第2話
第2話
足音は、階段の途中で、止まった。
俺は襖の縁を握ったまま、座敷の畳に膝をついている。割烹着の襟元の手形は、まだ呼吸を続けていた。湿りの輪が、ふっ、ふっ、と内側から押し出されるように膨らみ、引いていく。仏間の蝋燭の芯が、ぱちっ、と小さく爆ぜた。
天井板の節目を、俺はじっと見上げた。
足音の主は、もう一段降りるか、引き返すか、迷っているようだった。木の家は、人が止まると、その止まり方の重さまで音にして降ろしてくる。階段の四段目あたりだ。俺は、その場所を知っている。十年前、夏休みの朝、寝坊した俺を起こしに来る母が、いつも一度、踊り場で立ち止まっていた、あの段だ。
時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。
息を、ゆっくり吐く。吐いてから、ようやく、自分が呼吸を止めていたことに気づいた。
階段の主は、もう一歩、踏まなかった。代わりに、ぎし、と一段、上に戻った。それからもう一段。さらに一段。廊下の奥に向かって遠ざかり、二階の北側、母の寝室があったあたりの、襖の閉まる気配を残して、消えた。
夜が明けるまで、俺は仏間の畳の上で膝を抱えていた。割烹着の手形は、白んだ朝の光の中で、ようやく、ゆっくり、乾いていった。乾いていく過程で、輪郭の縁だけが、薄い茶色のしみとして布に残った。指の節と、掌の窪みと、親指の付け根の膨らみと、その三つが、人の手の形であったことを、執拗に主張するように、布の上に焼き付いていた。
朝、葬儀屋が二人、軽トラックで来た。霊柩のことを、ぼそぼそと打ち合わせる声が、玄関の三和土に低く反響した。年嵩のほうが、仏間の遺影を一瞥してから、若い助手の肩をかるく押した。助手の男は、二十歳そこそこに見えた。仏間の方を見ようとして、年嵩の手に押し止められ、慌てたように視線を玄関の格子戸に戻した。年嵩の指が、助手の肩の上で、もう一度、念を押すように、軽く叩いた。
「読経は、近隣の方が遠慮されておりまして」
俺の顔は、見ずに、年嵩は告げた。
「ご親族のみで、お見送りを」
俺は、頷いた。親族など、もう、一人もいない。
通夜の席には、座敷に長机を一本だけ並べた。座布団は、四枚だけ出した。葬儀屋が「念のため」と言って積み上げていった十枚のうちの、四枚だ。寿司桶も、四人前。蓋を開けると、玉子の黄色が照明に光って、それだけが、やけに健康そうな色をしていた。誰の箸も、伸びてこなかった。
夕方、参道の砂利を踏む音が、一度だけ、した。
俺は急いで玄関に出た。
立っていたのは、駐在所の制服を着た、五十がらみの男だった。胸の名札は「桑名」。帽子を取って深く頭を下げてから、桑名は、一歩、玄関の三和土に踏み込んで、すぐに、自分の足元を見下ろした。土の付いた長靴のつま先が、敷居の内側で、ぴたりと、止まっている。
「黒沢さん、ですな」
「ええ」
「お悔やみを」
桑名は、そこで言葉を切った。視線が、俺の肩越しに、奥の仏間のほうへ流れていく。喉仏が、ごくり、と動いた。日に焼けた首筋に、汗が、一筋、襟の内側へ落ちていくのが見えた。三月の夕方の、まだ冷える風が、開け放たれた玄関から流れ込んでいるというのに、桑名は、明らかに、汗をかいていた。
「……線香だけ、上げさせていただいても」
「どうぞ」
桑名は、それでも、敷居をまたごうとはしなかった。三和土の縁から、長い腕を伸ばすようにして、俺が手渡した線香に、ライターで火を点けた。ライターを握る指が、わずかに、震えていた。煙が立ちのぼると、桑名は、両手を合わせるかわりに、線香を持ったその指先を、自分の額のあたりに、ぎこちなく当てた。額に押し当てた指の腹が、線香の熱で焼けるはずなのに、桑名は、その熱を、罰のように、受け止めていた。
「十年前のことを、ご存じですか」
俺は、口を開いた。
桑名の視線が、わずかに揺れた。長靴のつま先が、三和土の上で、半歩、退がる。退がった分だけ、桑名の身体は、夕闇の濃くなった参道のほうへ、押し戻されるようにして、傾いた。
「……ご家族のことは、私の前任者が、調書を取りました。事故、と、書類には」
「書類には?」
桑名は、答えなかった。代わりに、線香の煙の流れる先を、目で追った。煙は、廊下の奥、二階に上る階段のほうへ、ゆっくりと、引き寄せられるように、流れていった。風もないのに、煙だけが、まっすぐ、階段のほうへ吸い込まれていく。桑名の喉仏が、もう一度、ごくり、と動いた。
「黒沢さん」
桑名は、はじめて、俺の目を見た。瞳の奥に、十年分の何かが、沈殿していた。それは、警官としての職務の顔ではなく、もっと、私的で、もっと、怯えた、村に住む一人の男の顔だった。
「夜は、二階に、上らんほうがいい」
声が、低かった。
「それと、明日の朝、もし、まだ、ここにおられるようでしたら、駐在所のほうに、いっぺん、顔を出しておくんなさい」
「いるつもりです」
「……そうですか」
桑名は、線香を仏壇の方角に向けて軽く掲げ、それから、敷居をまたぐことなく、後ずさるようにして、玄関を出ていった。砂利を踏む足音が、参道の途中で、一度、止まった。何かを言いかけて、思い直したように、また歩き出す。やがて、それも、消えた。
参列者は、ゼロのままだった。
夜半、俺は、仏壇の前に座った。
葬儀屋が並べていった遺影を、もう一度、整理し直すためだった。中央に、祖父。右に、父。左に、母。二段下げて、祖母と、詩織。額縁の裏に、撮影年が小さく書いてある。父の写真の裏には「平成二十×年五月」と、母の字でメモがあった。庭の桜の前で、父が珍しくネクタイを締めている、入学式の朝の一枚だ。
俺の入学式では、ない。詩織のほうだ。
詩織は、小学校に上がったその年の夏に、死んだことになっている。
──「ことになっている」?
自分の頭の中で滑った言葉を、俺は、両手で掬うようにして、もう一度、撫で直した。
「ことになっている」。
事故、と聞かされた。屋敷の風呂場で、ガスが漏れて、家族が一晩で、と。伯父は、葬儀の朝、俺の肩を強く掴んで、「お前は何も見るな、何も思い出すな、何も聞くな」と、三度、繰り返した。風呂場のガス。母も、父も、祖母も、詩織も、全員、同じ晩に、同じ風呂場で。
──四人が、一度に、風呂場に?
朝の光の中で、伯父の言ったことを、ずっと信じてきた。十年。一度も、疑わなかった。疑うことが、生き残った人間に許された態度だとは、思えなかったからだ。疑えば、自分が生き延びてしまったことの意味が、足元から崩れる。だから、伯父の言葉を、骨に巻き付けるようにして、十年、抱えてきた。見るな、思い出すな、聞くな。三つの命令を、呪文のように、自分に唱え続けてきた。
けれど、いま、仏壇の遺影を並べ直していると、額縁の裏の年号が、やけに、無言で、並んでいた。
詩織の遺影だけが、撮影年のメモを、剥がされていた。
額縁の裏紙の角に、浅く、爪で削った跡が、残っていた。誰かが、後から、年号を、消した。爪が紙の繊維を引っ掻いた、その細かい筋が、指紋のように、残っていた。指の腹で、その筋を、ゆっくりと、なぞる。乾いた紙の感触が、爪の幅を、はっきりと、教えてくれた。
伯父の、指の爪を、思い出した。葬儀の朝、俺の肩を掴んだ、あの指の、爪の色を。爪の根元に、煙草のヤニが染みついた、あの黄ばんだ色を。
──詩織は、いつ、死んだ?
口の中が、急に、乾いた。
そのとき。
天井の、ちょうど真上、二階の、子供部屋だったあたりから。
くすっ、と、笑い声が、降ってきた。
幼い、女の子の声だった。十年、聞いていない声だった。それでも、俺は、それが、誰の声か、間違えなかった。
「お、にい、ちゃん」
俺は、立ち上がった。
膝が、震えていた。今度は、ちゃんと、震えていた。仏壇の蝋燭の火が、吹かれたわけでもないのに、ふっ、と横に、大きく流れた。
廊下に出る。
階段の、一番下の段に、湿った、小さな足跡が、ひとつ、ついていた。
爪先の形まで、はっきりと、残っていた。
二段目にも、三段目にも、続いていた。
足跡は、上に向かって、ゆっくりと、登っていた。
そして、踊り場の、四段目で。
止まっていた。
そこから先は、まだ、ついていない。
階段の上の、暗がりの奥で、ふたたび、くすっ、と、笑い声が、した。