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十三番目の踏切で、振り返るな

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の教室は、昨日より一段冷えていた。

暖房の効きが悪い。窓ガラスの内側に、うっすらと自分の吐いた息の曇りが残る。制服のブレザーの袖口を握りしめると、指先にまだ昨夜の手帳の紙の匂いが残っている気がした。図書館の埃。湿った黴。そして鉛筆の、微かな金属めいた匂い。

──桐谷は、まだ目を覚まさない。

担任は今朝も、ノートから目を上げないまま、同じ一行を読み上げた。「桐谷は、引き続き欠席です」。教室のざわめきは、昨日より少しだけ大きかった。昏睡、という単語が、廊下でも階段でも、自販機の前でも、繰り返し、ささやきの切れ端になって転がっていく。朝宮さんはどう思う、とは、もちろん誰も訊かない。私の机はいつも通り、半分透明な場所だった。

斜め前の空席に、昨日までは無かったものがあった。

千羽鶴だった。 薄桃色、うす緑、オレンジ、水色。折り紙の色がひしめき合って、束ねられた糸で机の真ん中に積み上げられている。リボンで束ねられた首のところに、白い紙の短冊が一枚。その文字を読み取ろうとして、私はほんの少し、首を伸ばしかけて──やめた。近づけない。距離を、詰められない。

千羽鶴の、なかの、一羽。

いちばん上に載っている、くすんだ朱色の鶴。その嘴の先が、ほんのわずか、──私のほうを、向いていた。

気のせい、だ。

たかが折り紙だ。糸に吊られて、気まぐれに向きを変えているだけ。そう思い直して、私は視線を引き剥がした。けれど、引き剥がした先の窓ガラスに、教室の光景がうっすらと反射していて、その反射のなかの鶴の嘴も、やはり、私のほうを向いていた。

喉が、乾いた。

一時間目の終わりに、女子が数人、ナナの机の前に集まった。

「誰が置いてくれたの?」 「さあ……朝来たらあったよね」 「お母さんかな」 「いや、これ、折り方プロっぽくない? めちゃくちゃ細かい」

話しながら、誰かがそっと指先で鶴の束を撫でる。薄桃色の鶴が、揺れた。糸がしなって、束全体がかすかに呼吸するように傾いで、それから元の位置に戻った。私はその一連の動きを、自分の席から、盗み見るように追っていた。筆箱の中の消しゴムを意味もなく取り出して、机に置いて、また仕舞った。その間、たぶん三十秒。誰も、私のほうを見なかった。

千羽鶴の短冊の文字が、角度のせいで、私の席からはほんの数文字だけ読めた。

『はやく目を覚まして』

それだけなら、よかった。普通だった。そうあるべきだった。けれど、短冊の裏側にも、何か書かれている。女子たちが覗き込んでも、表側しか見ない。当然だ、裏を読む理由がない。ただ私の席の角度からだけ、糸に吊られて回転する一瞬、うっすらとにじんだ鉛筆の影が、短冊の白い紙越しに透けて見えた気がした。

文字の、形。 ──昨日の、あの筆跡に、似ていた。

私は思わず、席を立ちかけた。立ちかけて、足首が机の脚にぶつかって、ガタッと鈍い音を立てた。女子たちが一斉にこちらを見た。視線は四つ。どれも、好奇ではなかった。ただの、確認だった。誰? ああ、朝宮さん。それだけで、すぐに戻った。私は膝の力を抜いて、椅子に座り直した。ブレザーの下、脇のあたりに汗が一筋、するりと落ちた。

近づけない。 今は、近づけない。

次の授業のチャイムが鳴って、女子たちが自分の席に戻っていった。千羽鶴は、ナナの机に残された。色とりどりの首が、机の中央で微動だにせず、けれど私が視線を外すたびに、嘴の向きだけが、わずかずつ、──私のほうへ、戻ってくる気がした。

二時間目、三時間目と、私は黒板の字を写しながら、何度もその鶴の束を横目で確認した。数学の公式も、英語の構文も、頭を素通りした。ただ、あの短冊の裏側が気になった。誰が、あの千羽鶴を、ここに置いたのか。誰が、あの裏側に、鉛筆で書きつけたのか。そして、それが、昨日の郷土資料の余白と同じ筆跡だとしたら──書き手は、桐谷を知っていて、そして、まだ、この街にいる。

昼休みを待たず、四時間目の終わりに、私は教室を出た。

足が、勝手に、図書館に向かった。

市立図書館は、学校から自転車で七分ほどの、古い煉瓦造りの建物だった。午後の光が、玄関の両開きの扉のガラスにうっすらと膜を張っていて、押し開けるとき、指先の骨まで響くような、低い軋みが鳴った。

郷土資料室は、二階のいちばん奥。 昨日と同じ匂いがした。紙の黄ばみと、黴と、古いインク。蛍光灯は、今日もときどき、ちかり、と瞬いた。

昨日の棚の前に立った。背表紙の剥がれかけた郷土資料は、抜き取った位置のまま、わずかに隙間を空けて戻されていた。私はその背表紙に指を触れようとして、途中で、止まった。──誰かが、いる気配がしたのだ。

振り返る、前に。 「朝宮さん、ね」 と、声がかかった。

司書の女性だった。見覚えがあった。いつも受付の奥で、古い台帳にペンを走らせている、白髪まじりの髪をうしろで一つに束ねた、静かなひとだ。声をかけられたのは、たぶん初めてだった。心臓が一度、喉のあたりまでせり上がった。

「あなた、昨日も、この棚の本を読んでいたでしょう」

静かな声だった。責めている、わけではない。けれど、何かを、確かめるような響きがあった。私は頷くことも声を出すこともできずに、ただ、手を下ろした。

司書は、手に、一冊の本を抱えていた。薄い本だった。革でも布でもない、糸で綴じた、薄茶色の表紙の、手作りのような装丁。表紙には、題字はなかった。ただ、右下に、掠れた朱の印が、ひとつ。

「貸出にはできない本なの」 と、司書は言った。 「閲覧も、本当は、推奨していない。──でも、あなたには、渡しておいたほうが、いい気がしたから」

彼女は、本を、両手で私に差し出した。私は受け取ろうとして、一瞬、指が止まった。本の表紙から、昨日の棚と同じ、黴と黄ばんだ紙の匂いが立ちのぼった。けれど、それより深く、もっと古い、土の匂いのようなものが、混じっていた。

受け取った手のひらに、本の重さが、ずしりと落ちた。

「これ、は」 「古い、儀式書よ」 司書は、私の目を見なかった。棚の向こうのどこかを、見ていた。 「この街の、昔の人が書いたもの。本当は、あまり、広まってほしくないの。だから、表に出していない」

儀式書。 口の中で、その単語が、乾いた音を立てた。

私は、その場で、そっと表紙を開いた。一枚目は、白紙だった。二枚目。縦書きの、鉛筆の文字が、ぎっしりと並んでいた。墨ではなかった。すべて、鉛筆。古びて、けれど消えずに、紙の繊維に食い込んでいる。

文字を、目で追った。 指先が、冷えた。

筆跡。

昨日の、郷土資料の余白と。 ──同じ、だった。

心臓が、ひとつ、大きく鳴った。呼吸が止まったわけでもないのに、耳の奥が、急にしんとした。司書は、私の表情を見ずに、受付のほうへ、ゆっくりと歩き出していた。その背中に向かって、私は、かすれた声で、訊いた。

「あの、この本、誰が、書いたんですか」

司書は、足を止めた。振り返らなかった。

「──朝宮さん。あなたのお母様が、ときどき、この棚の前に、立っていらしたわ」

言葉が、遠くで鳴った。 左手首の、皮膚の裏側で、昨日からずっと燻っていた熱が、ちりっ、と、はっきりした痛みに変わった。

家に帰るまで、儀式書は、鞄の底で、私の背中を押していた。

ページをめくる度に、昨夜の鉛筆の筆跡が、ひとつ、またひとつ、目の裏で重なっていく。十三番目の踏切、三度うしろを振り返るな。同じ文字を書いた手が、この儀式書の、どこまで深く、何を書き残しているのか。そして、母が、この棚の前に、立っていた。

時計を見た。午後五時。 あと、七時間で、深夜零時になる。

机の上に、儀式書を開いたまま、私は、制服のままベッドの縁に腰掛けた。窓の外は、もう薄暗かった。遠くで、今日もきっと、同じように、踏切の警報が鳴る時刻が来る。

左手首に、昨日はなかった、針で引いたような薄い白い線が、一本だけ、浮かんでいた。

──今夜、行かなきゃ、いけない。

ちり、と、どこか遠くで、鈴の音が、鳴った気がした。

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