第1話
第1話
柱時計が、止まった。
三畳の闇のなか、私は息を殺す。指先は、いつものように柱の窪みをなぞっている。「守」——この一字を、二百年前の誰かが彫ったのだという。木屑の匂いはとうに消え、代わりに残るのは、黴と、少しだけ甘い線香の匂い。土壁の奥からは、乾いた木が夜気を吸って、かすかに呻くような音が、断続的に降りてくる。
蔵の梁が、低く軋んだ。
深夜三時。本家じゅうの時計が、申し合わせたように針を止める時刻だ。母屋の大時計も、座敷の置き時計も、台所の柱時計も、この刻限になると、揃って息を止める。幼い頃は偶然だと思っていた。七年経った今は、そうではないと、身体が先に知っている。
そして、廊下の床が、ぎしり、と鳴った。
誰かが、歩いている。
私は布団の縁を握りしめた。爪が掌に食い込んで、痛みだけが現実をつなぎ留める。足音は襖の向こうで止まり、しばらく、何も聞こえなくなった。耳の奥で、自分の鼓動が太鼓のように響く。息を吸うと、喉の奥が冷たい針で縫われるように引きつった。
来るな、と祈ることはもうしない。祈っても、来るときは来る。代わりに私は、柱の「守」の字を、強く、強く撫でた。指の腹に、彫り痕の冷たさが伝わってくる。冷たさの奥に、どういうわけか、ほんの僅かな温もりがある気がする。誰かの指が、同じ窪みを、同じように撫でていた名残のような温もりだった。
息を吐く。吸う。吐く。
足音は、ゆっくりと遠ざかっていった。引き戸の建てつけが鳴ることもなく、人影が襖の隙間に映ることもない。ただ、廊下の奥から、線香の匂いだけが、糸を引くように残されていた。
私は咲世。十五歳。本家の蔵の隅、三畳間が、私の部屋だった。
朝になっても、指先には線香の匂いが残っていた。
井戸端で顔を洗う。水は刺すように冷たく、頬を濡らした手のひらが、まだ昨夜の柱の窪みを覚えている。母屋の縁側から、祖母の声が飛んできた。
「さよ。台所の後片付けはどうした」
「——はい、ただいま」
声は、喉の奥で一度、詰まる。私の名は咲世というけれど、本家の人間が「咲世」と呼んだことは、引き取られて七年、一度もない。叱るときは「お前」、用事のときは「さよ」、それ以外のときは、名前そのものを口にしない。名前を呼ばれないということが、どれほど人の輪郭を薄くするか、私はこの七年で覚えた。
膳の上には、昨日の煮物の残りと、冷えた飯が一杯。私は土間の隅で、立ったまま箸を運ぶ。座敷では、本家の従兄妹たちが笑っている。同い年の千鶴は、漆塗りの膳の前で、白い湯気の立つ味噌汁を啜っていた。
目を合わせてはならない。目を合わせれば、たいてい、夜に何かが起こる。
七つで母を亡くし、父の顔を知らない私が、この家に引き取られた理由を、私はうまく言い表せない。本家の長女だった母が「家を出た罰」だと、祖母は言った。母が出ていった年から、本家には不幸が続いたのだそうだ。蔵の壁が裂け、田が干上がり、当主の弟が井戸に落ちた。
「お前の母が忌みを背負ったまま逃げたから、咲世、お前が代わりに引き受けねばならぬ」
七つの私に、祖母は、そう告げた。
忌み子。そう呼ばれて、七年。
膳を下げ、井戸の水を汲み、薪をくべ、日が暮れれば蔵に戻る。叱責されても、私は泣かなかった。泣けば、もっと深いところへ連れて行かれる気がした。涙は、何かを呼び寄せる気がした。
蔵の扉を閉めるとき、千鶴が遠くで囁くのが聞こえた。
「——もうすぐだってさ」
何が、と訊き返す勇気は、私にはない。その声には、憐れみも、敵意もなかった。ただ、明日の天気を告げるような、乾いた確信だけがあった。それがかえって、肋骨の裏を、冷たく掻いた。
その夜も、柱時計が止まった。
廊下の足音は、昨夜より、ずっと近かった。襖の前で止まり、息遣いまで聞こえる気がした。私は柱の「守」の字を、まるで人の手のように握りしめた。冷たい木の感触が、不思議と、誰かの掌のように思える夜が、ある。
「——大丈夫。大丈夫」
そう囁いたのは、自分の声だったのか、誰かの声だったのか。耳のすぐ内側で、低く、少しだけ掠れた音が、もう一度、大丈夫、と繰り返した気がした。
暁の鶏が鳴くまで、私は柱を抱えるようにして、目を閉じていた。
千鶴の囁きの意味を知ったのは、十六の朝だった。
私の誕生日。といっても、本家でその日が祝われたことは一度もない。けれどその朝、土間に祖母が立っていた。手には、白い、糊の効いた着物。
「今夜は、これを着て蔵で過ごせ」
私は箸を取り落とした。冷えた飯粒が、茶碗の縁に転がる。白装束。それが何を意味するのか、私は知らない。知らないはずなのに、背筋を冷たいものが這い上った。襟元の、糊の匂いがやけに鋭く、まるで刃物を畳んで差し出されたようだった。
「祖母さま、これは——」
「物を訊くな」
短く、刃のような声だった。座敷の奥から、当主である伯父の咳払いが聞こえる。従兄妹たちは、誰も土間を覗き込まない。みんなが、申し合わせたように、目を伏せていた。箸を置く音も、茶を啜る音も、ぴたりと消えている。本家じゅうが、息を揃えて、私の次の一呼吸を待っているようだった。
ただ一人。分家の朔という少年だけが、土間の柱の影から、私をまっすぐ見ていた。
朔とは、これまでまともに口を利いたことがない。歳は私の一つ上で、法事のたびに本家へ顔を出す、無口な少年だ。その朔が、唇を動かさず、目だけで何かを言っていた。
——逃げろ。
そう言われた気がした。けれど、どこへ逃げるというのか。村の外には鉄道もなく、山を越えれば次の里まで二日かかる。十六の娘が、白装束を抱えて、どこへ。朔の指先が、膝の横で、かすかに握られ、ほどかれた。拳を握るでもない、祈るでもない、ただ耐えるだけの、痩せた指の動きだった。
日が暮れるのは、いつもより、早かった。
蔵の前に、一族が並んでいた。当主の伯父、祖母、伯母、従兄妹たち。誰も口を開かない。私が白装束のまま蔵の三和土に立たされると、伯父が一枚の札を取り出し、扉の内側に貼り付けた。墨の匂いが、ふっと鼻をかすめる。墨に混じって、何か生ぐさい、鉄に似た匂いが、札の裏から薄く漂った。
「贄の儀である」
伯父の声が、遠くで響いた気がした。
扉が、閉まる。錠の落ちる音。蔵の中は、もう何も見えない。私の白装束だけが、闇のなかで、ぼうっと浮かんでいた。自分の手足が、もう自分のものではないように遠かった。膝がしらは小刻みに震え、糊の効いた裾が、こすれ合ってかさかさと鳴る。
息を整えようとした、その瞬間。
天井裏で、ずるり、と何かが滑った。
長い髪を、引きずるような音。それが、ゆっくりと梁の上を移動していく。私は壁際に背中を貼り付けた。冷たい土壁に、肩甲骨が押し付けられる。背中に伝わる湿り気が、夜露ではなく、誰かの吐息のように、じわりと布越しに滲んだ。
そして、視界の隅で、壁が動いた。
——動いたのではない。浮かび上がったのだ。
無数の、手形。
子どもの手、女の手、骨ばった老婆の手。墨でも血でもない、影そのものでできたような手形が、壁一面に、ぽつり、ぽつりと、滲み出していく。どの手も、指先をこちらに向けていた。助けを求めるようにも、引き摺り込もうとしているようにも、見えた。
息ができない。
口を開けたら、何かが入ってくる気がした。
そのとき。
蔵の奥、いちばん暗い梁の下に、ゆらり、と、白いものが立った。
私と同じ、糊の効いた、けれどもうずっと古い、白装束。
足は、なかった。腰のあたりから下が、ぼんやりと闇に溶けている。
逃げ場のない私の前で、その影は、ゆっくりと、両腕を広げた。
這い寄ろうとしていた黒い靄が、その腕の前で、ぴたり、と止まる。
外で、笑い声がした。
「——ようやく食われたぞ」
伯父の声だった。続いて、祖母の、伯母の、従兄妹たちの、抑えた笑い。蔵の扉の向こうで、一族が、私の死を、祝っていた。
私を殺そうとしていたのは、怪異ではなかった。
人間の方だった。
白装束の影が、掠れた声で、ゆっくりと、言った。
「——遅くなって、すまぬ」
柱の窪みに刻まれた「守」の一字が、闇のなかで、わずかに、熱を帯びた気がした。