第3話
第3話
ぽたり、の音は、カウンターの奥の暗闇から、確かに、聞こえた。
三人の影が、一斉に、その音のした方へ、懐中電灯を向けた。光の先には、薬品棚の残骸と、倒れたキャスター付きの椅子が、あるだけだった。雫の痕は、どこにも、なかった。床の、白いリノリウムの上に、薄く積もった埃だけが、光の輪の中で、細かく、舞っていた。舞っている、と気づいた瞬間、俺の肺も、その埃を吸い込んでいることに、気づいた。
「……今の、聞こえた?」
若い女の声が、震えながら、言った。
「聞こえた」
中年の男の声が、短く、返した。短いが、喉の奥が、きゅ、と鳴った音が、紛れていた。
俺は、カウンターの側面の扉を、開けた。鍵は、既に、壊されていた。蝶番が、錆の匂いを、吐いた。内側で、三人が、俺に懐中電灯を向け直す。光の輪の中に、俺は、両手を上げて、入った。まぶたの裏に、白い花火が、三つ、散った。
「武器は、ありません。段ボールを一つ、下ろしに来ただけの、運送の人間です」
声が、掠れた。自分で思ったより、緊張していた。舌の奥が、鉄の味を、していた。
三人は、顔を、見合わせた。互いの顔を、懐中電灯の光の縁で、慎重に、確認し合うような、見合わせ方だった。それから、中年の男が、一歩、前に出た。ワイシャツの胸ポケットに、社章のバッジが、斜めに、ぶら下がっている。襟元の、汗染みが、乾きかけて、白く浮いていた。
「田島と、申します。営業まわりの帰り、山道を抜けようとして、ここで車が止まった」
続けて、若い方の女が、帽子のつばを下げたまま、口を、開いた。つばの陰で、目だけが、二つ、光の粒を、拾っていた。
「里奈、です。大学生。祖母の、墓参の、帰りで」
最後の女が、少し、遅れて、言った。髪を一つに束ね、手首に細い銀の時計が、鈍く光っている。光ったのは、秒針が、ちょうど、文字盤の十二を、越えた瞬間だった。
「若菜、です。……看護学校の、三年。帰宅、途中でした」
四人の、自己紹介が、終わった。それだけで、空気の重さが、一枚、軽くなった気がした。息を、吸うと、肺の奥まで、埃の混じった空気が、ようやく、届いた。
「悟、です。運送の、最終便で」
俺は、できるだけ普通の声で、言った。全員が、同じように、強張った顎を、僅かに、緩めた。
ナースステーションの、折り畳み椅子を、田島が、引き寄せてくれた。鉄脚が、床を擦る音が、やけに大きく、俺の背骨を、下から、撫で上げた。座面には、埃の上に、誰かの手のひらの跡が、ひとつ、残っていた。田島のものではなかった。俺のものでも、ない。指の間隔が、妙に、狭かった。まるで、子供の、手のひらの、跡だった。
「連絡は、取れました?」
俺は、言いながら、自分のスマホを、もう一度、掲げた。圏外の二文字は、頑固に、光り続けている。画面の明るさが、自分の顔を、青白く、照らし返してくるのが、窓ガラスの反射で、分かった。その青白い顔は、俺の知っている、俺の顔では、なかった。
「誰も。里奈ちゃんのも、俺のも、若菜さんのも、全滅」
田島は、首を振った。声に、諦めが混ざっていた。諦めるには、まだ早い段階の、不自然な諦め。何度も、何度も、同じ画面を見続けた人間の、途中で擦り切れた声だった。
「Wi‑Fi、も、SSIDだけは、見えるんです」
若菜が、自分のスマホを、こちらに向けた。画面には、「shido_nursing_icu」という、ネットワーク名が、一つだけ、表示されていた。電波マークの棒が、四本、全て、満ちていた。
「パスワードを要求されるんですけど、入力欄に、何を打っても、同じ文字しか、返ってこなくて」
「何て、返るんですか」
「……『ありがとう』って」
喉の奥が、乾いた。唾を、飲もうとして、飲めなかった。喉仏が、空振りをした。
「私、来る前から、三時間、ここにいます」
里奈が、膝を抱えたまま、呟いた。顔を、上げない。下げた帽子のつばから、一本だけ、ほつれた髪が、顎の線を、なぞっていた。
「最初、祖母の墓から、車で十分の峠で、ナビが狂って。気がついたら、この門の前で、エンジンが切れてて。助けを呼ぼうとしたら、裏の通用口が、一ヶ所だけ、開いてた。入ったら、閉まりました。……それから、ずっと」
田島は、一時間、と言った。若菜は、三十分、と言った。 俺が、到着したのは、十分前だ。
同じ夜の、同じ建物の中で、時間の流れ方が、それぞれ、違う。誰かが、嘘をついているのではない。誰の時計も、手首の上で、ちゃんと動いている。若菜の銀の時計も、田島の革ベルトも、里奈のスマホのロック画面も、全て「3:04」だった。秒針だけが、四人分、別々のリズムで、刻んでいた。合わせようとして、合わない、四つの、脈拍のような、不規則さだった。
「……さっきの、雫の音」
若菜が、声を、落とした。
「ここに来てから、何度も、聞きました。廊下の奥から、私たちの、いる方へ、近づいてくるんです。近付いてきて、……カウンターに入ると、止む」
「追いかけてる、ってこと?」
里奈が、小さく、言った。語尾が、自分の膝の上で、崩れた。
「たぶん」
看護学校の女は、答えた。答え方が、落ち着いていた。怪異に慣れた落ち着きではない。病室で患者の最期を、何度か見送ったことのある人間の、背中の硬さ、だった。その硬さが、若菜の肩から、俺の肩へ、伝播してくるのが、距離を置いて座っていても、分かった。
俺は、祖母の声を、三人には、まだ、話さなかった。 掌の熱も、言わなかった。 言っても、信じられない。それ以上に、言葉にした瞬間、何かが、確定してしまう気が、した。口の中で、その言葉を、転がすだけで、奥歯が、痺れた。
「外に、出る方法は」
「考えました。正門、裏口、非常階段、全部、動かない。窓は、二階以上は塞がってる。一階の窓は、鉄格子」
田島が、指を折りながら、列挙した。最後の小指を折るときに、その指が、微かに、震えた。震えを、隠すように、すぐに、拳を握った。最後に、小さく、付け加えた。
「それと、助けを、待ってても、来ません。この病院、十年前に、行政の地図から、消えてる」
「……消えてる?」
「来る前に、検索した。住所は、出る。地図には、ない。不動産登記も、止まってる」
俺は、伝票を、思い出した。受領印欄の、空白。届け先が、存在しないはずの場所。なのに、ナビだけが、ここへ、俺を、運んだ。あの機械音声の、抑揚のない「目的地、周辺です」という一言が、耳の奥で、もう一度、反響した。
四人分の懐中電灯が、不揃いに、天井を、舐めた。石膏ボードの継ぎ目に、黒い染みが、蔦のように、広がっている。染みの縁は、水を吸って膨らんだ紙のように、少しずつ、ふやけて見えた。ふと、その染みの上で、光が、一瞬、揺れた。
風では、ない。 窓は、ない。
天井の、ど真ん中で、
ずるり、
と、何かが、動いた。
四人の口から、同時に、息が、漏れた。息の白さが、懐中電灯の光の中で、四本の、細い筋となって、交差した。
最初は、鼠か、と、思った。それにしては、音が、重かった。濡れた絨毯を、引きずるような、粘度のある音。点滴の雫の音とは、違う。雫は高く、硬く、鳴る。今の音は、低く、湿って、床から天井までの、間の空間そのものを、押し潰すように、響いた。耳の奥の、鼓膜の裏側を、内側から、舐められる感覚が、した。
ずる、ずる。
音は、一定の速度で、天井裏を、移動し始めた。ナースステーションの端から、廊下の、俺たちが来た方向とは、反対側へ。小児科のある、上の階ではなく、同じフロアの、奥へ。
まるで、俺たちが、ここに集まったのを、確かめてから、 位置を、変えているような、動き方だった。
「……っ、下げて、ライト」
田島が、掠れた声で、言った。俺たちは、反射的に、光を落とした。レンズを、手のひらで、覆う音が、四つ、ほぼ同時に、鳴った。
闇が、落ちた瞬間、天井裏の音が、止まった。
止まった、が、消えた、では、なかった。そこに、まだ、居る。息を潜めて、こちらの呼吸を、数えている。そういう、止まり方だった。俺たちの、吸って、吐く、その一回ごとの間隔を、向こうも、測っている。測っている視線の、角度だけが、天井の一点から、重力のように、降ってきていた。
里奈が、ゆっくりと、俺の上着の袖を、掴んだ。指先が、驚くほど、冷たかった。冷たさが、生地越しに、俺の上腕の皮膚に、直接、染みた。若菜は、両手を、胸の前で、組んでいた。唇が、ほとんど声にならない動きで、何かを、唱えている。祈り、ではなかった。薬剤の名前の、暗唱だった。看護学校の試験勉強のとき、緊張を抑えるために、彼女が何度もなぞった、おまじないなのかもしれなかった。「アドレナリン、アトロピン、リドカイン……」と、最初の数音だけが、俺の耳にも、届いた。
闇の中で、俺の右の掌だけが、 また、じわりと、熱を持ち始めていた。その熱は、皮膚の表面ではなく、掌の骨の、ずっと奥、手相で言う生命線の、根元のあたりから、滲み出してきていた。
祖母の、乾いた声が、耳の奥で、もう一度、 『手ェ、合わせぇ』、と、囁いた。
天井裏の、何かが、 ひとつ、大きく、重心を、落とした。
ず、ん、 と、石膏ボードが、下から見ても、分かるほど、俺たちの、ちょうど、真上で、 たわんだ。