第3話
第3話
信号弾の点火紐を、引く。
ポン、と乾いた音。胸元で白い閃光が弾け、同時にピンク色の煙が上着の内側から噴き出した。矢坂の目が一瞬、細くなる——その瞬間を、透の身体は覚えていた。
床を、蹴る。
背後の三つの銃口。須藤、二・五メートル。徳丸の配下二人、三メートル。透が動くのは、須藤の角度だった。一番下で、一番迷っている銃口。煙に視界を奪われた須藤が引き金を絞る前に、透はその手首を内側から跳ね上げ、肘の外側をコンテナの柱に叩きつけた。鈍い音。銃が、落ちる。拾っている時間はない。
銃声。二発。
一発目が右の耳元を抜け、二発目がコンテナの鉄板で弾けた。火花。煙が倉庫三番を飲み込んでいく。矢坂の声が、どこかで低く命令を下している。「殺すな、録音機を——」途中で、雨音に溶ける。
透は通用口へ走った。
八メートル。コンテナ三基ぶんの死角。左肩に、焼けるような一閃。被弾ではない、かすり。赤熱した刃で肉を舐められた感触。歯を食いしばる。走る。走る。雨の中へ、飛び出した。
雨粒が頬を叩く。濡れたコンクリートが靴底で滑る。透はコンテナの狭間に身を捻じ込み、そのまま二基ぶん奥まで潜り込んだ。背中を、MAERSK青の鉄板に貼り付ける。呼吸を殺す。鉄の冷気が上着越しに背骨を這い上がった。
足音。複数。三人、いや、四人。
「島田ァ——ッ」
須藤の声。だが、さっき「兄貴」と呼んだ時の声ではない。喉の奥から絞り出された、別の声だった。透の脳の隅で、計算が一つ進む。須藤は、あの一瞬で「兄貴」を諦めた。手首を跳ね上げられた時点で、迷いを捨てた。
——追ってくる。
左肩の傷から、雨に混じって血が滑り落ちる。雨水が洗い流してくれる。追跡犬の鼻なら拾うが、ここにはいない。透は身体を傾け、コンテナとコンテナの隙間、幅四十センチの通路を、蟹のように進んだ。足元の水溜まりが跳ねる音を、革靴の踵で殺す。三年前、港湾労働者に化けていた頃に覚えた歩き方だった。
倉庫三番の裸電球から、五十メートル。ヤードの中心を外れ、三番埠頭寄りの死角に出る。雨が少し弱まった。透はコンテナの影で、片膝をついた。左肩の上着を捲る。弾は、かすっただけだ。二針、三針の傷。圧迫止血、あとで。
右手、胸ポケット。
録音機。まだ、回っている。
三年分の証拠。そして、矢坂の「ご苦労、島田。いや——鷹野」。そして、矢坂の上に誰かいることを示す、あの一瞬の視線の揺れ。全部、入っている。
届け先。
透は内ポケットから小型の携帯を取り出した。プリペイド、潜入二年目に自分で仕込んだ保険。警視庁本部の緊急回線、番号は暗記している。雨で濡れた指先で、九つ、数字を押す。
呼び出し音。
一度。二度。三度。
出ない。
四度、五度、六度。
出ない。
七度で、自動応答に切り替わる。「現在、つながりにくくなっております——」
三年、この回線は必ず三コール以内に人間が出た。夜勤の担当者、当直の刑事、誰かが必ず出た。「つながりにくい」アナウンスを、透は一度も聞いたことがない。矢坂の声が蘇る。「四十分前にな」。
透は、番号を変えた。
第二保険回線。公安部直通、透の人事記録に、矢坂の筆跡で書き込まれていた番号。三年前、辞令と一緒に渡された。
呼び出し音。一度。出た。
「——島田さん?」
若い、知らない男の声。「島田」の名前を知っているはずのない部署の、知らない声。
透は、即座に通話を切った。
携帯の電源を落とし、バッテリーを外す。雨の中、コンテナの隙間に、パーツごとに分けて投げ捨てた。追跡の可能性を潰す。三年前の自分なら、この動作に五秒かけた。今、二秒で終わった。手が、もう、覚えていた。
——あと、一つ。
弓削。
透は、別の携帯を取り出した。これは三台目。弓削の個人携帯、月に一度の踊り場の夜に、番号を教えられたもの。弓削が「何かあったときだけ、鳴らせ」と言った番号。
呼び出し音。
一度、二度、三度。
留守電になる。弓削の声は入っていない。機械音声だけの、初期設定の留守電。弓削は、自分の名前も声も、留守電に残さない男だった。
——生きているか。
透は指先で画面を撫でた。切る。もう一度かける。呼び出し音。一度、二度、三度。留守電。
三度目にかけながら、透は倉庫三番のほうへ耳を傾けた。
風向きが、変わる。雨が斜めに、埠頭の内側へ吹き込む。風に乗って、遠くの男たちの声が、切れ切れに透の耳に届く。潮崎の声。別の誰かの声。
「——地検の方は、片付いた——」
「——昨夜のうちに——」
「——事故で処理——」
透の指が、携帯の画面で止まった。
地検。弓削。事故。
三つの単語が、雨音の中で、一本の糸で繋がる。
コーヒー二杯。弓削はいつも砂糖を二本入れた。丸い頬の女の子の写真。「うちのも、絵本好きでね」。非常階段の踊り場、蛍光灯の白。あの階段を、弓削はもう、登らない。
透は、携帯を握ったまま、動けなくなった。
雨が、顔を打つ。
——泣くな。
奥歯を噛む。頬の内側、昨夜噛み切った傷が、また割れる。鉄の味。弓削の丸い頬の娘を、透は一度も見たことがない。写真の一枚だけだ。あの写真も、今夜、どこかの金庫で灰になっているかもしれない。
透は、携帯の電源を落とした。バッテリーを外し、またコンテナの隙間に、別々に捨てる。雨が、金属の部品に降りかかる。潮の匂いと、鉄錆の匂い。この場所の匂いは、もう、透の肺の底にある。
左肩の傷が、脈打つ。
——逃げるか、戦うか。
頭の中で、初めて、その問いが鳴った。
三年間、透は一度も逃げ方を考えなかった。潜入は、逃げではない。上官の指示の下、任務の完遂に向かって前へ進む作業だった。今夜、その指示を出す上官が、目の前で正体を現した。指示系統が、丸ごと敵だった。逃げる、という選択肢が、三年ぶりに、透の頭の中に、選べる選択として立ち上がった。
逃げる。
どこへ。
娘のところへ、は、あり得ない。透が接触した瞬間に、深雪の周囲に矢坂の手が伸びる。離婚した妻にも。妻の実家にも。透が三年前、潜入を承諾した時点で、矢坂はその全員の所在を知っている。「娘に会える」という報酬は、裏を返せば「娘を人質にできる」という宣告でもあった。今、その意味が、ようやく分かる。
海外。パスポートは、島田名義のものが一つ。使えば、一時間以内に追跡される。本名の鷹野名義は、三年前に凍結された。飛行機は、乗れない。
地下に潜る。しかし、地下に潜るための連絡網も、矢坂が握っている。透が三年かけて構築した情報網は、全部、矢坂の机の上を経由していた。
——逃げ場は、ない。
雨音の中、透は自分の掌を見た。右手。左手。指先が、震えている。三年間、一度も震えなかった指先。震えていいのだ、と、今夜、初めて自分に許可する。
戦う。
何と。
鯨主の正体は矢坂。矢坂の上に、誰か。その誰かの顔も、名前も、透は知らない。戦う相手の輪郭すら、見えない。
だが。
透は、胸ポケットに手を当てた。
布越しに、小さな機械が、回っている。
三年分の嘘を本物に変える機械。今夜、矢坂が「鷹野」と呼んだ声と、矢坂の上に誰かがいることを示す視線の揺れまで、全部、入っている。届け先が全部消えても、録音そのものは、消えない。
透は、録音機を、指先で握り直した。
布越しに、角が、掌に食い込む。
——届く先が、ない。
——ならば、作る。
矢坂の指揮系統の外側に、まだ、透が知らない誰かがいるはずだ。三年間、黒鯨会の内部で名前を聞いた、上層部とは別の筋。海外の通信社。地方のフリー記者。警察庁のOBで、矢坂と反目したまま辞めた男が、一人いた。名前は、確か——久世。久世行夫。
三年前、矢坂の机の上に置かれた任命書。その一番下、小さく印刷された「予備連絡先」の欄。矢坂は、そこを指で二回叩いて、「これは使うな」と言った。使うな、と言われた番号。矢坂が、使ってほしくない番号。
——それが、今夜、唯一の糸かもしれない。
透は、立ち上がった。
左肩の傷が、脈打つ。構わない。
胸ポケットの録音機は、まだ、回っている。
遠くで、叫び声。
「こっちだ——ッ」
須藤の声ではない。徳丸の配下。距離、六十メートル、南側。コンテナの山の向こう。複数の足音が、ヤードの中央を一気に東へ流れる。透の居場所を、まだ正確には掴んでいない。だが、範囲は絞られている。
透は、腰の後ろからシグを抜いた。
マガジン確認。十二発。薬室に一発。合計十三発。
雨が、少し強くなる。
ヤードの中央、高所に吊られた投光器が三基。あの光が消えれば、倉庫三番から埠頭までの五十メートルが、本当の闇になる。追手の人数と透の脚の速さの勝負ではなく、見える見えないの勝負になる。
透は、上着の内側、反対側のポケットに手を入れた。
指先が、もう一つの冷たい筒に触れる。発煙筒。信号弾と違う、もっと重く、もっと太く、もっと長く煙を吐く、港湾用の一本。三年前、島田として最初に倉庫に入った夜、火災対策の棚から拝借した、誰にも報告していない一本だった。
透の口角が、三年ぶりに、歪んだ。
雨の中、ヤードの投光器の三つの光が、静かに揺れていた。