Novelis
← 目次

黒縄邸、三時十七分の軋み

第3話 第3話

第3話

第3話

朝の軋みを、誰も聞かなかった。

健吾が玄関の扉を何度も蹴り続け、沙耶さんが先輩を食堂の椅子に座らせ、真由が自分のスマホをもう一度だけ振ってみてから、諦めたように画面をテーブルに伏せた。椎名は玄関の三和土に置かれた美嘉のスニーカーを、触れずに、ただ見ていた。僕の手帳のページには、「不在」の二文字が乾きかけたインクのまま、誰かに覗き込まれているような角度で開いていた。

「……警察、いつ来る」

真由が、自分の膝に向かって呟いた。

「来ない。通報できてない」と椎名が答えた。

「いつかは、誰かが気づいて」

「いつか」

その言葉が、食堂の空気の中で、砂糖のように溶けた。誰も、否定も肯定もしなかった。昼食は、冷蔵庫に残っていた食パンと、缶詰のコーンスープだけで済ませた。先輩が、スプーンを持ったまま、十分ほどそれを口に運ばなかった。沙耶さんがやっと先輩の手首に触れると、先輩はびくりと肩を震わせて、「ああ」と短く答えた。ああ、以外、何も言わなかった。

日が傾くのが、異様に早く感じられた。

午後四時を過ぎる頃には、二階の廊下の奥から、光が抜け始めていた。僕は自室に戻って手帳を開き、昼間のうちに思い出せた限りの美嘉の行動を、箇条書きにした。書くことが、まだ僕にできる唯一の作業だった。書いているうちに、窓の外の樅の木が揺れ、その揺れが止み、それから館全体が、夕食の支度を忘れた家のように、静かになった。手帳の頁の端を、指の腹でなぞる。紙は、自分の体温より一度だけ、低かった。

食堂の電灯を点けたのは、椎名だった。五人で、一人分空いたテーブルを囲んだ。沙耶さんは、美嘉の席の前に、洗っていないままのマグカップを置いた。誰もそれに触れなかった。

「悠」

先輩が、僕を見た。昼の書斎の時と、同じ目だった。

「お前、夜中、廊下に出るな。絶対に」

返事はしなかった。代わりに手帳の表紙を、テーブルの上で一度だけ、軽く叩いた。先輩は、それ以上何も言わなかった。

午後十一時を過ぎて、皆がそれぞれの部屋に戻っていった。扉の閉まる音が、廊下の奥で、四回続けて鳴った。四回。六人から一人減ったはずの館で、確かに扉は四つ閉まった。数を数え直す自分の癖を、僕は止めなかった。止めたら、何か別のものが、廊下で数えはじめる気がした。

部屋の灯りを消して、扉の前にもう一度座り直した。ペンライトは膝の上、手帳は胸の前。昨夜の四つ目の丸のすぐ下に、新しい欄を引いて、時刻を書き込む準備をしていた。二時五十八分。十九分早く鳴り始めた昨夜の記録を、もう一度見返す。

樟脳の匂いの奥に、また別の匂いが混じっていることに、その時気づいた。

甘い柑橘。美嘉のハンドクリームの、昼間玄関で嗅いだものより、一段、濃くなった残り香。僕の部屋の扉の、内側の木目から、滲むようにして流れ込んでいた。鼻の奥で、その匂いが、昼に食べた食パンの味を押し戻してくる。唾を飲む。喉仏の動きが、自分の耳にまで届いた。

扉を、開けた。

廊下は、暗かった。

ペンライトの光を足元に落とす。絨毯の毛並みが、昼間見た時よりも寝ていた。誰かが、この廊下を、ごく最近歩いたように、同じ方向へ、毛が倒れている。光を一段だけ上げて、突き当たりの方へ、円を少しずつ滑らせる。花の蔦模様の壁紙、押し入れの戸、その先の、行き止まり。

行き止まりの壁の前に、人が立っていた。

立っている、とは言えない姿勢だった。背筋が、人間の背骨の曲がり方では曲がっていなかった。頭の位置は、天井に届く手前で止まっていて、肩の線から下へ、白い着物の袖が、床まで、ほとんど垂直に垂れていた。袖口から出ているはずの手は、見えなかった。裾は、絨毯の毛の上に重なるのではなく、毛の上で、微かに、濡れていた。着物の合わせは、右前だったか、左前だったか、光の円がそこに届かなかった。首筋の位置に、髪の束のようなものが見えた。ぬれた、黒い、だが光を跳ね返さない、黒。

目が、合ったような気がした。

——目なんて、あっただろうか。

唇の内側を、奥歯で噛んだ。鉄の味が、舌の先に広がる。自分の血の味で、意識を繋ぎ留めた。ペンライトの光を、ほんのわずか、上げる。頭の位置だと思った場所には、髪が、ただ、垂れているだけだった。顔の輪郭は、髪の奥に隠されている。見えないのではなく、最初から、そこに置かれていない。

瞬きを、一度した。

瞬きの間に、着物は、消えた。

消えた、と書くよりも、溶けた、と書いた方が近かった。光の円の中に、もう何もなかった。蔦模様の壁紙だけが、押し入れの戸の奥で、薄く息をしていた。行き止まりの床板に、濡れた染みが、小さく、円のかたちで、残っていた。指先を近づけたが、触れなかった。触れたら、僕の指の皮膚が、その染みと同じ温度で、同じだけ濡れる気がした。

階下で、音が鳴った。

湿った布を、床の上に引きずる音だった。玄関の三和土から食堂の方へ、ゆっくりと、止まることなく、一定の重みで引きずられていた。水を吸った反物のような、それとも、髪の長い誰かを俯せのまま足首で引くような、そういう重さだった。引きずる速さは、人が歩くよりも遅かった。けれど、止まらなかった。

ペンライトの光が、自分の手の甲で震えた。

「……先輩」

喉が鳴らなかった。

「誰か」

声にならないまま、僕は階段の手すりに手をかけた。木の手すりは、汗のように湿っていた。ここも、昼間より温い。階下の廊下の暗がりへ、光を落とす。何もいなかった。引きずる音は、もう止んでいた。けれど玄関の三和土から食堂の入口まで、絨毯の上に、水の帯のような、濡れた線が、真っ直ぐに引かれていた。線の幅は、人ひとり分より、少しだけ狭かった。

その線の終わりに、沙耶さんが立っていた。

寝間着姿の沙耶さんは、水音を聞いて起きてきたのか、自分のペンライトを手に持っていた。光を僕の顔に当ててから、線のほうへゆっくり下ろして、沙耶さんは首を傾げた。

「……悠くん、これ、何」

「たった今、音が」

「音?」

「引きずる、音が、玄関から、こっちへ」

沙耶さんは、絨毯の上に屈み込んだ。指先で、水の帯に触れた。眉を一度寄せてから、自分の指の腹を、ペンライトの光にかざした。

「乾いてる」

沙耶さんの指の腹は、乾いていた。

「……でも、線が」

「染みかな。前からあったんじゃない、これ」

ペンライトをもう一度、線に当て直した。線は、確かにそこにあった。けれど、色は、絨毯の古い染み以上のものではなかった。さっき僕が上で見た、行き止まりの床板の濡れた円と、繋がっているはずの線だった。繋がっているはずなのに、沙耶さんの指の腹だけが、乾いていた。

後ろから、先輩と健吾が起きてきた。先輩はペンライトの光を絨毯の線に当て、ふん、と一つ鼻を鳴らしただけだった。

「夢だろ、悠」

「違います」

「お前、昨日から神経が参ってる。部屋に戻れ」

「廊下の、突き当たりに、白い着物の」

言いかけた言葉を、先輩が、手で遮った。

「悠」

「はい」

「もう、言うな」

先輩の声は、朝食の時よりも、昼の書斎の時よりも、さらに一段、低くなっていた。健吾が、先輩の背中をじっと見ていた。その目が、何かを言おうとして、言わなかった。椎名が階段の中ほどに立って、僕と絨毯の線を、交互に見ていた。真由は、廊下の一番奥に、寝間着の袖を握ったまま、動かずに立っていた。誰も、何も、言わなかった。

部屋に戻って、扉を閉めた。

時刻は、三時七分を過ぎていた。

手帳を開く。新しいページ。万年筆のキャップを回す指が、さっきよりも冷たい。ペン先を紙に置き、一度深く息を吸って、ゆっくりと書いた。

——犠牲者、一名。

書いた文字の、ひと画目のはらいが、少し長すぎた。昨夜の、四つ目の丸の横の引っかき傷と、同じ角度で、同じだけ、伸びていた。自分の字ではない、と、もう、言えなかった。これは、僕の字だ。三日かけて、誰かに、僕の字の方を、合わせられている。

廊下の突き当たりで、こくん、と、床が一つ、鳴った。

昨夜より、一歩、近かった。そして、もう一歩。もう一歩。軋みは、僕の部屋の扉の前を、通り過ぎていった。

健吾の部屋の、扉の前で、止まった。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!

第3話 - 黒縄邸、三時十七分の軋み | Novelis