第3話
第3話
暗室の扉を閉めるとき、私は、ノブの感触を、ほんの一秒だけ、掌に、留めた。金属は、湿って、ぬるかった。誰かが握ったばかりの、その温度だった。握り直して、閉めた音が、カチ、と、ひどく小さく鳴った。赤い安全光は、扉の隙間の下から、まだ、漏れ続けていた。ほそい、赤い、線。床のリノリウムの、剥がれた黒い地図の上を、血のように、ほんの一筋、滑っていた。
彼は、一歩だけ、廊下の真ん中に戻っていた。
「……もう、行こう」 私は、言った。声は、自分でも驚くほど、平たかった。平たさのせいで、かえって、裏返りそうだった。 「うん」 彼は、こちらを、見なかった。「うん」の一音は、いつもの声だった。いつもの声が、いつもの位置に、落ちなかった。落ちた場所が、廊下の、半歩、向こう側だった。耳の遠くで、拍を刻むように、水滴の音が、また、ひとつ、落ちた。ぽとん、と、落ちた先で、童謡の、最初の一音が、薄く、こだました。
とおりゃんせ、の、入口。
音楽室の方角は、暗室からは、廊下の、反対の、突き当たり。私の爪先は、そちらに、向いていなかった。向いていないのに、懐中電灯の、彼の手元の、光の輪が、ゆっくりと、こちらを、置いていくように、そちらへ、滑り始めていた。光の縁が、床の水滴の跡を、ひとつ、ふたつ、舐めた。濡れた跡は、まだ、乾いていなかった。乾いていないのに、水の、輪郭は、ほんの少し、内側へ、縮んでいた。誰かが、ほんの数秒前まで、そこに、立っていて、たった今、立ち去った、その、時間の幅の、縮みかただった。
「……なにも、ないよ」 と、彼は、言った。 「確認、しに、行くだけ」
確認。その単語の、輪郭が、廊下の湿度のなかで、ほどけた。確認、という言葉は、中身が、もう、わかっている人の、使う単語だった。わからないから、見に行く、のでは、なかった。わかっているから、念のため、見る、の、響きだった。私は、頷くでも、首を振るでもなく、ただ、ストラップの縫い目を、親指の腹で、押した。縫い目の糸は、皮膚に、食い込んだ。食い込ませることで、かろうじて、膝の、震えが、止まった。止めた震えは、止めた場所から、さらに、奥へ、潜った。潜って、肋骨の、内側の、いちばん、柔らかい場所で、小刻みに、続いていた。
三階の、長い廊下を、私たちは、戻る方向で歩いた。
歩くたびに、上履きの、剥がれかけたゴム底が、リノリウムと、吸いつくように、鳴った。きゅ、きゅ、と、ふたり分の、足音が、ずれて、重なった。彼の歩幅は、いつもより、半足分、短かった。急いでいる、のではなかった。急がないように、しているのでもなかった。足を、前に出すたびに、出した足の、前方を、確かめているような、歩幅だった。廊下の両側の、教室の扉は、どれも、閉まっていた。閉まった扉の、上部の、磨りガラスには、月の光が、当たっているはずの角度に、光が、なかった。雲でも、出たのか、と、窓の外を、探したが、窓の外の空は、さっきと、同じ、薄い、群青のままだった。光だけが、来ていない。来ていない、のに、廊下の、真ん中だけが、ぼんやりと、明るかった。
歩きながら、私は、彼の横顔を、見ないように、見ていた。懐中電灯の逆光の、そのまた向こう側に、彼の、耳のかたちが、浮かんでいた。私が知っている、彼の耳だった。私が、知らない、角度の、筋が、首筋から、そこへ、通っていた。三年間、同じ教室にいた彼の、その角度の筋を、私は、見た、ことが、なかった。見たこと、がないのに、一度、目にしたら、もう、忘れられない、という形を、していた。耳の付け根の、うすい影の下で、彼の、喉仏が、一度、沈んだ。唾を、飲み込んだ、のではなく、言葉を、ひとつ、飲み下した、沈みかただった。その言葉が、なんだったのか、私は、訊けなかった。訊けないまま、私の喉仏も、同じ拍で、一度、沈んだ。
旧音楽室の扉の前に、私たちは、立った。
扉は、閉まっていた。さっきよりも、きっちりと。さっき、彼が、手を触れたときは、ほんのわずか、枠との隙間があったはずだった。いまは、その隙間が、消えていた。隙間のない扉の、上下の框の奥から、ピアノの音が、継ぎ目なく、漏れ続けていた。
とおりゃんせ。 行きはよいよい。 帰りはこわい。
調律は、狂っていた。半音ずつ、ずれた場所で、鍵盤は、沈んでいた。弾き手は、迷って、いなかった。狂った鍵盤の位置を、ひとつも、踏み外さないように、弾いて、いた。迷いのなさは、技術ではなく、暗記の迷いのなさ、だった。この調律の狂いを、繰り返し、繰り返し、弾いた者の、指の、迷いのなさ、だった。
手首の内側の、脈の、打ち方が、乱れた。
――無人の、はずだ。
校舎は、閉校して一年だ。ピアノは、閉校時に、運び出された、はずだった。少なくとも、業者の見積書に、そう、載っていた。閉校委員の教員が、最後の出張授業で、そう、愚痴っていた。「あのグランドピアノ、引き取り先も決まって、ほっとしたよ」と。写真部のOBで、その教員の話を、横で、聞いていたのは、私と、――彼だった。
「鍵、開けるよ」 と、彼は、言った。 「もう、開いてるかも、しれないけど」
ドアノブに、彼の指が、かかった。真鍮の曇り。さっき、離した位置と、寸分、違わぬ、場所だった。回った。回らなかった。回った、と思った瞬間、内側で、カチ、と、小さな音がした。それは、鍵が、かかる音だった。
回した手の、彼の、手首が、止まった。
止まった手首の、腱の、下で、産毛が、立った。私のではない、彼の、産毛が、懐中電灯の光の縁で、ざわりと、逆立った。逆立ったあとで、彼は、ゆっくりと、ノブから、指を、離した。離した指先が、ほんの一瞬、空中で、宙づりになった。なにかを、言いかけて、飲み込んだ、指先の、形だった。
「……内側から、鍵が、かかった」 と、私は、つぶやいた。
つぶやいたあと、自分の、声の、震えが、やっと、遅れて、追いついてきた。膝の後ろに、冷たい汗が、一筋、伝った。伝った汗は、タイツの内側で、行き場をなくして、ふくらはぎの、いちばん細いところに、溜まった。溜まって、冷えて、皮膚から、ゆっくりと、熱を、吸い出していった。吸い出された分だけ、身体の芯が、ひとまわり、小さくなった気がした。
スマホ、と、思った。警察、ではなかった。まず、光と、時計が、欲しかった。ポケットから取り出したスマホの画面には、午前、一時、四十八分、と、表示されていた。表示は、そのあと、一拍おいて、勝手に、切り替わった。時刻の、下の、アンテナのマークが、ひとつ、消えた。もう、ひとつ、消えた。最後のひとつが、残像のように、点滅して、ふっ、と、沈んだ。
圏外、の、三文字が、浮かんだ。 それから、その、三文字さえ、消えた。
画面の右上に、代わりに、時刻だけが、静かに、残った。 一時、五十一分。
嘘だろう、と、思った。さっき、四十八分、だった。私は、三分、どこに、行っていた。立っていたのは、扉の前の、同じ、一歩分の、床だった。踵の下の、剥がれたリノリウムの、へこみの、形まで、同じ、一歩分、だった。三分の、あいだ、私は、瞬き、すら、していなかった、気がした。していないのに、目の、奥が、乾いて、いなかった。乾いていない、ということは、私は、瞬きを、していた、のかもしれなかった。していたのに、そのあいだの、景色を、ひとつも、覚えていなかった。覚えていない、その三分を、誰かが、代わりに、覚えている、という、そういう、肌触りだった。
ピアノは、まだ、鳴っていた。
行きはよいよい。帰りはこわい。 こわいながらも、通りゃんせ、通りゃんせ。
旋律の、最後の一音を、奏者は、いつもより、長く、持った。鍵盤を、押さえたまま、息を、整えている、長さだった。整え終わった、その手が、そろそろ、こちらを、振り返るのでは、ないか、と、扉の、一枚、向こうで、その気配が、じっと、待っていた。
「……鍵、開けよう」 と、彼は、言った。声は、さっきより、低かった。 「開けられる、と思う」
私は、彼を、見た。
思う、の、「う」の音が、少し、喉に、引っかかっていた。その引っかかりは、私の知っている彼の、知らない声、だった。もう一度、暗室の、赤い光の残像が、瞼の裏で、じわりと、滲んだ。バットの中の、今夜の門扉の、像。懐かしいな、と、泣き終わったあとの人の、ほどけた語尾。
腕時計を、確かめる、代わりに、私は、シャッターボタンの上に、ふたたび、指を、置いた。ファインダー越しではなく、今は、指の、腹の、一点だけで、時間を、数えたかった。扉の、框の下から、空気が、わずかに、漏れてきた。漏れた空気は、さっきの、消毒薬でも、酢酸でも、なかった。
――鉄、の、匂い、だった。
濡れた、鉄。 一年前の、暗室の、定着液の、もっと、奥の、匂い。
匂いは、鼻の奥の、粘膜の、いちばん深い襞に、先に、届いた。届いた匂いは、記憶の、名前のついていない引き出しを、順番に、ひとつずつ、開けていった。開けられた引き出しの、いちばん底に、一年前の、夕方の、放課後の、暗室の、赤い光が、まだ、そのまま、残っていた。残っていた光の真ん中に、誰の、とも、わからない、濡れた指先の、形が、ひとつだけ、あった。その形を、思い出しきる前に、私は、息を、止めた。止めた息の、代わりに、口の中に、金属の、錆びの味が、じわりと、広がった。
扉の、向こう側で、ピアノの、最後の一音が、やっと、離された。静けさが、一拍、落ちた。落ちたあと、床の、下の、ずっと、下の、どこかで、小さく、長く、誰かが、息を、吸う、気配が、した。
四時四十四分まで、あと、三時間。 電波は、もう、ない。 扉は、内側から、閉ざされている。
彼の、横顔は、懐中電灯の、逆光の、向こうで、やはり、こちらを、見ていなかった。見ていないのに、私の、指先の、震えの、位置だけは、正確に、知っている、そういう、肩の、角度を、していた。