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視えない扉の向こう側

第2話 第2話

第2話

第2話

ぺた。 玄関のほうで、その音は、三度、繰り返された。 私はベッドの上で、布団を顎まで引き上げたまま、息を殺した。心臓が、肋骨の内側で勝手に拍を刻んでいる。一拍、二拍、三拍。それきり、玄関の音は途絶えた。 朝になって、私は意を決して玄関の扉を開けた。三和土には、何も落ちていなかった。郵便受けにも、ドアの外の共用通路にも、湿った足跡ひとつ残ってはいなかった。私はドアスコープの覗き穴を、内側から布で塞いだ。それで気が済んだ。 そう、思いたかった。

学校は二日休んだ。母には風邪だと告げた。母は、体温計を見もせずに「無理しないでね」と短く言って仕事に出ていった。我が家は、私が体調を崩すたびに、こうやって淡白に過ぎていく。誰も、私の不調を疑わない。誰も、私の秘密に気づかない。 布団の中で、私はあのDMを何度も開き、何度も閉じた。 『次は、内側から、開けておくよ。』 通報なんて、できるわけがない。地下通路に行きました、扉の向こうから息遣いが聞こえました、知らない人からDMが来ました。警察が真面目に取り合うはずがない。母にも言えない。「霊感少女」が、視えない何かに怯えているなんて。 スマホの電源を切った。 枕の下に、押し込んだ。 それでも、深夜になると、私の指は布団の中で勝手に電源ボタンを探した。電源を入れた瞬間に、新しい通知が積もっていたら、と思うと指先が冷たくなった。けれど、何も来ていないと確かめないと、眠れもしなかった。電源を入れる、確かめる、また切る。それを、夜中に三回、繰り返した。

三日目の夕方、ふと、気づいた。 あのDMは、まだ、削除されていない。 削除されていないということは、向こうは、まだ私を覚えている。 削除されていないということは、向こうは、私が来るのを、待っている。 そう思った瞬間、私の中で、何かが、小さく、しかし確かに、反転した。 怖い。怖いに決まっている。 だが、視えないままで終わらせるほうが、もっと、怖かった。 わからないまま、布団の中で耳をそばだてて生きるよりは、視てしまったほうが、まだ、息ができる気がした。視ることは、私の、唯一の手だった。

四日目の夜、私はもう一度、運動靴の紐を結んでいた。

***

商店街の裏路地は、四日前と、何ひとつ変わっていなかった。 閉じかけたシャッター、潰れた金物屋、踏み潰された赤いお守り。同じ景色が、同じ場所に、同じ角度で配置されていた。誰かが舞台を片付け忘れたまま、次の幕を待っているような、そんな違和感だけが、夜気の温度に混じっていた。 階段の上に立った瞬間、匂いが、変わっていることに気づいた。 四日前の土と血の匂いは、薄まっていた。代わりに、甘い、何かが腐って発酵したあとの、熟れすぎた果実のような匂いがしていた。鼻の奥にまとわりつく甘さが、鉄錆よりも、ずっと、禍々しかった。喉の奥に、薄い膜が一枚張ったような、舐めても飲み込めない感触。私は唾を、二度、無理やり飲み下した。

階段を、降りる。 踊り場の赤いお守りは、同じ位置にあった。だが、よく見ると、和紙の覗いている向きが、わずかに変わっていた。私が跨いだ位置から、ほんの数センチ、扉のほうへ寄っている。 「……視えない。視えないのに、動いている」 口に出してから、私は自分の声を聞いて、ぞっとした。地下の壁が、私の声を、思ったよりも長く、反響させた。湿気を含んだ反響は、私の声を、私の声ではない誰かの声に変えて、返してきた。少し低く、少し遅く、わたし、と語尾が伸びる。まるで、私の言葉を、別の口が、もう一度、咀嚼してから返してきたみたいだった。

下りきった先で、私は息を呑んだ。

鉄扉が、開いていた。

施錠されていたはずの取っ手が、内側からそっと押されたように、人ひとり分の隙間を作って、こちら側にせり出している。錆の浮いた縁に、新しい引っ掻き傷のような線が、何本も走っていた。指先で押した、というより、指の関節を引っ掛けて、内側から、ゆっくり、ゆっくり、押し開けたような跡だった。爪の先が金属の縁に擦れて、わずかな鉄粉を、隙間の床にこぼしていた。私はその粉を、踏まないように、半歩、横へ避けた。 私はスマホのライトを、隙間に向けた。 今度は、光が、通った。 通ったが、その光は、私が想像していた地下倉庫のような空間を、照らしはしなかった。 鉄扉の向こうにあったのは、長い、長い、コンクリートの通路だった。 天井までの高さは、私の頭よりも、わずかに低い。両側の壁には、消えかけた赤い矢印と、何かの番号らしき塗料が、不規則に並んでいた。空気は、地下にいるはずなのに、なぜか、緩やかに、奥のほうへ流れている。前髪が、一筋だけ、奥のほうへ引かれた。風が吹いている、というより、奥にある何かが、ゆっくりと、息を吸い込んでいる、そんな流れ方だった。 誰かが、奥で、息を、吸い込んでいる。

ひゅう。

四日前と、同じ吸気音だった。 ただし、今度は、扉の向こうではなく、もっと、ずっと、奥のほうから、聞こえた。

私は、扉をくぐった。 誘われるように、というのは、たぶん、こういうことを言うのだ。

***

通路は、思っていたよりも、ずっと、長かった。 スマホのライトに浮かび上がる赤い矢印を、目印にして進んだ。番号は、最初は三桁だったのが、いつの間にか四桁になり、また三桁に戻っていた。順番が、ばらばらだった。地下のどこかで、誰かが番号札を取り違えたまま、貼り直したような、ちぐはぐな並びだった。 歩くごとに、足元のコンクリートが、湿っていく。最初は乾いていた靴底が、十歩、二十歩と進むうちに、ぴた、ぴた、と粘りのある音を立て始めた。私は俯かないようにした。下を見たら、自分の靴が踏んでいるものを、確かめなければならなくなる。

三十歩を数えた、その時だった。

通路の十数メートル先、私のライトが届くか届かないかの、淡い明暗の境界線。 そこに、人影が、立っていた。 長い髪の、女の子。 私と同じくらいの背丈の、男の人。 背中を丸めた、お年寄り。 三つが、横一列に、こちらを向いて、立っていた。 三人の輪郭は、暗さに溶けかけていて、けれど、こちらに正対しているのだけは、はっきりと、わかった。手も、足も、顔の凹凸も、判別できない。ただ、まっすぐに、私を、向いていた。視線、というには、目が見えないのに、見られている、という感触だけが、皮膚の上に、ぴたりと貼りついた。 私は、悲鳴を、呑み込んだ。

瞬き、をした。

たった、一回。 まぶたを下ろして、上げる、その、わずかな間。

人影は、消えていた。 通路の先には、ただ、私のライトが照らす、湿ったコンクリートと、消えかけた赤い矢印だけが、残っていた。 喉の奥で、声にならない音が、鳴った。 これまで私が視てきた霊たちは、視られていることを知ると、淋しそうに微笑んで、通り過ぎていった。彼らには、こちらを「視ている」存在として認識する、余裕があった。 さっきの三つは、違った。 あれは、私を見ていなかった。 あれは、私を、待っていた。 私の瞬きを、待っていた。 瞬きの一拍を盗んで、その間に、姿勢を、変える。あるいは、距離を、詰める。 そう確信した、その瞬間。 私の数メートル先、ライトのいちばん明るい場所に、長い髪の女の子が、立っていた。 さっき、十数メートル先にいたはずの、あの輪郭。 顔は、まだ、視えない。髪が、顔の前に、垂れている。けれど、その身体は、私と同じ高校の制服を、ぼんやりと、まとっていた。スカートの襞の数まで、同じだった。襟元のリボンの、結び目の歪み方まで、同じだった。鏡を、湿ったコンクリートの上に、立てかけているような、そんな、嫌な、対称さだった。 私の運動靴のつま先が、自分の意思とは無関係に、後ろへ、半歩、下がった。 靴底が、湿ったコンクリートを擦って、ぴた、と、鳴った。

その音で、私は、振り返った。 反射的に、だった。 逃げるなら、来た道。来た道なら、入ってきた鉄扉。鉄扉なら、十二段の階段。階段なら、地上。地上なら、夜気のある、空。 振り返った先に、その全てが、あるはずだった。

***

私のライトの先には、ただ、コンクリートの壁が、あった。

入ってきたはずの、鉄扉。 鉄扉の向こうの、十二段の階段。 階段の上の、商店街の裏路地。 全部、なかった。 通路は、私の真後ろ、五メートルほどの距離で、ぷつりと、行き止まっていた。壁の表面は、湿気で黒ずんでいて、新しい工事の継ぎ目も、剥がれた跡もない。長い間、ずっと、そこに在り続けた壁だった。 私の喉が、もう一度、勝手に、上下した。 「……嘘」 口にした言葉が、私の声で、返ってこなかった。

私の背後で。 湿ったコンクリートを、ぴた、と踏む音が、した。 ひとつでは、なかった。 重なって、いた。

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