Novelis
← 目次

鯨主の顔、零時三分

第2話 第2話

第2話

第2話

裸電球の橙色が、ゆらりと揺れた。

「ご苦労、島田」

矢坂の声が、低く倉庫の鉄骨に染みた。透の右手は、腰の後ろで止まっている。指先がベルトの裏側、グリップのチェッカリングに触れたまま、動かない。革の手触り。掌に汗。冷たい鉄。三年前、辞令を渡された夜に支給されたシグ・ザウエル。マガジン十二発、薬室一発。

「いや——」

矢坂の口角が、ほんの一ミリ持ち上がる。

「鷹野」

カチリ。

背後で、安全装置が外れる音。

一つではない。二つ。三つ。透はそれを耳の左右、後頭部のすぐ後ろで、別々の角度から拾った。距離、二メートル、二・五メートル、三メートル弱。銃身は、おそらく三つとも透の背中の中心線に向いている。心臓のすぐ裏、腎臓、脊椎の付け根。

「手を見せろ」

矢坂ではない。潮崎の声。

透はゆっくり、両手を腰の高さで開いた。雨音。クレーンの軋み。胸ポケットの録音機が、まだ回っている。指先で確かめずとも、布越しの微かな振動が肋骨に伝わってくる。それが、いま透を島田にも鷹野にも繋ぎ止めない、ただの機械の動きとして、孤独に響いていた。

——三年。

頭の中で、その二文字だけが鈍く反響する。奥歯を噛む。頬の内側、昨夜噛み切った傷が、また割れた。鉄の味。舌の先で、わずかに転がす。生きている味だ。まだ、生きている。

「島田さん——」

背後から、若い声。須藤。

声は震えていた。だが、銃口は震えていない。透にはそれが、布越しに分かった。震える指で銃を構える素人は、握りごと揺れる。須藤のは、安定している。あの屈託のない笑顔の若造が、いつから引き金にあれだけの度胸を載せていたのか。三年潜って、透が一度も嗅ぎ取れなかった気配だった。

「いつから」

透の声は、自分でも驚くほど平らだった。喉の奥に錆の味。

「最初からだ」

矢坂は椅子に腰を下ろした。脚を組み、革手袋の指で膝の埃を払う。三年前、辞令を渡したときと、寸分違わぬ仕草。

「お前を送り込んだ夜、もう私はこちら側にいた」

「報酬は」

「復職と、娘」

矢坂の目尻が、ほんの少し緩む。

「あれは、本心だ。お前が任務を完遂すれば、約束は守るつもりだった。——『鯨主』を特定するまで、と書いたな。今夜、特定された。任務、完了だ、鷹野」

倉庫の空気が、ねっとりと重くなる。徳丸が立ち上がり、卓上のグラスに水を注いだ。氷が一つ、軽く鳴る。木場は腕を組み、潮崎は煙草に火をつけた。三人とも、透のほうを見ていない。見る必要がないからだ。背後の三つの銃口が、すでに透を見ている。

「録音機を出せ」

潮崎。

透は動かない。

「胸ポケットだ。SONYのICD-TX650、シリアル末尾0871。先週、書き換え百八十二回目」

潮崎が顎で示した。

透が三年かけて積み上げた偽装は、たぶん今夜の昼までに全部読まれていた。あるいは、最初の夜から。須藤の屈託のない笑顔。兄貴と呼ぶ若造の声。あれが本当に何も知らなかったのか、それとも一番上手い演技だったのか、もう、判別する材料がない。

「須藤」

透は、視線を動かさずに名を呼んだ。

背後から、わずかに息を吸う音。

「お前は、最初から知ってたのか」

返事は、ない。

代わりに、銃口の角度が一センチだけ下がった。脊椎の付け根から、太腿の裏側へ。動けば撃つ、ではなく、動けなくする、の角度。透の脳の隅で、計算が一つ進む。須藤の銃は、ほかの二人より下で構えられている。手元の覚悟が、まだ揃っていない。

「兄貴」

ようやく、若い声が、震えて返ってきた。

「俺、ほんとに、何も——」

「黙れ、須藤」

潮崎が遮る。「役目を果たせ」

須藤の呼吸が、また浅くなる。三年間「兄貴」と呼んできた男に銃を向ける呼吸の浅さ。それだけが、今夜の倉庫で、透の側に残された唯一の不確定要素だった。

「鷹野」

矢坂が、ゆっくり立ち上がった。

「お前の仕事は良かった。本当に良かった。だから、痛みなく終わらせてやる。録音機を渡せ。それと、腰の銃を、二本指で抜いて床に置け」

透は、視線だけを動かした。

倉庫三番。出入口は二つ。正面の鉄扉、奥の通用口。正面まで六メートル、間に矢坂と潮崎。通用口まで八メートル、間にコンテナ三基ぶんの死角。背後の三人。残るのは天井の裸電球が一つ。それだけだった。

「島田の名前で、四百八十九件の通信記録が残っている」

透は口を開いた。

「全部、本部のサーバに上がっている。今夜、零時を回った時点で、自動展開のプロトコルが走った。あんたが私を消しても、消えない」

矢坂の表情は、変わらなかった。

「それは、私が止めた」

低く、短く。

「四十分前にな」

透の喉の奥で、何かが冷たく落ちた。零時三分の少し前——透がコンテナの陰で雨を吸い込んでいた頃、本部のどこかで、誰かのキーが一度叩かれた。それで、三年が消えた。

「弓削も、消した」

潮崎が、煙を細く吐き出す。

「もう、お前の声が届く先はない」

弓削。

その名を聞いた瞬間、透の視界の右下に、いつかの踊り場の光景が立ち上がる。地検庁舎の非常階段、月に一度、夜十時。コーヒー二杯。弓削はいつも砂糖を二本入れた。一度だけ、娘の写真を見せてくれた。透の深雪と同じ年の、丸い頬の女の子だった。「うちのも、絵本好きでね」と弓削は笑った。あの夜の踊り場の蛍光灯の白さまで、いま、瞼の裏に蘇る。

——いや。

透は、その記憶を奥歯で噛み潰した。確かめてもいないことを、信じるな。潮崎の口は嘘を吐く口だ。三年見てきた。動揺させて、銃を捨てさせるための、ありふれた一手かもしれない。生きているかもしれない。その可能性だけが、いま透の足を倉庫の床に繋ぎ止めている。

「録音機を、出せ」

潮崎の声が、低く詰まる。

透の左手が、ゆっくり上着の内側に動いた。胸ポケットへ向かうふりをして、その途中、内ポケットの縫い目に、指の腹を一瞬だけ押し付ける。三年前、潜入初日に自分で縫い付けた、信号弾。マッチ箱大、点火紐式。三年間、一度も使わなかった。使う日が来てほしくなかった。

「矢坂さん」

声を、できるだけ穏やかに。

「一つだけ、教えてください」

「何だ」

「あんたの上は、誰だ」

矢坂の目が、初めて細くなった。一瞬。本当に一瞬。だがその一瞬、徳丸と木場の視線が、わずかに矢坂のほうへ動いた。背後の須藤の呼吸が、半拍、止まった。

——いる。

透の脳の隅で、もう一つ計算が進む。

矢坂の上に、誰かいる。それを矢坂は、今夜この場の幹部全員には、まだ明かしていない。明かせない、何かがある。だから「鯨主」は、矢坂で終わらない。透が三年かけて辿り着いた頂点は、頂点ではなかった。三年は、たぶん、誰かのもっと長い計画の、最後の一年だ。

「鷹野」

矢坂が、ゆっくり首を振った。

「答える義理はない。録音機を、出せ」

透の指は、まだ内ポケットの縫い目に触れている。信号弾の頭、点火紐の固い結び目。引けば、煙と光。三秒で倉庫が見えなくなる。三秒の間に、通用口まで八メートル。コンテナ三基ぶんの死角。届かない距離ではない、が——届くか届かないかは、コンマ五秒の世界だ。

胸ポケットの録音機が、回っている。

矢坂の声、潮崎の声、徳丸の咳払い、須藤の浅い呼吸。全部、入っている。これが届けば、終わる。届かなければ、終わらない。

問題は、届く先が、もう、ない。

透は、ゆっくり右手を腰から離した。

掌を、上に向けて、肩の高さまで上げる。

「分かった」

声は、平らだった。

「録音機は、左手で出す」

矢坂が、わずかに頷く。潮崎の煙草の先が、また赤く揺れた。背後の三つの銃口は、依然として透の背中を見据えている。

透の左手が、上着の内側で、止まる。

胸ポケットの録音機の角ではなく、その下、内ポケットの縫い目の上で。指先が、信号弾の頭を、布越しに握り込んでいる。点火紐の結び目、ざらりとした麻の感触。

——逃げるか、戦うか。

三年間で、初めて、上官の指示を仰がない夜だった。

雨音。裸電球。橙色の光の下、矢坂の目が、こちらを真っ直ぐ見ている。三年前、肩を叩いて「頼んだぞ、鷹野」と言った、あの目と、寸分違わぬ目で。

透は、息を、止めた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ