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黒沢屋敷、家族を送る掌

第1話 第1話

第1話

第1話

午前三時十二分。門柱に手をついた瞬間、掌に貼りついたのは、湿って錆びたような朱だった。

指を引き剥がすと、皮膚に薄く赤茶けた粉がこびりついている。乾いた血、と呼ぶには少し古い。指先をこすり合わせて鼻先に近づければ、雨戸の隙間から漏れてくる線香の匂いと、それを下支えする、もっと低くて重い臭気が混じっていた。肉が一度湿ってから、長い時間をかけて発酵していくときの、あの匂いだ。

──黒沢蓮、二十六歳。十年ぶりに帰ってきた実家の、その第一声がこれか。

吐く息が、白いのに濁って見える。木枯らしが軒の鬼瓦を鳴らし、参道脇の竹林が乾いた音で擦れた。月は薄雲の向こうで滲み、屋敷の二階の障子だけが、内側から微かに、ほんとうに微かに、灯っていた。

誰もいないはずの家に、灯りがある。

葬儀屋からの留守電を聞いたのは、東京のアパートで深夜のコンビニ弁当を温めなおしていたときだ。「お祖父様がお亡くなりになりました。御本家でございますので、相続の手続きを」──声の抑揚が薄かった。事務的というより、何かを早く終わらせたがっている響きだった。新幹線、在来線、バス、最後はタクシーの運転手にも断られて二キロを歩いた。「黒沢屋敷の門前で停めていただければ」と告げた瞬間、ハンドルを握る老人の指先が、ぴくり、と跳ねたのを、俺は見ている。老人はバックミラー越しに俺の顔をちらりと窺い、それから何かを呑み込むような咳払いをひとつしてから、「あの家のあたりは、夜は通らないことにしているんですよ」と、誰に対する弁解なのかも分からない調子で呟いた。料金を多めに渡しても、釣りは返ってこなかった。テールランプは坂の下でほとんど消し忘れたみたいに長く残り、やがて山の稜線に吸い込まれて消えた。冷えた夜気の底に、ひとり、置いていかれた感覚だけが残った。

門柱の朱を、ジャケットの裾でこっそり拭った。罪悪感のような、後ろめたさのような、説明のつかない動作だった。

くぐった先の三和土に、革靴の踵がやけに大きく響いた。

玄関の引き戸は、鍵がかかっていなかった。

葬儀屋が開けたままにしていったのか、と最初は思った。けれど、立て付けが妙に滑らかすぎる。十年も人が出入りしていない家の戸が、油でも差したように、すうっと右に走った。

「ただいま、戻りました」

声が、自分でも意外なほど小さく出た。誰に向けた挨拶なのか、自分でもわからない。亡くなった祖父にか。十年前、家族会議の末に「あの家とは縁を切れ」と言って俺を追い出した、母方の伯父にか。あるいは──もっと別の、玄関の奥でじっと耳をすませている、何かにか。

土間の隅に、葬儀屋が置き忘れたらしい線香の箱が転がっていた。蓋がずれて、中身が半分こぼれている。茶色い線香の束に混じって、見たことのない朱色の細い棒が、一本だけ、こちらを向いて落ちていた。

仏間の襖を開けた瞬間、線香の匂いが俺の鼻腔を満たした。

そして、その奥から。

肉が、湿って腐っていく匂いがした。

夏に裏山で見つけた狸の死骸。あれを思い出した。あばらが内側から押し出されるように白く突き出して、毛皮の中で液状化した内臓が、呼吸のように上下していたあの感じ。咄嗟に口元を覆ったが、その手の甲にも、まだ門柱の朱の粉が残っていた。

仏壇は、奇妙なほどきれいに整っていた。蝋燭は新しい。供物の饅頭は、まだ艶がある。遺影の中の祖父は、十年前に俺を最後に駅まで送ってくれたときと、ほとんど同じ顔をしていた。痩せた頬、薄い唇、眼鏡の奥の、何かを見透かしたような目。

その目が、俺を、見ていた。

写真の角度のせいだ、と自分に言い聞かせる。

仏壇の脇、桐の文箱の上に、白い和紙が一枚、几帳面に重しの石を載せて置かれている。葬儀屋が読み上げたという遺言の、その本体だろう。指先で石を退けると、紙の縁が、ぱりっ、と乾いた音を立てて持ち上がった。

筆の墨は、震えていた。墨の濃淡は途中で何度も切れていて、書き出しの「家」の字は、第一画の横棒がいったん筆を持ち上げかけてから、思い直したように戻ってきた跡が残っている。途中で誰かに見られでもしたのか、それとも自分自身の手の震えに耐えかねたのか、紙の繊維に墨がじわりと染み入った滲みの輪が、文字のあいだを縫うようにいくつも残されていた。指の腹で和紙を撫でると、墨の粒が古い砂のようにわずかに浮き、爪のあいだに、黒い粉として食い込んでくる。

『家族を、置いて逃げるな』

たった、それだけ。

家督相続のことも、預金のことも、土地の境界のことも書かれていない。代わりに、その九文字だけが、紙の中央でぐらぐらと揺れていた。最後の「な」の払いが、紙の縁を突き抜けて、ほとんど畳まで届きそうな勢いで伸びている。

置いて、とは何を。

俺はこの家で何が起きたかを、知らない。十年前のあの夏、母も父も祖母も、そして妹の詩織も、たった一晩で「事故」の二文字に変換されて消えた。俺だけが、たまたま伯父の家に泊まっていて、難を逃れた。葬儀の朝、伯父は俺の肩を掴んで、「もうこの家のことを考えるな」と言った。あの口調は、慰めではなかった。命令だった。

膝が、勝手に畳の上に落ちた。

そのとき、初めて気づいた。

仏間の畳の、ちょうど俺の左膝のすぐそばに、湿った手形が一つ、はっきりと残っている。

子供の手だ。

指を全部開いて、畳を強く押したような形。指の付け根の窪みまで、水分の濃淡で律儀になぞられている。乾きかけてはいるが、まだ完全には乾ききっていない。手を伸ばすか伸ばすまいか、迷ったその一瞬で、湿り気の縁が、わずかに、引き潮のように後退していくのが見えた。

──ついさっきまで、誰かがここに、手をついていた。

膝立ちのまま、ゆっくりと首だけを巡らせる。

仏間の左奥、隣の座敷へと続く襖が、二寸ほど、開いていた。

その隙間の向こうに、誰かが、いる。

灯りはついていない。けれど、向こう側の畳の上に、白い布のようなものが、わずかに垂れているのが見えた。喪服の袖だろうか。あるいは、寝間着の裾だろうか。それは正座した人間の膝の前に、両手を揃えて置いた、あの姿勢のときに自然と生まれる、布の落ち方だった。

吐いた息が、また白くなった。仏間には暖房など入っていないはずなのに、襖の隙間から流れてくる空気が、明確に、もう一段、冷たい。

「……誰、ですか」

声を出したのは、自分が今ここにいる人間であることを、確認したかったからだ。

返事はなかった。

代わりに、襖の向こうで、布が、ほんの少しだけ、衣擦れの音を立てた。正座を組み直すときの、あの控えめで、慣れた音。膝を、揃え直したのだ。

そういう仕草を、十年前のこの家で、毎晩、仏壇の前で繰り返していた人を、俺は、ひとりだけ知っている。

「……母さん?」

口にした瞬間、自分の声が裏返ったのが分かった。

立ち上がった俺の脚は、不思議なほど震えていなかった。震える前に、頭の芯が痺れて、震え方を忘れていた、というほうが近い。一歩、二歩。畳の縁を踏まないように、子供の頃に躾けられた歩き方で、俺は襖に手をかけた。

指の腹に、襖紙の冷たさがはりつく。

ほんの少しだけ、引いた。二寸が、四寸になり、そして、半間まで、開いた。

座敷には、誰も、いなかった。

ただ、奥の畳の真ん中に、白い割烹着が、たたまれた状態で、置かれていた。母が、俺たちのために夕食を作るときに、必ず身に着けていた、あの割烹着だった。十年前、葬儀の朝に、伯父が「処分しておく」と言って屋敷の納戸ごと封じたはずの、あの一枚だった。

その襟元に、湿った、子供の手形が、もう一つ。

割烹着の胸元の手形は、さっきの仏間の畳のものと、寸分違わぬ大きさだった。

指の長さ。掌の幅。親指の付け根の、わずかに歪んだ弧。

詩織の手だった。九歳で死んだ、俺の妹の。

膝の力が抜けて、襖の縁にしがみつくようにして、俺はその場にしゃがみ込んだ。割烹着の襟元の手形は、こちらの呼吸に合わせるように、ふっ、ふっ、と、湿り気の縁を呼吸させている。乾いていく途中なのではない。

濡らしなおされている。今、まさに。

二階で、廊下の床板が、ぎし、と鳴った。

それから、ぎしり、ぎしり、と、ゆっくり、誰かが、廊下の奥から、階段のほうへ、歩いてくる音がした。

その足音は、子供の体重ではなかった。

仏壇の祖父の遺影が、薄闇の中で、確かに、俺のほうを、見ていた。

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