第1話
第1話
扉が、半ば開いていた。
雨は夜半から止まず、敷石の水たまりに洋館の影を沈めている。私は鍵を取り出そうとして、その手を止めた。真鍮の把手と、蝶番の隙間。そこに細く黒い線が走って、玄関ホールの闇をこちらに覗かせていた。誰かが先に入ったのだ。あるいは――誰かが、ずっとここで私を待っていた。
三ヶ月前、私はこの家を捨てた。
正確には、捨てられた。大階段の下で婚約破棄を突きつけられ、伯爵家の紋章の前で指輪を外した夜から、この扉を一度も開けていない。帰る理由などなかった。彼は死んだ。葬儀で棺に触れた指の、あの冷たさは忘れない。蝋のような頬、閉じた瞼の下で凍りついた睫毛、額に置かれた白い花の押された跡。私の手は確かにそこにあった。確かに、彼の死を確かめたのだ。
それなのに。
――ぎしり。
内側で、床が鳴った。
「……誰?」
問いかけた自分の声が、湿った空気に吸い込まれる。返事はない。代わりに、廊下の奥から甘い匂いが流れてきた。ベルガモットと、樹皮と、ほんの少しの煙草。彼が好きだった香水。瓶は書斎の飾り棚にしまわれたまま、三ヶ月、誰の指も触れていないはずの。
喉の奥が震えた。私は傘を玄関ポーチに置いたまま、踵を濡らしながら中へ入った。
洋館は冷えていた。暖炉の火はとうに消え、絨毯の毛足に湿気が沈み込んでいる。天井のシャンデリアは一灯だけ生き残っていて、残りは硝子の雫の中で死んだ蛾のように黒かった。
「マーサ」
――と、声に出してから気がついた。ここに私を呼ぶ者はもういない。マーサは先月、暇を出したと聞いた。いや、自分から去ったのだったか。執事のハロルドも、下女のニナも、門番のオーウェンも。使用人の誰に問い合わせても要領を得ない返事ばかりで、まるで揃って口裏を合わせるように、この館から逃げていった。
だから私は一人で帰ってきた。遺品を整理するために。彼の残したものを、私の手で、確かめるために。
足音を殺して廊下を進む。壁の肖像画は埃を被り、彼の母君も、祖父の軍服姿も、布でも被せられたように顔が霞んでいる。鏡台の前まで来て、何気なく目を上げた。
そして――固まった。
鏡の中に、影があった。
私の肩越しに、背の高い男の輪郭が、揺れていた。
振り返っても、誰もいない。
当然だ。誰もいるはずがない。それでも鼓動は追いつかず、頭の芯が痺れたように熱かった。視線を戻す。鏡は、もう私一人しか映していない。乱れた髪、濡れた肩、蒼ざめた頬。見覚えのある、哀れな女の顔。
「……気のせいよ」
呟きは、自分を宥めるためのものだった。唇を噛む。微かに、鉄の味がした。
廊下を進むほど、香水の匂いは濃くなった。書斎の扉の前で、膝が折れそうになる。息を吸うと、胸の奥に彼の輪郭が立ち上がる。艶のある黒髪、少し困ったような微笑み、指先の煙草の仕草。――やめて、と叫びたかった。死者の匂いを嗅がされるのは、もう十分すぎるほどに残酷だった。
扉を押した。
書斎は、記憶のとおりだった。
いや、記憶よりも、もう少しだけ、生きていた。
机の上の羽根ペンは、インク壺の縁に斜めに立てかけられていた。誰かが使ったばかりの角度だ。紙挟みには、書きかけの手紙らしきものが一枚。文字は読めない。乾いた血のような染みで、二行目が潰れている。私は手を伸ばしかけて、止めた。触れてはいけないものに思えた。
代わりに、暖炉の灰を指先で探った。
奥のほうに、まだぬるい場所があった。指の腹に、仄かな熱が沁みてくる。人の体温を下から押し上げるような、生ぬるい熱だった。灰の表面には、焚き木の節目が黒く残って、つい先ほどまで炎を抱いていたことを証していた。
「……嘘でしょう」
今朝か、昨夜か。誰かがここで、火を焚いた。
私はゆっくりと立ち上がり、耳を澄ました。
窓の外で雨が鳴り、暖炉の奥で灰が微かにぱちりと弾ける。その合間に――
とん、とん、とん。
床の下から、音が響いた。
とん、とん、とん。
規則正しい、三拍子。
何かを叩いているのではない。歩いているのでもない。ただ、木か、鉄か、何かを、一定の力で打っている音だった。
地下だ、と思った。
この館には地下がある。私自身は一度しか降りたことがない。ワインの樽と、冬用の薪と、埃だけが詰まった忘れられた空間。そこから、音は響いていた。
とん、とん、とん。
止まらない。
音は床板を伝い、靴底から踝、膝、腰へと這い上がってきた。肋骨の内側で、誰かが私の心臓を同じ三拍子で叩いているかのようだった。呼吸を整えようとしても、吸う息がどこか喉の途中で止まってしまう。奥歯がかちかちと鳴り、その音まで三拍子に飲み込まれていく。
私は書斎を出て、廊下の奥の扉に向かった。地下への扉は、記憶では鍵がかかっているはずだった。父の代からずっと、主人の寝室の抽斗に鍵がしまわれていた。触ってはならないと、子供の頃に何度も言い含められた鍵。
扉の前に立って、把手に触れた。冷たい。掌に、冬の河石のような鈍い痛みが残った。
試しに引いてみる。
――かちり。
開いた。
鍵はかかっていなかった。誰かが、あるいは何かが、先に開けていたのだ。
踏み込むのは怖かった。扉を細く開けたまま、階下の闇を覗き込む。冷気が頬を舐めた。匂いが違う。埃と黴と、もう一つ、鉄のような甘さ。奥歯が勝手に鳴る。
とん、とん、とん。
近くなった音に、つま先が後退した。
その時だ。
階上――二階の廊下のほうで、ぱたり、と何かが落ちる音がした。
反射的に振り仰ぐ。階段の途中、踊り場の手すりの向こうに、白い端布がはみ出している。私が朝、玄関ホールに置いた傘では、ない。ハンカチほどの大きさの、色の褪めた布。
引き寄せられるように階段を上った。地下の扉を開けたまま、背中に打音を聞きながら。
踊り場の端布を手に取った瞬間、息が止まった。
それは、手袋だった。白絹の、紳士用の。右手の甲に、銀糸で小さな紋が刺してある。――彼の紋。生前、晩餐会で必ずつけていた、私が贈った手袋だった。
葬儀の日、棺に入れたはずのものだった。
私は、それを彼の冷たい手に握らせた。自分の手で、確かに。
絹は、三ヶ月前よりもなお白かった。棺の底で土の匂いに晒されたとは思えないほど、洗い立てのような艶が指の腹を滑っていく。紋の銀糸は、ほんのわずかに湿っていた。誰かの体温がつい先ほどまで宿っていたかのように、ぬくもりの残滓が布地の裏側から滲み上がってくる。
膝から力が抜け、手袋を握りしめたまま、絨毯の上に崩れ落ちる。羊毛の毛羽が掌に刺さる。棺に触れた指の感覚が、指の内側から蘇った。蝋の頬、閉じた瞼、そして、凍えた彼の手を包んだ、白絹の滑らかさ。
――確かに、入れた。
それなのに、なぜ、ここにある。
――とん、とん、とん。
地下の音が、ひときわ強くなった。
ぎしり、と、天井が鳴る。
誰かが、二階の奥の部屋を、歩いている。
顔を上げた。視界の端、鏡台の鏡が、また私を映している。その鏡の中で、私の背後の廊下の奥の扉が、ゆっくりと閉まるのが見えた。
たった今、誰もいないはずの扉が。
「……嫌」
声が漏れた。
「嫌よ、そんな――」
立ち上がろうとして、よろめく。手袋は指の間から滑り落ち、絨毯の上でこちらに指先を向けた。五本の指は、まるで何かを差し招くように、わずかに丸まっていた。
後ずさる。
一歩、二歩、三歩。
背中が手すりに当たった。
その時、廊下のずっと奥から、声が聞こえた。
ひとことだけ。
低い、少し掠れた、そして――笑みを含んだ、彼の声。
「――お帰り」
息が、止まった。
動けない。
雨音が遠のき、鼓動だけが耳の奥で轟いた。足元から冷たい何かが這い上がってくる。涙ではない。汗でもない。もっと深いところ、骨の髄が凍りついたような――記憶の底から漏れてくる、甘い毒のような何かだった。
彼は死んだ。
私はこの手で、棺に触れた。
それでも、今、この館には彼がいる。
笑っている。
私を、呼んでいる。
「――ねえ、何処にいるの」
廊下の奥の闇が、ゆっくりと深くなった。地下の打音は、もう聞こえない。代わりに、階上の床が、ゆっくりと軋み始める。重い靴音が、こちらへ向かってくる。規則正しく、迷いなく。
私は鍵束を握りしめた。玄関は遠い。地下の扉は、開いたまま。
どこへ逃げればいい。
――とん。
踊り場の天井の、ちょうど真上で、足音が止まった。