第1話
第1話
雨。 コンテナの鉄板を叩く音が、ヤードの暗がりに低く響いている。零時三分。鷹野透は非常階段の裏でフードを深く被り直した。濡れた襟が喉に張り付く。冷えた鉄の匂い、重油、海水、そこにわずかに混じる血の味。三年かけて嗅ぎ分けられるようになった「夜の港」の匂いだ。最初の頃は、この匂いが鼻の奥に絡みついて、帰りの電車で吐きそうになった。今は、故郷のように馴染む。馴染んでしまった、と言うべきか。
右の胸ポケット。親指で布越しに、録音機の角を確かめる。動いている。回っている。三年分の嘘を、本物に変える小さな機械。指先に伝わる微かな振動。それだけが、透を鷹野透のままに繋ぎ止める、ただ一つの糸だった。
遠くで軋むクレーンの音。埠頭の向こう、貨物船の灯り。透の位置から倉庫三番まで、直線で四十メートル。間にコンテナ十七基。見張りは二人、うち一人は透の「部下」だ。雨粒が鉄板を斜めに走り、街灯の黄色い光に混じって、ヤード全体がぼやけた水彩画のように滲んで見える。
「島田さん」
背後から声。透は振り返らず、顎だけで頷く。
「兄貴。鯨主様、もうじき着くって」
兄貴。三年前まで縁もゆかりもなかった若造が、透を兄貴と呼ぶ。口角が歪みそうになる。奥歯で噛んで止めた。舌の先が、犬歯の裏にわずかに残る血の味を探る。昨夜、鯨主到着の知らせを聞いた瞬間、知らず知らずのうちに頬の内側を噛み切っていた。
「わかった。持ち場へ戻れ」
「へい」
足音が雨音に紛れて消えていく。透は短く息を吐いた。吐いた息が白く濁って、すぐに雨に打ち消される。
島田隆。三十九歳。元運送会社社員。密輸組織「黒鯨会」、関東支部第二幹部。
——全部、嘘だ。
本名、鷹野透。四十一歳。警察庁公安部、元エース捜査官。
三年前、直属上官の矢坂警視正に呼ばれた夜。机の上に置かれた一枚の任命書。そこに書かれていた文字。「黒鯨会潜入。期限は組織の頂点『鯨主』を特定するまで」。あの夜、窓の外でも雨が降っていた。矢坂は透の肩を叩き、「頼んだぞ、鷹野」と言った。少し疲れた、しかし迷いのない声だった。手のひらの重みまで、透は今でも覚えている。骨ばった、しかし温かい手だった。
報酬は二つ。復職と——娘に会えること。
雨が強くなる。透はコンテナの影へ身を滑らせた。鉄板の冷気が背中に食い込む。三歩、五歩、呼吸を殺す。視界の端、倉庫三番の裏口。見張りの煙草の火が赤く揺れている。赤が一度明るくなり、また沈む。その点滅のリズムで、透は男の緊張度を測る癖がついていた。今夜は、短い。男も、鯨主の到着を知っている。
腕時計を確認する。零時六分。あと九分で鯨主が到着する、という手筈だった。
初めてこのヤードに足を踏み入れた夜、透は三十八歳だった。上着の内側に拳銃、胸ポケットに偽造免許、腹の底に吐き気。潜入捜査官としての誇りなど、最初の一週間で一度は腐った。港湾労働者に化けて荷揚げを手伝い、指を三本詰めた男の治療に立ち会い、密輸船の航路を記憶し、組織の金回りを暗算し——自分が誰に化けているのか、ある夜、鏡の前で分からなくなった。鏡の中の男は、透の顔をして、透ではない目をしていた。
そして、昇った。第二幹部「島田」として。
黒鯨会の取引ルート。上海経由の銃器。北関東の覚醒剤。末端の運び屋の顔と名前。ほぼ全て、胸ポケットの録音機と頭の中に収まっている。
ただ一つを除いて。
鯨主の、顔。
組織の頂点。名前も性別も年齢も不明。幹部会議にも姿を現さず、指示は常に仲介役の潮崎を介して降りてくる。だが今夜、この倉庫三番で、透は初めてその男の顔を拝む。そのために、三年間嘘をついてきた。
「——兄貴」
別の若い男。須藤、二十三歳、拾われ子。透に妙に懐いている。
「見張り、一時間交代でいいっすよね」
「ああ」
「兄貴、顔色悪いっすよ」
「風邪だ」
須藤が笑う。「兄貴が風邪なんて、珍しいっすね」
珍しくはない。三年間、風邪を装って協力者と会う夜が何十回もあった。だが今夜、本当に喉の奥が焼けている。須藤の屈託のない顔を、透はほんの一秒だけ見つめた。雨に濡れた前髪、まだあどけなさの残る頬、人を疑うことを知らない目。この若造も、今夜の取引の意味は知らない。知らないまま、明日の朝には、組織の崩壊に巻き込まれる側の人間だ。透が押す引き金の先に、この顔も含まれている。
胸ポケット。録音機。
透は指先で、もう一度その角を確かめた。
記録されているのは、先週からの幹部連絡、潮崎の口調、そして——十分後に始まる鯨主との会談。
全部、外へ出す。警視庁へ。検察へ。矢坂警視正の机の上へ。
それで、終わる。
娘——深雪、九歳。離婚した妻に引き取られて、もう四年会っていない。最後に会ったとき、深雪は五歳で、透の膝の上で絵本を読んでいた。表紙は青い鯨だった。偶然の一致が、今になって皮肉な味を帯びる。任務が終われば、父親として再会できる。矢坂は、そう約束した。透が信じた、最後の人間の、最後の約束。
倉庫三番の扉が開く音。
透はコンテナの陰から滑り出た。鉄骨の柱に背を預ける。扉の奥、裸電球が一つ、鈍い橙色で天井から吊られている。そのわずかな光だけが、倉庫内部を照らしていた。電球の下、空気中に漂う埃が、細かい黄金の粒子のように浮かんでいる。
幹部が三人、すでに椅子に座っている。潮崎。徳丸。木場。全員が扉のほうを見ている。三人とも、背筋がわずかに伸びている。鯨主を知っている者の緊張。透が三年かけても見たことのない、幹部たちの素の顔がそこにあった。潮崎の右手が、膝の上で微かに震えている。あの冷徹な仲介役が、だ。
透は最後に入る段取りだった。鯨主の到着を確認してから、挨拶の順で呼ばれる。その瞬間に、録音機が最後の仕事をする。鯨主の声。顔の特徴。三年の締めくくり。
——来る。
扉の向こう、雨音の中に、革靴が濡れたコンクリートを踏む音。
一人。ゆっくり。迷いのない歩幅。
透は呼吸を整えた。拳銃は腰の後ろ、右手は空けておく。握手を求められる場合に備えて。目線はまず胸元、次に顎、最後に目を合わせる。三年かけて磨いた「島田」の礼儀作法。肺の底に空気をためて、ゆっくり吐く。指先の震えだけが、どうしても止まらなかった。
革靴の音が扉の枠で止まった。
「お待たせしました」
低い声。
聞き覚えがある。
——気のせいだ。
この三年、毎日のように幻聴と戦ってきた。上官の声が聞こえた気がする。妻の声が聞こえた気がする。娘の笑い声が——。だから今夜も、そうだ。ただの幻聴だ。そうであってくれ。
男が入ってくる。
まずコートの裾。濃紺。仕立ての良い生地。次に、右手。指輪なし。左手には、黒い革の手袋。革靴はイギリス製。透が一度だけ、矢坂の足元で見たことのある——
心臓が、一拍、止まる。
裸電球の下、鯨主の横顔が浮かび上がった。
短く刈り上げた白髪。右の眉の上、七針縫った古い傷痕。顎の輪郭、目尻の皺、薄く結ばれた唇。
矢坂。矢坂信之。警察庁公安部、警視正。透の直属上官。
透を、この潜入に送り込んだ、当の男。
——嘘だろう。
指先が、無意識に胸ポケットへ伸びる。布越しの録音機の角が、指の腹に食い込んだ。冷たい。回っている。まだ、回っている。三年分の証拠。そして、今この瞬間に録音されつつあるのは——送り込んだ上官の、組織の頂点としての声。透が誰に証拠を届ければいいのか、その宛先そのものが、目の前で消え去った音だった。耳の奥で、血の流れる音が津波のように鳴っている。視界の端が白く飛び、橙色の光がぐらりと傾く。
鯨主——矢坂が、三人の幹部に微かに頷いた。徳丸が立ち上がる。
「島田を」
呼ばれた。
透は柱から背を離した。
足が、震えている。三年間、一度も震えなかった足が。
一歩。二歩。橙色の光の中へ。一歩ごとに、床のコンクリートの冷たさが靴底から這い上がってくる。膝の裏、腰、背骨、うなじ。冷気は血管を逆流するように、脳の奥まで届いた。
矢坂が、顔を上げた。
目尻の皺がほんの少し深くなる。かつて、透の肩を叩いて「頼んだぞ」と言ったときの、あの表情に似ていた。いや、同じだった。全く、同じだった。三年前のあの夜と、寸分違わぬ、穏やかな顔。
視線が、合う。
矢坂の唇が、ゆっくりと動いた。
雨音。裸電球。三人の幹部。そして、胸ポケットの中で回り続ける、小さな機械。
透の右手が、ごく自然に、腰の後ろへ滑り始めていた。