第3話
第3話
帳面を懐に押し込んだ。糊の効いた白装束の襟が、紙の角に押されて、内側に折れ込む。胸に当たる紙の冷たさは、ぬるくなった私の体温を、肋骨ごと一段、下げた。
提灯の火が、扉の板目を、赤く染めていく。
「——錠を、開けよ」
伯父の声だった。先刻の祝杯の濁りが、もう声音から消えている。代わりに、苛立ちと、ほんの一筋の、警戒があった。湯飲みを叩きつけた音は、私の小さな物音を、聞きつけたのだ。
「初代さま」
私は、白装束の影に、声を絞った。
「どこへ、隠せばいいのですか」
守右衛門は、答えなかった。代わりに、蔵の梁の影が、ふっと、揺れた。揺れたのは影ではない。梁そのものの黒さが、私の目の中で、ほんの少しだけ、薄まったのだ。視界の端、いつも同じ位置にあるはずの、土壁と梁の継ぎ目。そこに、ほんの僅か、隙間が、開いて、いた。
「——梁の、裏」
「左様。いま、お前にだけ、見えておる」
帳面を、油紙ごと、押し込んだ。指の先が、梁の裏の、湿った木の繊維をこすった。爪に、苔の青い匂いが移った。手を引き抜いた途端、隙間は、もう、見えない。
そして、私は、白装束の裾に、土を擦りつけた。
蔵の三和土は、湿っていた。井戸水で、毎朝拭く役目は、私だ。土の質を、私はよく知っている。袖と襟に、灰色の土を、わざと、押し当てる。さらに、頬にも、額にも、薄く塗る。指先で目蓋を、強く、こすった。
「咲世」
守右衛門が、初めて、私の名を、呼んだ。
「畳の前で、息を、止めるのではない。鼻から細く、吐き続けよ。胸を、動かすな」
頷いて、土壁を背に、ずるずると、座り込む。糊の効いた裾が、こすれて、もう、音を立てない。糊が、蔵の湿気を吸って、しんなりと、折れている。指先まで、土の冷たさが、届く。私は、両目を、ほんの細く、開けたまま、固めた。
錠の音が、鳴った。
扉が、軋んで、開いた。
提灯の赤が、ぱっと、蔵の中へ、流れ込む。土の匂いと混じって、菜種の油の、甘ったるい匂いが、土壁に這う。私の頬を、その光が、撫でた。瞼の裏が、薄く、紅に、透けた。
「——おう、これは」
伯父の声が、ほんの一拍、遅れた。続く声は、低く、しわがれていた。
「白装束のまま、座っておる」
「息は」
祖母の声。
「……分からん。提灯を、近う、寄せよ」
足音が、二歩、三歩。三和土に、草履の藁が擦れる音。提灯の柄を、誰かが揺らしたのだろう、油の匂いが、ふっと、強くなった。私は鼻の奥で、その匂いを、糸のように、細く、細く、吸う。胸が、動かない。胸が、動かないように、肩で、僅かに、息を、流す。
「目が、開いておる」
伯父が、低く、言った。
「死んだ者は、目を、こう、開けるか」
「——憑かれたな」
祖母の声が、ぴしり、と、鳴った。
「贄の儀の途中で、白装束に、何ぞが、入った。目を見るな、鎮。お前も、千鶴も、入るな」
鎮、と呼ばれた従兄妹の、息を呑む音。千鶴の、押し殺した喉の鳴り。提灯の火が、私の足元で、ふっと、揺れた。誰かが、後ずさったのだ。
朔の名は、呼ばれなかった。
私は、瞼の裏で、息を、ひとつ、数えた。
伯父の声が、扉の内側に、貼られたあの札に、向いた。
「札は、効いておる、はずじゃ」
「効いておれば、白装束の中の魂は、もう、抜けておる、はずじゃ」
「——では、これは」
祖母が、つばを呑んだ気配があった。
「贄を、横から、奪うた者が、おる」
蔵の梁の上で、ずるり、と、また、髪を引きずる音がした。先刻までは、私の頭上を、横切るように移動していた音だ。今は、扉の方へ、ゆっくりと、近づいている。提灯の油の、甘い匂いに、誘い出されるように、何かが、梁の上を、滑っている。
「——あれは」
千鶴の、悲鳴の、手前のような声。
提灯が、ぐらり、と、傾いた。
「閉めよ」
伯父が、鋭く、言った。
「閉めて、もう一枚、札を、貼れ。今夜は、もう、入らぬ。明朝、坊主を、呼ぶ」
「——待て、兄者」
別の男の声が、入り混じった。当主の弟、伯父の弟だ。私が引き取られた七年のあいだ、この人が私と目を合わせた回数は、たぶん、数えるほどしかない。その声が、ほんのかすかに、震えていた。
「白装束が、動いた」
私は、動いていない。
——動いていない、はずだった。
けれど、視界の端、白装束の裾が、ほんの僅か、こちらの意思とは無関係に、揺れたのが、見えた。糊の効いた布が、土の上で、息を吹き返したように、しんなりと、形を、変えた。
そして、私の口が、勝手に、ひとつだけ、唇を、動かした。
「——遅うなったの、当主どの」
私の声では、なかった。
私の喉から出た音だが、節回しが、私のものでは、なかった。低く、湿って、二百年前の畳の縁を、爪で弾くような、声だった。
蔵の入口で、伯父が、提灯を、取り落とした。
油が、三和土に、ぱっ、と、散った。火が、芯の灯りごと、横倒しになる。けれど、不思議と、土に落ちた火は、すぐに、しゅっ、と、消えた。蔵の闇が、一段、深くなった。
「——閉めよ! 早う!」
祖母の絶叫が、走った。
扉が、外から、激しく、引かれた。錠の鉄が、ガチン、と、噛んだ。続いて、紙の擦れる音。札を、もう一枚、貼り付けた音だ。墨の匂いが、扉の隙間から、また、流れてきた。今度の墨には、先刻の生ぐささは、なかった。震えた手で、急いで磨ったような、薄い、すかすかな、匂いだった。
蔵の中で、私の唇が、もう一度、動いた。
「——七人、足りぬ」
それは、私の声だった。
私の声で、私の知らないことが、口から、零れた。
膝が、震えた。
唇の動きが、ようやく、止まった。代わりに、舌の上に、鉄錆のような、苦い味が、残った。さきほどまで強張っていた指の関節が、ふっと、ほどけた。骨の継ぎ目から、湿った汗が、ようやく、滲み出してくる。
「——初代さま」
私は、囁いた。
「いまの、声は」
「わしではない」
守右衛門の声は、近かった。気がつけば、白装束の影は、私のすぐ隣の柱の影に、片膝を折って、座って、いた。蒼白い袖が、私の白装束の裾に、ほんの僅か、重なっている。けれど触れているはずの布の感触は、温度を、伝えない。冷たさも、ない。ただ、隣に誰かが座っているという、息遣いの記憶だけが、あった。
「——では」
「わしの、子じゃ」
影の、闇のなかの眉が、また、ほんの少し、下がった。
「守市郎じゃ。七つで、この蔵で、贄に出された、わしの実の子じゃ」
帳面の、最初の頁の、滲んだ墨の名前。守市郎、七歳、贄。私の指先で、紙の角が折れた、あの一行。
「あの子は、二百年、ここに、おったのですか」
「いいや」
守右衛門の声は、少しだけ、掠れた。
「あの子は、もう、おらん。さきほどの声は、あの子の、残した、最後の一言じゃ。蔵の梁に、染みておった。お前の唇が、それを、拾うてしもうた」
七人、足りぬ。
七つの子どもが、この蔵で、最後に零した、数の足りない、嘆き。それを、私の喉が、二百年越しに、音にしたのだ。指が、再び、震えた。今度は、寒さでは、ない。怒りに似た、けれど、それよりも、ずっと、静かな何かだった。
蔵の外で、足音が、一斉に、退いていった。母屋の方へ、駆けていく草履の音。祖母の、震える誦経。「南無、南無、南無——」。読経というには、息が、上がりすぎていた。
ただ一人、扉の外に、残った気配があった。
呼吸の深さが、違った。怯えていない。けれど、走り去ろうとも、しない。扉の板に、額を、押し付けているような気配。提灯を、誰かが、拾い上げる音。芯を、指先で、つまんで、火を整える、慣れた手の動き。
「——咲世さん」
朔の声だった。
ほとんど、息だけの、囁き。
「夜が明けたら、井戸端に、出てきてくれ」
それだけだった。返事を待たずに、彼の足音は、ゆっくりと、扉から、離れた。けれど、走らなかった。一族の足音とは、明らかに、違う、ゆっくりした、けれども、確かな、歩みだった。
私は、土壁に、額を、預けた。
「初代さま。私は、生きました」
「左様」
「明日からは、何食わぬ顔で、朝餉に、出ます」
「うむ」
「——七人を、数えに行きます」
守右衛門の影が、ゆっくりと、頷いた。
蔵の梁の上では、もう、髪を引きずる音は、しなかった。代わりに、土壁に滲んだあの手形たちが、もう一度、ぼうっと、浮かび上がり、そして、今度は、私の方へ、指先を、向けて、いた。
責めるためでも、引き摺り込むためでも、ない。
二百年、誰にも数えてもらえなかった頭数を、私の指で、数えてくれと、頼んでいた。
私は、頷いた。
「——数えます。一人ずつ、必ず」
手形が、ゆっくりと、土壁の中へ、戻っていく。最後に残った子どもの手形——たぶん、守市郎の手形が、指先を、ひとつ、握り、そして、開いた。さよなら、と、いうように、見えた。
胸の帳面が、肋骨を、軽く、押した。
私は、立ち上がった。糊の落ちた白装束の裾が、土を払うと、ぱらぱらと、灰色の粒を、こぼした。柱の「守」の一字に、手のひらを、当てる。窪みの熱は、もう、ない。代わりに、ひんやりとした木の冷たさが、二百年前の指の温度を、私に、預け直したような気がした。
夜明けは、まだ、遠かった。
けれど、蔵の高窓の、いちばん端、いちばん暗い隅に、一筋だけ、藍の色が、滲み始めていた。鶏は、まだ、鳴かない。一族の母屋では、誦経の声が、長く、長く、続いている。誦経の隙間に、伯父の、低い、命じる声が、ひとつ、混じった気がした。
「——明日、坊主が来る前に、あの娘の口を、塞げ」
私は、唇の端で、笑った。
二百年、誰にも、数えられなかった頭数の、八人目の名前は、まだ、誰にも、書かれていない。
書かせない。