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蔵の守護霊と忌み子の私

第2話 第2話

第2話

第2話

「——遅くなって、すまぬ」

その声は、耳で聞いたのではない気がした。胸の奥、普段は凍えたまま動かない場所が、古い鉦を爪で弾かれるように、じん、と震えた。掠れて、少しだけ湿っている。それでも、扉の向こうから笑い声が滲み込んでくる蔵のなかで、その一声だけが、どういうわけか、温度を持っていた。

声を返そうとして、喉が閉じた。舌の根が張り付いたまま、糊の効いた白装束の襟が、ごくりと上下する。白装束の影は、闇の向こうで、両腕を広げたまま動かない。腰から下の輪郭は土壁の湿りに溶け、その代わりに袖の先が、仄かに蒼白く、自分で光を持っているように見えた。

——怪異は、私を害さなかった。

這い寄っていた黒い靄は、影の腕の前でぴたりと止まったまま、身をくねらせている。壁一面に滲み出た無数の手形は、ほんの少し、指先の角度を変えた。こちらへ伸びていた指先が、ゆっくりと、蔵の扉の方へ向き直っていく。私を指していない。蔵の外の、あの笑い声の方を、指している。

扉の向こうで、伯父の声がした。

「——喰われた、喰われた。これでまた百年、我が家は安泰じゃ」

畳を踏む音。酒を注ぐ音。祖母の、低い「南無」。祝杯だった。私が死んだという前提で、一族が、すでに祝杯を上げていた。湯飲みの縁をぶつけ合う乾いた音が、土壁越しに小さく届いて、私の膝を、ひとつ、折った。

肋骨の内側で、心臓が、薄い膜を貼り付けられたように重たく打つ。空気は冷たく、肺の底まで届かない。それでも、息を、吸った。

「——誰、なの」

白装束が、ゆるりと首を傾げた。その仕草で、ようやく輪郭がはっきりした。若い男の姿だ。けれど顔は闇のままで、眉と唇の線だけが、墨の濃淡で描かれたように、微かに見えた。

「問う前に、まず柱じゃ」

「——柱?」

「お前がいつも撫でておったであろう。『守』の一字じゃ。あれに手を当てて、息を整えよ。さもなくば、手形どもが迷う」

肩を震わせながら、私は背後の柱を探った。三和土から一歩、後ろ。指先が、見慣れた彫り痕に触れる。木目の窪みは、冷たい。けれど、いつもより、ほんの少し、熱があった。夕方に私が触れたときと、同じ温度だった気がする。七年間、幾度となく同じ場所を撫でてきた指の腹が、はじめて、返ってくる熱に気づいた。

指を当てると、壁の手形が、ゆっくりと退いていった。引き潮のように、上のほうへ、梁の影へ、一つひとつ消えていく。最後に残った子どもの手形が、指先をきゅっと小さく折り曲げ、ふっと、溶けるように消えた。

呼吸を止めたまま、耳だけを澄ませる。蔵の梁から、とぷ、とぷ、と、雨垂れに似た音が落ちてくる。雨の夜ではないのに、木の繊維を伝って、上から、何かが、滴っている気がした。

「それで、よい」

白装束が、息を吐くような声で言った。

私はようやく、膝をついた。糊の効いた裾が、蔵の板の間にこすれて、かさかさと鳴る。冷えた板の硬さが、膝頭からじわりと上がってくる。現実だ、と、身体のどこかが、やっと、認めた。

「あなたは、人じゃ、ない」

「左様」

「化け物、なの」

「否」

短く、その声は言い切った。

「わしは、このお家の、初代じゃ」

息が、止まった。

「守右衛門と申す。二百年前、このお家を起こし、二百年前、このお家の蔵で、最初の禍を、引き受けた者じゃ」

守、の一字が、柱のなかで、もう一度、微かに熱を放った気がした。私の指先に、彫り痕の温度が、そっと押し返してくる。

外の笑い声は、まだ続いている。伯父が、従兄妹の千鶴に何か命じている声。「明け方になったら、蔵の扉を開けてやれ。骨だけ、拾えばよい」——そう聞こえた気がして、耳の奥で、血の温度が一段、下がった。

守右衛門と名乗った影は、ゆっくりと、蔵の床を指差した。

「咲世——お前の名を、わしはずっと知っておった。母御の産声の日から」

「……どうして」

「柱に耳を当ててきたからじゃ。この蔵の梁は、お家じゅうの柱と繋がっておる。赤子の泣き声も、祖母御の叱責も、夜の足音も、みな、この蔵に落ちてくる。わしは、それを二百年、聞いておった」

影は、一歩、三和土の端に寄った。白装束の裾が、床板の継ぎ目に重なる。

「床を剥がせ、咲世」

「——床を」

「三枚目じゃ。入口から数えて、三枚目の板を、端から起こせ。釘は、もう、とうに朽ちておる」

震える指を、板の隙間に差し込んだ。爪が、たちまち朽ちた木屑に埋もれる。湿った黴の匂いが立ち上り、乾いた線香の残り香に、別の、もっと古い紙の匂いが混ざった。力を込めると、板はあっけなく、ぱきり、と浮き上がった。音は、思ったよりも大きく鳴った。私は背中を凍らせて扉の方を見たが、外の笑い声は途切れなかった。一族の耳には、この蔵の音は、もう、届かないことになっているのだ。

下に、油紙の包みがあった。

「それは、わしが二百年、守ってきたものじゃ」

包みを取り上げると、指先に、紙の乾いた硬さが伝わった。油がほとんど抜けて、手のひらの熱で、ふつりと音を立てそうなほど薄い。結び紐は、触れただけで、ほろりと崩れた。

中には、帳面。

墨の滲んだ表書きに、こう書かれていた。

——『贄帖』

私は、喉で、小さく息を呑んだ。

帳面の紙は、歳月で薄い飴色に染まっていた。墨の下に、ところどころ、乾いた赤黒い点が残っている。紙の折れ目に爪を立てると、指先に、古い鉄の味のような匂いが、ふっと、移った。墨の色は、頁によって違っていた。古い頁は茶色く、新しい頁は、まだ艶がある。

「百年に一度、と、一族は言うておるか」

「……はい」

「嘘じゃ」

影は、ゆっくりと、私の背後の柱に目を移した。

「百年ごとに一人では、足らぬのじゃ。それが、このお家の、本当の借財よ」

帳面の表紙を、指先でそっと撫でた。油紙越しに感じる紙の重みが、これまで味わったどんな重さとも違っていた。七年間、蔵の隅で耐えてきた夜々の重さが、たった一冊の帳面に、ぎゅっと凝っているような気がした。

外で、湯飲みを取り落とす音がした。伯父の、苛立った舌打ち。

「——さよが、まだ、騒がぬな」

祖母の声も聞こえた。

「もう、とうに、息はなかろう」

「念のためじゃ。朔、お前、提灯を持て」

朔。分家の、あの少年の名前が、笑いのなかで、初めてはっきり呼ばれた。私の心臓が、ひとつ、跳ねた。朔が、扉の外で、私の骨を拾う役を仰せつかったのだと思った途端、冷えていた指先の血が、かえって鋭く、巡り直した気がした。

私は、帳面を胸に抱いた。油紙越しの紙の角が、肋骨の下を、じわりと押す。

「初代さま」

「なんじゃ」

「——逃げません」

私の声が、思ったよりも低く、落ち着いていたことに、自分で驚いた。

「どうせ、朝には、扉が開けられます。骨を拾う気で、あの人たちは、私の名を呼ぶでしょう」

唇が、震えた。けれど、頬を伝うはずの涙は、今夜に限って、出てこなかった。

「そのとき、私は、生きて、ここから出ます」

息を、吸う。

「そして——暴きます」

守右衛門の影が、闇のなかで、ゆっくりと、頷いたように見えた。

「よう言うた」

その声には、喜びも、憐れみもなかった。ただ、二百年のあいだ、ずっと、この一語が出てくる夜を、この影が待っていたのだという、長い長い息遣いだけが、あった。

柱の「守」が、もう一度、熱を帯びた。

夜の底で、私は帳面の最初の頁を、そっと、開いた。

滲んだ筆跡の、一番上に、子どもの名前と、年齢と、一文字が、記されていた。

——『守右衛門 実子 守市郎 七歳 贄』

頁をめくった指の先が、震えた。次の頁にも、また一人。さらに次には、二人。どの名にも、年齢の欄が、小さすぎた。七歳、九歳、六歳——十を越えた者は、一人もいない。

私の指先で、帳面の隅が、乾いた音を立てて折れた。七歳。蔵の三畳で、たった一人で殺されたであろう、七歳。その名は、守右衛門の、実の子の名前だった。

私は、白装束の影を見た。

影の、闇のなかの眉が、ほんの少しだけ、下がったように見えた。

蔵の外で、伯父が湯飲みを畳に叩きつける音がした。

「——なんじゃ、あの音は」

扉の向こうで、一族の気配が、ざわりと乱れる。朝を待たず、錠を開けに来る気配が、すぐそこまで、近づいていた。提灯の火が、扉の隙間の板目を、かすかに、赤く染めはじめる。

私は帳面を抱えたまま、柱の窪みに、深く、指を差し入れた。

今夜は、まだ、終わっていなかった。

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