った。画面の上で、雅人とヒロのアカウントから、また、新しい通知が、立て続けに、震えた。文面は、見なかった。 山道を、下りる。 バックミラーに、寮の三階の窓が、ぽつ、と、白く、灯っているのが、映った。 誰もいないはずの礼拝室の、灯り、だった。 ハンドルを、切った。タイヤが、夏草を噛んだ。 明日、警察に、なんて、説明するんだ。