第3話
第3話
ぴた、ぴた、ぴた。
足音は、四つか、五つか、それ以上か、もう数えられなかった。重なって、ずれて、また重なる。私の靴底の音と同じ湿った響きが、真後ろから、私とは違う歩幅で、追いついてくる。 振り返るのが、怖かった。 振り返らないのは、もっと、怖かった。
私は、振り返らずに、走った。 鉄扉のあった方向、いや、もう鉄扉などない方向へ、ただ、自分のライトが照らす先へ向かって、走った。前髪に風が当たる。奥のほうへ、誰かが息を吸い込んでいる、あの流れ。私はその吸気の奥へ、自分から、突っ込んでいった。 こちらに来い、と引かれているのか、私のほうから、走り込んでいるのか、その区別が、もう、つかなかった。 スマホのライトが、何度か、揺れて、明滅した。揺れるたびに、私の影が、左の壁、右の壁、天井、と、別の角度から、私を追いかけてきた。自分の影なのに、私が止まる前に、止まりかけている気がした。影の縁が、私の輪郭よりも、半拍、遅れて動く。半拍ぶんの、私ではない誰かが、影の中に、混じっている気がした。 赤い矢印の番号が、ばらばらに、私の目の端を流れていく。三桁、四桁、二桁。一度、ゼロ、と読めた壁面を、私は通り過ぎた。次の瞬間、また、四桁になっていた。番号は、私が読み終えるのを待って、書き換えられている。そんな順序に、思えた。読まれることで、初めて、数字が、意味を結ぶ。読まれないあいだは、ただの、染みなのだ。 通路は、まっすぐではなかった。気づくと、緩やかに、左へ、右へ、曲がっていた。曲がり角を曲がるたび、足音は、いったん遠ざかり、すぐに、また近づいた。距離が、伸び縮みしている。あるいは、距離そのものが、この通路では、意味を、持っていない。 息が、あがった。 肺の奥が、甘い匂いの空気で、ふやけた。喉の奥に張った薄い膜が、走るたびに、舌の根に貼り付いてくる。唾を飲もうとして、できなかった。鼻孔の奥に、線香にも似て、線香よりは甘ったるい、果実が腐る寸前の匂いが、こびりついていた。吸うたびに、その匂いが、肺の内側に、薄く、薄く、塗り重ねられていく気がした。
最初に、それを見たのは、左の壁だった。
走りながら、視界の端に、黒い染みが、滲んだ。湿気で黒ずんだコンクリートとは、違う黒。もっと、濃い。光を、吸う黒。立ち止まる前に、私はそれが、五本指の、手のひらの形をしているのに、気づいた。 壁の内側から、押し付けられている。 コンクリートの表面を、内側から押し広げて、にじみ、にじみ、輪郭を、はっきりさせていく。手首のあたりまでが、もう、視えていた。指の関節が、ゆっくりと、力を込めるように、屈伸した。爪の跡が、表面に、薄く、薄く、五本、刻まれた。爪と爪の間の、皮膚のしわまで、こちら側に、押し出されてきている。指の腹が、コンクリートに、ぐっ、と密着して、その粒の凹凸を、内側から、なぞっている。
私の足は、止まらなかった。止めたら、あの手のひらが、私の肩に届くと思った。 走った。 右の壁にも、同じものが、滲んでいた。 天井にも、あった。 ぼたりと、何かが、私の前髪に落ちた。慌てて手で払った私の指先が、生暖かく、ねばついた。それが何かを確かめる前に、私はそれを、自分のスカートの脇で擦り落とした。匂いは、しなかった。匂いがしないことが、かえって、嫌だった。匂いのしないものは、この世界に、本来、属していないものだ。私の指先に残った、その温度だけが、確かに、あった。体温よりも、ほんの少しだけ、低い、誰かの、温度。
スマホの画面を、走りながら、見た。 電波のアンテナが、立っていなかった。 バツ印が、左上に、ぽつりと、浮かんでいる。 時刻表示の数字は、私が地下に降りてから、まだ、二分しか進んでいなかった。 たぶん、もう、二十分は走った。 時計のほうが、ここでは、嘘をついていた。あるいは、私が走った時間そのものが、地上に、まだ、届いていなかった。 画面を見たくなくて、目を逸らした。逸らした先の壁にも、もう、手形があった。手のひらが、いくつも、いくつも、こちらを見ているように、整列していた。指先が、私の進行方向を、揃って、指していた。指で示されているのか、追い立てられているのか、判別できなかった。指の関節の角度が、どれも、わずかに、違っていた。違う手のひら、違う持ち主が、それぞれの意思で、別々に、私の進む方向を、指している。指している、というよりは、その方向に、私を、誘っている。誘っている、というよりは、その方向にしか、もう、行き場が、ないのだと、教えている。
行きどまり、と思った先で、通路は、また曲がった。 曲がった先で、また行きどまり、と思った。 何度、それを繰り返したか、もう、わからない。 ライトの電池の残量は、見ないようにした。残量を見たら、見た瞬間に、電池が切れる気がした。 背後の足音は、もう、足音ではなかった。 湿った布を、コンクリートに、引きずるような音。 何かを、引きずってくる音。 ひとつではなくて、いくつも、ひとつの足音に、合流していく音。
私は、走りながら、考えた。考える、というより、走る速度よりも遅く、思考のかけらが、後から後から、追いついてくる、そんな順序だった。 視えない。 視えないことが、ここでは、当たり前なのだ。 私の霊感は、これまで、視えるはずのものを、視ていた。視るというのは、そこに姿があり、輪郭があり、こちらが認識する、という手順だった。私は、視ることで、彼らとの間に、距離を、引いてきた。視ている、と自覚するその一拍が、私と彼らのあいだに、薄い、けれど確かな、ガラスの一枚を、立ててきた。子どものころから、そのガラス越しにだけ、私は彼らを、見てきたのだ。 だが、ここには、その手順が、ない。 ここでは、姿が先にあるのではなく、気配のほうが、先にある。気配が形を借りて、初めて、姿になる。私が瞬きをした、あの一瞬。あれが、向こうに、形を借りる時間を、与えた。 私が認識するから、視える、のではない。 私が瞬きをするから、視られる。 視る側と、視られる側が、ここでは、入れ替わっていた。
走りながら、ようやく、私は、理解した。 私はこれまで、視える側にいた。 彼らに、こちらの間合いを、決めさせていた。 だが、いま、私の側に、間合いはない。 ここは、視えない側の、彼らの、領分だった。 私のほうが、間合いの内側に、立っている。 息が、ひとつ、喉の奥で、詰まった。立っている、ではなく、立たされている、のだ。私が、自分の足で、ここに走り込んできたつもりで、本当は、足のほうが、誰かの呼吸に、合わせて、運ばれてきていた。吸気の奥へ、と思って踏み込んだその一歩は、最初から、向こうの肺の中への、一歩だった。
その瞬間、足が、もつれた。 靴底のひとつが、湿ったコンクリートに、強く、貼り付いた。引き剥がそうとした力で、私は、前のめりに、転んだ。スマホが、手から、滑った。ライトが、壁を、天井を、無意味に、なめ回した。 床に、両手と、両膝を、ついた。 コンクリートの粒が、掌の皮膚に、食い込んだ。生暖かい、ねばつき。さっき、前髪に落ちた、あれと、同じ感触。私はそれを、確かめないようにして、立ち上がろうとした。膝の皿が、床に擦れて、痺れたように、熱を持った。掌の下で、コンクリートの粒の一つひとつが、私の体重を押し返してくる。その粒の、ひとつひとつの隙間から、下のほうから、何かが、私の掌の皮膚を、舐め上げるように、覗いている気がした。
立ち上がる、その途中で。 すぐ、すぐ、後ろで。 ぺた、と。 あの、扉の内側の音が、した。 手のひらが、コンクリートに、貼り付く、あの音。 すぐ、後ろの、床に。 私は、振り返らなかった。 振り返ることが、瞬きと、同じだと、わかったからだ。
代わりに、私は、前を、見た。 転んで滑ったスマホが、数メートル先の床で、ライトを、私とは反対側に向けて、転がっていた。 そのライトの逆側の光が、通路の、行き止まりを、わずかに、照らしていた。 コンクリートの壁。継ぎ目のない、ただの、終わり。 そう、見えていた。 そう、見えていたはずだった。 だが、その壁の、ちょうど、人ひとり分の高さに、何か、淡い光の輪郭が、ゆっくりと、にじみ始めていた。 四角い枠。 扉、というよりは、扉の、形を借りた、別の何か。 光は、青白く、弱く、けれど、確かに、壁の内側から、滲んできていた。
背後で、湿った布を引きずる音が、近づいた。 私は、立ち上がった。 スマホを、拾わずに、その光のほうへ、駆けた。