第1話
第1話
指先に紙の粉が張りつく。
古びた郷土資料の、背表紙が剥がれかけた一冊だった。私──朝宮ミオは、市立図書館の奥、郷土資料室のいちばん奥の椅子で、その本を膝に開いていた。埃と黴の匂いが鼻の奥で絡む。十一月の夕方、窓の外はもう藍色だった。蛍光灯がひとつ、時折ちかりと瞬いて、古紙の角を青白く浮かび上がらせる。
ページをめくる指先が、止まった。
本文ではない。印刷された活字のわきに、誰かが鉛筆で書き込んだ文字があった。滲んで、けれどかすれてはいない、丁寧で、どこか神経質な筆跡。
『十三番目の踏切で、三度うしろを振り返るな』
心臓が、ひとつ、余計に打った。 肌の裏側が、ざわりと冷えた。
──なに、これ。
私は息を詰めて、周囲を見回した。資料室は無人だった。蛍光灯のジーという音と、遠くで誰かが本棚を押すカタンという音。それだけだ。なのに、どうしてだろう。耳の奥、鼓膜のすぐ裏側で、濡れた砂利を踏むような音が、かすかに響いた気がした。
……気のせい。
そう言い聞かせて、私は手帳にその一文を書き写した。この一年、こうやって街の怪談を集めてきた。放課後、図書館の郷土資料。夜中、閉まった掲示板。大人たちが「そういえば昔あったねえ」と笑って流すような、小さな、埋もれかけた話。それを拾うのが、私の世界のすべてだった。
母が家を出て、もう三年。朝、誰もいない台所で冷えた味噌汁を温め直す音。夜、玄関のドアが開かないまま更けていく廊下の暗さ。そういうものに、少しずつ慣れた。慣れたつもり、だった。
──十三番目の踏切。
市内に、踏切は二十いくつある。私はそれを諳んじている。北から順に数えて、十三番目。旧国鉄線と県道が交わる、住宅街の外れ。高校の通学路から少しだけ外れた、あの踏切だ。
ぱたん、と本を閉じた。背表紙から、また乾いた粉が散った。
翌朝の教室は、湿った埃と、誰かの整髪料の匂いがした。
「おはよー」 「あ、それ昨日の?」 「見た見た、めっちゃウケた」
誰の声でも、私宛ではない。 私は窓際のいちばんうしろの席に鞄を置いて、椅子を引いた。金属脚が床のリノリウムを擦る音が、教室のざわめきに呑まれて消える。誰も、顔を上げない。
陰気な怪談女。 クラスの一部では、そういう呼び方らしい。休み時間、廊下の角、女子トイレの前、そういう場所で、自分の名前の断片だけが聞こえることが、ときどきある。朝宮さんって、知ってる? なんかさ、あの子、放課後ずっと怪談の本読んでるんだって。怖っ。ウケる。──否定する気力は、もうない。事実だからだ。
私の机の、斜め前の席。 桐谷ナナの席は、今日は空いていた。
彼女の椅子の背に、制服の紺色のリボンがひとつ、引っかけたままになっている。昨日の朝、彼女が遅刻しそうだと笑って駆け込んできたときの、あのリボンだ。ロッカーから教科書を取り出しながら、「おはよー朝宮さん」と、誰にでも向ける軽さで挨拶をくれたのが、昨日の朝。
朝の窓から差し込む光が、その紺の生地の縁で淡く撚れていた。彼女が結びそびれて、そのまま放っていったのだろう。普段の桐谷なら、忘れ物には気づくはずだった。教科書の下にしまった筆箱の位置まで、しっかり覚えているような、そういう細やかさのある子だった。私はその空席を、ほんの数秒、見つめてしまった。視線を逸らした拍子に、隣の席の誰かと一瞬目が合って、その人がすぐに別の方向を向いた。喉のあたりに、湿った綿を詰められたような重さが、ふっと残った。
──その桐谷が、今日、いない。
朝のホームルームで、担任がノートから目を上げずに言った。 「桐谷は、今朝、体調不良で休みです」 体調不良。そういう言葉で片付けられる。机の列のほうぼうで、えー、昨日元気だったのに、と小さな声が揺れた。小テスト返すぞ、という声に、ざわめきは簡単にかき消される。
私は机の下で、自分の左手首を握った。 何も、ない。 なのに、なぜか、そこに視線が吸い寄せられた気がした。
昼休み、教室を出た。
廊下の突き当たりの自動販売機の前で、三組の女子が立ち話をしていた。声を落としているつもりらしいが、壁の反響でよく聞こえる。私は水筒を抱えて、彼女たちの背後を通り過ぎようとした。
「──桐谷さん、昏睡、なんだって」
その単語で、足が止まった。
「え、こんすい、って、あの、昏睡?」 「そう。今朝、お母さんが起こしに行ったら全然反応しなくて。救急車、呼ばれて」 「え、やだ、なにそれ怖い」 「原因、わかんないんだって。どこも悪くないのに、目を覚まさないって」
どこも、悪くないのに。
息を吸う。吸ったつもりだった。なのに、胸の奥が張り付いたまま、空気が入らない。自動販売機の低いモーター音が、急に遠くなった。
もうひとりの声が、ひそやかに続いた。 「しかもさ、桐谷さん、昨日の夜、あの踏切のとこ歩いてたらしいよ」 「え、踏切?」 「ほら、県道の。塾の帰り。──なんか、そこで、急に立ち止まって、うしろを、振り返ったって」
聞き逃せなかった。ざっと、全身が冷えた。水筒を握る指先から、体温が抜けていった。
誰かが息を呑む音がした。その音は、たぶん、私の喉から漏れたものでもあった。自動販売機の前面のガラスに、私の輪郭が薄く映りこんでいて、その輪郭が、肩のあたりで小刻みに揺れているのが、自分でもわかった。彼女たちはまだ続けている。「で、振り返ったあと、急に黙り込んじゃって、迎えに来たお父さんのこともわからないみたいだったって」「うそでしょ、まだ昨日の話だよ?」声の調子は怖がっているくせに、どこか面白がる響きが混じっていて、その軽さが、なぜか私の指先をいっそう冷たくした。
私は音を立てないように、壁づたいに離れた。 階段の踊り場まで戻って、そこでようやく、自分の手が震えていることに気づいた。
十三番目の踏切。 三度うしろを振り返るな。
制服のスカートのポケットから、手帳を引き抜いた。昨日の日付のページ。鉛筆で書き写した、あの一文。文字の上に、汗で滲んだ指紋がひとつ、薄く残っていた。
──怪談じゃ、なかった。
誰かが、書き残したんだ。あの資料の余白に、誰かが、あれを書き残した。それが具体的な警告だと、知っていた誰かが。そして桐谷は、それを知らずに、踏切を通った。夜の、塾の帰りに。
喉の奥に苦いものが上がってきて、私は唾を飲み込もうとして失敗した。頭の中で、昨夜読んだあの一文の鉛筆の筆圧が、急に重みを持って沈んでくる。書いた誰かは、たぶん、これがただの怪談で終わらないことを知っていた。だから余白を選んで、目立たない場所に、それでも消えない強さで書きつけた。──助けたかったんだ。読まれるかどうかもわからないまま、誰かを。そう思った途端、踊り場の冷たい手すりに当てた手のひらが、汗でじっとりと貼りついた。
私は目を閉じた。 閉じた瞼の内側で、昨日の資料室の蛍光灯のちかりという明滅が、濡れた砂利を踏む音の幻覚と、ひと繋ぎになった。
あれは、気のせいじゃ、なかった。
──見に行かなきゃ。
そう思った瞬間、自分で自分に驚いた。透明な怪談女の、誰にも名前で呼ばれたことのない私が、震える手で、制服のブレザーの裾を握っていた。桐谷ナナは、友達じゃない。それでも、昨日の朝のリボンの揺れ方を、私は、覚えていた。
踊り場の窓越しに、冬に入る直前の日差しが、薄く差していた。
その日の放課後、私は図書館に寄らなかった。
家に帰る途中、通学路をひとつ外れて、私は見上げるようにあの踏切を通った。昼の十三番目の踏切は、なんの変哲もない、錆びの浮いた遮断機と、色褪せた警標と、くすんだ枕木があるだけの、住宅街の境目だった。通り過ぎる一瞬、ちり、と、鈴の音のような高い響きが耳をかすめた気がしたけれど、私は、振り返らなかった。まだ、振り返ってはいけない気がした。
家に戻ってから、古い書き込みの日付を、手帳に挟みこんでいた母の写真の裏の日付と、照合した。同じ筆跡の癖が、あった気がした。気のせい、かもしれない。けれど、心臓は、違う答えを鳴らしていた。
時計を見た。あと、六時間で、深夜零時。
制服のスカートの上で、私の左手首が、まだ何も宿していない皮膚のまま、かすかに、疼いた。