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視えない扉の向こう側

第1話 第1話

第1話

第1話

鉄錆の匂いが、舌の奥に絡みついて離れなかった。

午後十一時を過ぎた商店街の裏路地は、人の気配ごと吸い込まれたような静けさだった。閉じかけたシャッターの隙間から漏れる蛍光灯の白い光だけが、私の足元をかろうじて照らしている。閉店したクリーニング屋と、潰れた金物屋の境い目。SNSの写真と寸分違わない位置に、半分崩れかけたコンクリートの階段が口を開けていた。 階段の上に立ったまま、私は何度か呼吸を整えた。 ここまで来ても、引き返すことはできた。たぶん、できた。 だが、私の運動靴のつま先は、すでに段の縁を越えかけている。 スマホのライトを点けたまま、私はその階段を覗き込んだ。地下に向かって、十二段。途中の踊り場で、何度か折り返している。 階段の手すりに掌を添えると、ざらりと茶色い粉が指の腹に張り付いた。錆びた手すりの欠片が、汗で湿った皮膚に貼り付いて、振っても落ちない。私は無意識にその粉を制服のスカートで擦った。 踊り場には、千切れた赤いお守りが一枚、踏み潰されたように落ちていた。中から、黄ばんだ和紙が少しだけ覗いている。 私はそれを跨いで、降りていく。 スニーカーの底が階段にこすれるたび、想像していたより乾いた音が、地下のほうに長く反響した。誰かが下で、私と同じテンポで歩いているような、奇妙な錯覚があった。 途中で、段数を数えるのをやめた。 数え続けたら、引き返すしかなくなる気がした。

下りきった先に、その鉄扉はあった。 SNSで見た写真より、一回り小さい。ペンキの剥げ落ちた箇所から、赤茶色の地金が幾筋も垂れている。鍵穴は塞がれ、取っ手は錆びついて、表面のあちこちが膨れ上がっていた。 「決して開かない地下通路」。 私は耳を澄ました。 湿った息遣いが、扉の向こうから、確かに、漏れてくる。

***

天野澪、十六歳。 私には、視える。

視えるからどうした、と人は言うかもしれない。けれど、自分の机の上に、誰のものでもない掌の汗の跡を見つけた朝の気持ちが、誰にわかるだろう。それは生きている人間の汗ではなくて、生暖かいのに、すぐに乾いてしまう種類の汗だった。 教室の隅で、私が宙の一点にうっかり視線を止めるたび、女子たちは背筋を震わせて目を逸らした。彼女たちの怯えは、私には視えないものを見ているという確信から来ていて、それは半分正しく、半分残酷だった。 小学校の頃にはまだ「霊感少女」と呼ばれていた渾名は、高校に上がる頃には、もっと短く、もっと刺すような単語に変わった。 「きしょい」 「ちょっと、こっち見ないでくれる?」 今日の昼休みも、隣のクラスの女子が、私の机の上を箒で何度か払っていた。塩を盛るような仕草で、わざと、私と目を合わせずに。私は窓の外を見て、視えないふりを続けた。古いやり方だ。三年もやれば、笑顔の作り方も上手くなる。 笑顔は、私の表情ではなく、私の防具だった。教室のドアを開ける前に被って、家の玄関で外す。鏡の前で何度も角度を試して、唇の端を一ミリだけ持ち上げる練習を、私はもう何百回繰り返してきただろう。 だから私は、視えないふりを覚えた。視えていても、絶対に目を留めない。気配を感じても、振り返らない。それが私の処世術で、私が選んだ静かな擬態だった。 昼休みには、誰とも話さず、図書室の隅でスマホを握る。深夜のSNSで都市伝説を漁る私は、人の気配より、人ならざるものの気配のほうが、ずっと馴染み深かった。 霊たちは、私を「視える子」とは呼ばない。彼らはただ、こちらが視ていると分かったときに、少しだけ淋しそうに微笑んで、そのまま通り過ぎていく。私もまた、視ていることを悟られないように、知らないふりで道を譲る。お互いの礼儀のような、奇妙な作法だった。 私には、その距離感のほうが、生きた人間との距離感よりも、ずっと心地よかった。

そのアカウントを見つけたのは、三日前の午前二時だった。 フォロワー数二百ちょっとの、特に有名でもないアカウント。匿名で、アイコンは真っ黒の四角。投稿は、ぼやけたスマホ写真と、短い文章だけ。 『商店街の裏、防災倉庫を装った階段の下に、鉄扉がある。施錠されているはずなのに、夜中になると、子どもの泣き声に似たものが、向こう側から漏れてくる。朝になると、その扉は誰にも見つけられない』 眉唾だ、と最初は笑った。都市伝説のテンプレートだ。発見、目撃、消失。教科書通りの三幕構成。 笑ったのに、その夜、私は地図アプリを開いていた。 笑ったのに、私の指は、画面の上を勝手に動いていた。 そして今、私はもう、ここに立っている。

引き寄せられたのではない、と自分に言い聞かせた。確かめたかっただけだ。視える私が、「視えないものがいる」と言い切れる場所など、この世にあるはずがない。そう、確かめたかっただけ。

***

扉の前に立ったとき、最初に気づいたのは、匂いだった。

土。 それから、血。 夏場の肉屋のショーケースの奥で、少しだけ放置された、あの種類の匂い。鼻の粘膜にまとわりついて、舌の根の奥でゆっくりと溶けて、舌先まで上がってくる。私の喉が、勝手に上下した。生唾を呑み込んだ自分の音が、地下の静寂のなかで、ばかみたいに大きく響いた。 鉄扉の表面に手の甲をそっと当てると、初夏の夜だというのに、氷の塊を抱いたように冷たかった。指の腹を伝って、冷気が手首の血管をじわりと這い上ってくる。

私はスマホのライトを、扉の隙間に向けた。

光は、通らなかった。 正確には、隙間の向こうに、光を吸う何かがある。 一センチにも満たない隙間に、黒い綿のような闇が、ぎっしりと詰まっている。光の輪郭が、そこできっぱりと途切れた。物理的に、何かが詰まっているとしか思えなかった。けれど詰まっているのなら、息遣いは漏れてこないはずだ。

ひゅう。 ひゅう。

湿った布を絞るような、低い吸気音。ゆっくり、規則的に。子どもが泣き疲れて、嗚咽の合間に空気を吸い込んでいるような、そんな音。私は知らず識らず、扉の隙間に鼻先を寄せていた。額が、氷のような鉄の表面に当たって、皮膚の薄いところがじんと痺れた。 息遣いは、ちょうど、私の耳の高さで聞こえている。

――視えない。

そのことに気づいた瞬間、背骨が芯から冷えた。 私には、視える。 視えるはずだ。これだけ近くで、これだけ濃い気配が立ち上がっているなら、薄い人影でも、揺らぐ輪郭の片鱗でも、何かしら視界の端に滲むはずだった。 それが、視えない。 気配だけが、ある。 匂いだけが、ある。 息遣いだけが、ある。 なのに、姿が、ない。 視えない、ということを、私はこれまで一度も体験したことがなかった。気配があるなら姿があり、姿があるなら気配がある。それが私の世界の単純で揺るぎないルールだった。そのルールが、いま、目の前で、音を立てずに破れていた。

膝の裏が痺れた。私はこれまで、視えることを呪い続けてきた。視えなければ、もっと普通に笑える。視えなければ、もっと普通に教室の真ん中に座れる。視えなければ、と何度も天井に向かって祈ってきた。 だが、いま、私は理解した。 視えないことのほうが、ずっと、ずっと、怖い。 視える側にいる限り、私は対象を測ることができた。距離も、輪郭も、こちらに気づいているかどうかも。視えないものは、測れない。 測れないものは、もう、向こうの間合いだ。

ひゅう。 息遣いが、止まった。

代わりに、扉のすぐ向こうで、何かが、ゆっくりと、扉の内側に手のひらを押し当てた音がした。 ぺた、と。 冷たい肉が、冷たい鉄に貼り付く、あの音。 私の額のすぐ向こう、扉一枚を隔てた向こう側で、誰かが、私と同じ高さに、同じように顔を寄せている。

私の踵が、勝手に一歩、後ろに下がった。 それから、走った。 階段を駆け上がる自分の足音が、いつまで経っても、踊り場の手前で止まなかった。

***

部屋に戻ってからの記憶は、ところどころ抜けている。 シャワーの湯温を熱湯近くまで上げても、身体の芯はずっと冷たいままだった。髪を乾かす風の音が、扉の向こうの息遣いに似ている気がして、ドライヤーを途中で止めた。鏡を見ないようにして、洗面所の電気を消した。 ベッドに潜り込み、画面の明るさを最小にしてSNSを開いたとき、通知が一件、点滅していた。

DM。 フォローしていない、知らないアカウント。 アイコンは、真っ黒の四角だった。

震える指で、開いた。

『今夜は、よく覗き込んでくれたね。』 『次は、内側から、開けておくよ。』

最後の一文を読み終えた、その瞬間。 玄関のほうで、ぺた、と。 さっきと、まったく、同じ音がした。

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