第3話
第3話
階段の、踊り場の、その先へ、足を踏み出すことが、できなかった。
俺の右手は、欄干の冷たい木に、自分でも気づかぬうちに、貼りついていた。手のひらの汗が、漆の塗り重ねた表面に、湿った地図のような跡を残し始めている。胸の奥で、心臓が、鈍く、けれど確実に、肋骨の内側を叩き続けていた。階段の上の暗がりからは、もう、笑い声は降ってこなかった。代わりに、踊り場の四段目に止まった子供の足跡が、ゆっくりと、輪郭を失っていった。乾いていったのではない。木目に染み込むように、ただ、吸い込まれて、消えていった。
桑名の言葉を、俺は、一晩中、反芻し続けた。「夜は、二階に、上らんほうがいい」。あれは、警告というより、懇願に近かった。あの男が十年前に何を見て、何を知らないままにしておくことを選んだのか、その全部を、俺はまだ、引き受ける用意ができていない。
朝が来て、また夜が来た。葬儀屋の手配した僧侶は、参道の入口で、般若心経の最初の一節だけを唱え、そのまま頭を下げて、屋敷には足を踏み入れずに帰っていった。日が落ちると、母屋の柱という柱が、内側から軋んだ。木の家は呼吸をすると言うが、この屋敷の呼吸は、明らかに、生きている人間のそれとは、違っていた。短く、吐く。長く、吸う。吸うときに、廊下のどこかから、湿った空気が、ずっ、と引き寄せられる。
そうやって、初七日の夜が、来た。
仏壇に、新しい蝋燭を立てた。線香を、三本。火を点けようとしたライターの炎が、何度試しても、立ち上がる前に、横に流れて、消えた。風はない。雨戸はすべて閉めている。それでも、炎は、誰かの吐息に押されたように、消え続けた。四度目で、ようやく、線香の先端に、赤い点が灯った。煙が、まっすぐ、立ち上る。立ち上って、すぐに、畳の方角へ、下りていった。
煙が下りる、と、いう光景を、俺は、生まれて、初めて、見た。
仏壇の前に、座り直した、そのときだった。
ぴし、と、足の裏の畳の、さらに下から、何かが、軋んだ。
家鳴りではない。家鳴りなら、もっと乾いた音がする。これは、湿った木の繊維が、ゆっくりと、誰かの体重を受け止めて、撓んだ音だった。続いて、ぴし、ぴし、と、規則的に、二度。
それから。
──ふ、ぅ、う……。
息を、吐く音が、した。
畳の、ちょうど俺の膝のすぐ前あたりから、ごく低く、ごく細く、女の声が、震えながら、漏れ出してきた。泣いている、と、すぐには分からなかった。あまりにも、声を殺していた。喉の奥で、何かを噛み殺すようにして、それでも漏れてしまうものを、布越しに押し込めているような、そういう泣き方だった。
俺は、息を、止めた。
声は、止まらなかった。ふぅ、ふぅ、と、間隔を置いて、続いた。途切れるたびに、もう一度、何かを呑み込み直すような、ごく小さな、こく、という喉の音が、混じった。子供の泣き方ではない。母の泣き方でもなかった。年齢の輪郭が、はっきりとは、見えなかった。けれど、それが、女の声であることだけは、間違いがなかった。
声の、出ている場所は、明らかに、畳の下、だった。
俺は、立ち上がった。立ち上がる、というよりは、両膝が勝手に伸びた、というほうが、近い。畳の縁を、震える指で、めくった。仏間の畳は、十年前と同じ、藺草の太いものが使われていた。父が、毎年秋に、知り合いの畳屋に頼んで、表替えだけはきっちりさせていたものだ。指の腹に、もう古びてささくれた藺草の感触が、棘のように刺さった。
畳を、もう一枚、めくる。
板床の、節目の濃い、古い板が、現れた。
板の継ぎ目が、不自然に、新しかった。釘の頭が、四本だけ、銀色に光っていた。仏間の他の板は、すべて、何十年も、すすけて、釘の頭まで黒くなっているというのに、その四本だけが、まるで、最近、誰かが打ち直したように、新しかった。
爪を、釘の頭に、引っ掛けた。抜けなかった。
仏壇の脇の、祖父の文机を引きずってきて、その引き出しから、古い千枚通しを、取り出した。十年前、俺がまだここに住んでいたころ、祖父が「これは家を直すための道具だ」と言って、子供の俺に、握り方だけを、教えてくれた、あの千枚通しだ。
千枚通しを、釘の頭に、当てる。最初の一本が、ぎ、と、軋んで、抜けた。
二本目、三本目。四本目を抜き終えたとき、女のすすり泣きは、いったん、ぴたりと止まった。止まった、というより、息を止めた、という感じだった。畳の下の、その誰かが、俺が床下の蓋を開けようとしていることに、気づいた。気づいた上で、息を、止めて、待っている。
板を、両手で、持ち上げた。
下から、湿った、冷たい空気が、ぶわっ、と、立ち上ってきた。
匂いは、ふたつ、混じっていた。
ひとつは、黴。何十年も、空気の動かなかった、土と木の、黴の匂い。
もうひとつは。
肉が、湿って、腐っていく、あの匂いだった。
板を退けた、その先に、ただの収納の空間は、なかった。
もう一段、深く、暗がりが、続いていた。古い梯子が、木の鎹で、上の梁から、垂直に、下に向かって、打ち付けられている。段は、十数段。下のほうは、闇に、吸い込まれて、見えなかった。梯子の足元の、ずっと下の暗がりから、ひやり、と、湿った空気が、規則的に、上に向かって、押し上がってきていた。誰かが、下で、息をしている。
俺は、玄関の三和土に置いてあった、葬儀屋の置き土産の懐中電灯を、取りに、いったん、立った。歩きながら、両膝が、ずっと、笑っていた。膝の関節が、内側で、自分の重みを支えきれずに、何度も折れかけた。
懐中電灯のスイッチを、入れた。古い電池の、頼りない、黄色い光が、廊下の闇を、薄く、撫でた。
仏間に戻り、もう一度、床下の穴の縁に、片膝をついた。光を、下に、向ける。
梯子の、最下段の、土の床が、見えた。
懐中電灯の光の輪の、その縁の、すぐ外側。何か、白い、布のようなものが、揺れた、ような気がした。
──ふ、ぅ、う……。
すすり泣きが、再び、始まった。今度は、もう、畳越しではない。穴の中の、その下の闇から、まっすぐに、上に向かって、立ち上ってきていた。
俺は、梯子に、足をかけた。
子供のころ、この家のどこにも、地下蔵などという場所があるとは、聞いたことがなかった。父も、母も、祖父も、一度も、口にしなかった。仏間の畳の、その下に、こんな縦穴が、隠されていたことを、俺は、今夜、初めて知った。
梯子を、一段ずつ、降りた。降りるたびに、空気の温度が、明確に、一段、下がった。湿度は、逆に、一段、上がった。懐中電灯のグリップが、滑り始めた。汗のせいではなかった。空気そのものが結露して、グリップの表面に、薄い水の膜を、作っていた。
最下段に、足が着いた。
土の床は、踏むと、ずぶり、と、わずかに沈んだ。
懐中電灯の光を、ゆっくりと、回した。
蔵だった。
天井は低く、立ち上がれば、頭が、梁に届きそうだった。広さは、四畳半ほど。土壁は、長い年月のあいだに、何度も湿気を吸って、表面が、腐葉土のように、ほろほろと崩れていた。壁際に、古い甕が、五つ、並んでいた。一番大きいもので、俺の腰の高さほどある。素焼きの、黒く焼き上げた甕だ。蓋は、五つとも、どれも、平らな、丸い、石の蓋で、塞がれていた。蓋の表面に、苔が、薄く、生えていた。
甕の手前の、土の上に、朽ちた、木札が、一枚、落ちていた。
懐中電灯を、近づけた。
木札の表面は、黒く、湿って、半分ほど、土に還りかけていた。けれど、その中央に、彫り込まれた、家紋だけは、はっきりと、残っていた。
黒沢家の、橘紋だった。
橘の実の、丸い輪郭の、その内側に、朱で、書き加えられた、文字が、あった。
『贄』──
文字の下に、小さく、年月日が、刻まれていた。十年前の、夏の、あの日の、日付だった。
俺は、木札を、握ろうとして、指を、止めた。
木札の真上の、土の床に、湿った、子供の手形が、ひとつ、ついていた。仏間の畳の、あの手形と、寸分違わぬ、寸法だった。手形の薬指の、ちょうど、その先端が、十年前の日付を、まっすぐに、指していた。
俺は、息を、止めた。
すすり泣きは、いつのまにか、止んでいた。
代わりに。
頭の、すぐ、上で。ぱき、と、何かが、撓んだ。
懐中電灯の光を、ゆっくりと、上に、向けた。
光の輪の中で、天井の梁を、白いものが、這っていた。
割烹着だった。母の、あの、割烹着だった。中身が、入っていた。腕が、肘の方向と、逆に、曲がっていた。膝が、首の高さで、折りたたまれていた。人間の関節が、絶対に、そうはならない、角度で、四つん這いの、何かが、梁に、貼りついて、こちらを、見下ろしていた。
その、白い割烹着の、襟元から、ぬるりと、突き出した、灰色の顔の。
腐った、上下の唇が、ゆっくりと、左右に、開いた。
「お、かえり、れ、ん」
歯の、ない、口の、奥の、暗がりから、十年ぶりの、母の声が、した。