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十三番目の踏切で、振り返るな

第3話 第3話

第3話

第3話

午後十一時三十分。私は、制服のスカートの上から、黒いコートを羽織った。

家の廊下は、真っ暗だった。灯りをつける気にならなかった。台所の時計の秒針が、廊下の奥まで届くぐらい、しんと静まっている。父は単身赴任で半年前から家にいない。母は三年前に、玄関の鍵を閉めたまま、どこか遠くへ行ってしまった。この家には、私と、ときどき響く冷蔵庫のモーター音しかいない。

鞄の底から、儀式書を取り出した。

表紙の朱の印を、指先でなぞる。司書が言った言葉が、鼓膜の内側で繰り返される。──あなたのお母様が、ときどき、この棚の前に、立っていらしたわ。ページの端が、汗で少しふやけていた。私は儀式書をコートの内ポケットにしまい、代わりに手帳と、小さな懐中電灯を、外ポケットに入れた。

玄関のドアを、音を立てずに閉めた。

外は、想像よりもっと冷えていた。鼻の奥が、ひゅっと痺れる。街灯の光が、白い息を薄く浮かび上がらせた。アスファルトは昼の雨で黒く湿っていて、靴底がふ、と吸い付くような音を立てる。住宅街は眠っていた。どの家の窓も、明かりが消えているか、遠いテレビの青白さが滲むか、そのどちらかだった。

左手首が、疼いた。昨日より、強く。

制服の袖をめくって、薄い街灯の下にかざした。皮膚の上、針で引いたような白い線が、今夜は二本になっていた。薄く、けれど確かに。指先でなぞると、皮膚の奥で、何かが、かすかに脈を打つ気がした。

──行かなきゃ。

誰に言われたわけでもない。桐谷ナナは、友達ではなかった。ただ、昨日の朝のリボンの揺れ方を、私は、覚えていた。それだけのことで、私は夜の道を歩いている。

県道に出ると、遠くにコンビニのネオンが青白く浮いていた。けれどそこを過ぎてから先は、街灯の間隔が急に広がった。五十メートルに一本。十メートルに一本。やがて、二十メートルに一本。踏切に近づくほど、闇が厚くなる。それは気のせいではなくて、このあたりの街灯が、昔から、よく切れるせいだと、知っていた。

十三番目の踏切は、住宅街の端、畑と旧国鉄線が交差するあたりにあった。深夜の遮断機は、下りていなかった。錆の浮いた警標が、街灯の残光の中で、古い歯のように斜めに立っている。線路の砂利が、夜露を吸って、黒く光っていた。

私は、踏切の手前、十メートルほどの地点で、足を止めた。

鈴の、音がした。

ちり、と、たしかに、鳴った。ひとつではなかった。──複数だ。線路の向こう側、枕木のわきの雑草のあたりから、細い金属音が、風もないのに、淡く重なって揺れていた。懐中電灯を握り直し、光を、そちらに向けた。指先が、握りの金属に、かすかに汗で貼りついた。

光の輪の中に、見たものを、私はしばらく、整理できなかった。

視界の端が、細かく、震えていた。寒さのせいだと、思いたかった。けれど、指先の震えは、寒さの震えとは、違う種類の震えだった。

線路脇の、砂利の上に、白い粉で描かれた、五芒星。

正確に、描かれていた。定規を使ったかのように、直線がぴんと張って、角のひとつひとつが星の形を作っている。白いのは、塩のようにも、石灰のようにも見えた。粉の粒は、ひとつひとつが、光の中で、結晶のように、冷たく、きらめいていた。その白さは、雪でも、砂糖でもなくて、もっと、乾いた、祈りに似た白さだった。粉は風にひとつも流されておらず、まるで誰かが、ほんの数分前に、描き終えたかのようだった。その五芒星の、五つの角、それぞれの先端に、錆びた鈴が、ひとつずつ、置かれている。

鈴は、古かった。赤銅色が黒く焼けついた、神社のお守りについているような、小さな鈴。どれも錆びて、口が欠けていた。鉄錆の匂いが、懐中電灯の光に乗って、鼻の奥まで届いた気がした。それだけではなかった。鉄錆の底に、もう一つ、別の匂いが、重なっていた。線香のような、お寺の奥の、埃の積もった仏具のような、古い、人の祈りの、くぐもった匂い。嗅いだ瞬間、喉の奥が、きゅう、と、細くなった。

光を動かすと、風もないのに、鈴のひとつが、ちり、と鳴った。

心臓が、嫌な打ち方をした。

──誰か、いる。

足の裏から、ふくらはぎにかけて、皮膚の下の筋肉が、ひとつずつ、硬く、凍りついていくのを感じた。瞬きをするのさえ、音を立てそうで、怖かった。

振り返りそうになって、私は、反射的に、息を止めた。 三度うしろを振り返るな。 昨日の鉛筆の文字が、頭の中で、黒く浮き上がった。

振り返らずに、視線だけで、周囲を確かめようとした。けれど、闇は厚くて、踏切の警標の錆の粒までは見えるのに、その一メートル向こうの畑の畝は、ただの黒い層にしか見えなかった。耳を澄ますと、遠くで、国道の車の音が、湿った綿のようにくぐもって届いた。それ以外は、静か、だった。静か、すぎた。

私は、内ポケットから儀式書を引き出した。

懐中電灯を顎で挟んで、震える指でページを繰った。昼間、鞄の中でめくった箇所だ。五芒星の、図。錆びた鈴の、置き方。──同じ、だった。儀式書の左ページに、挿絵のように描かれた図と、いま目の前の砂利の上にある五芒星は、鈴の位置まで、寸分、違わなかった。

右ページの、余白の鉛筆書き。

『これは、封じるための印にあらず。──閉じ込められし何かを、解き放つための配置である』

文字の最後が、震えて、掠れていた。書いた人が、途中で、手を震わせたみたいに。

砂利を、踏む音がした。

背後、およそ、五メートル。

一歩。

息を、吐けなかった。一歩と次の一歩のあいだに、永遠のような間があった。私の心臓は、私自身の鼓動の音で、砂利の足音を聞き逃すまいと、必死に、静かになろうとしていた。

儀式書を持つ手の、指の関節が白くなる。懐中電灯を顎で挟んだまま、私は、正面の五芒星を、見つめ続けた。振り向かなければ、いい。目の前だけを、見ていれば、いい。

──二歩。

今度は、さっきより近い。三メートル、いや、二メートル半。砂利の粒が押される、湿った、重い音。人間の足の、体重の乗り方だった。けれど、それにしては、呼吸の音が、近すぎた。首のうしろ、襟のすぐ上の空気が、他人の吐息で、わずかに湿った気がした。甘い、古いお香のような匂いが、一瞬だけ、鼻先を掠めた。首のうしろの、細かいうぶ毛が、一本一本、冷たい指でなぞられるように、ぞっと、立ち上がった。

鈴が、ちり、と、ひとつ、鳴った。

左手首の、二本の白い線が、熱を持って、脈を打ち始めた。儀式書の右ページの、鉛筆の文字の一行目が、目の端で、滲んで、揺れた。開き直しで、別のページを、探す余裕はなかった。ただ、昨日の余白の、あの一文だけが、頭の中で、点滅している。

三度うしろを振り返るな。

喉の奥で、声にならない声が、ひゅう、と空気を擦る音だけを立てて、消えた。

──三歩目。

耳のすぐ、うしろで、鳴った。

砂利の粒を押す音に、混ざって、もうひとつ、かすかな音がした。濡れた布を、引きずるような音。湿った砂利に、何か、重いものが、擦れる。懐中電灯の光が、私の靴の爪先から伸びて、五芒星の中心までを、白く照らしている。その光の輪の外側で、黒い影が、膝の高さから、ゆっくりと、私のうしろに、伸びてきた。

──振り返るな。

声が、した。

私の、声ではなかった。耳のうしろ、ほんの一センチ外側で、女の、低い、湿った声が、「振り返るな」と、囁いた。その声は、湿った布を、耳の穴に、そっと押し込むように、まっすぐ、鼓膜の芯まで届いた。ナナの声でもなかった。母の声でも、司書の声でもなかった。けれど、どこかで、聞いたことのある声だった。

儀式書が、手の中で、震えた。

懐中電灯を、顎から落とした。

光の輪が、がらりと崩れて、地面で一回転した。闇が、どっと押し寄せた。私はその場に、膝をつくようにして、両手で、耳を、塞いだ。塞いだのに、耳の内側で、砂利を踏む音は、もう、四歩目に、進もうとしていた。

足首のあたりに、冷たい指の気配が、そっと、走った。

振り返るな。振り返るな。振り返るな。

耳の内側で、声と、自分の呼吸が、重なって、どちらがどちらか分からなくなった。

砂利の上、落とした懐中電灯の光が、くるりと、もう一度、回った。その光が、偶然、地面に落ちた儀式書のページを照らした。今まで開いていた五芒星の図の、次のページ。昼間、私が、まだ開いていなかった、見開き。ページの紙の、繊維の一本一本が、懐中電灯の光に、産毛のように、立っているのが見えた。

鉛筆で、震える文字。

『三度目の足音を聞きしのち、五の鈴のひとつを──』

残りの文字を、読み取ろうとした瞬間。

ごく、近くで。 私の、うしろで。

ちり、と、四つ目の鈴が、ひとりでに、鳴った。

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