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四時四十四分、鍵は開いていた

第2話 第2話

第2話

第2話

「……先に、暗室、見てもいい?」

私がそう口にしたとき、彼の指はまだ、音楽室のドアノブから離れていなかった。真鍮の曇った金具の上で、人差し指の関節が、ほんの一秒、止まって、それから、するりと、何事もなかったように離れた。名残のない指だった。普段なら、名残のない人だ、と思っただろう。いまは、なぜか、そうは思えなかった。

「いいよ」 彼は振り返らずに、そう言った。 「先に、そっちから、ね」

先に、という言い方が、引っかかった。あとでここに必ず戻る、と決まっているような言い方だった。四時四十四分――頭の隅で、どうしてかその時刻だけが、また、一度よぎった。頭の隅、というより、こめかみの内側の、もっと奥。数字の形ではなく、数字の温度で、それは、そこに、あった。

童謡は、もう止んでいた。いつ止んだのか、思い出せなかった。止んだのではなく、止まった場所を私が通り過ぎた、のかもしれない。耳の奥には、壊れた半音の沈み方だけが、まだ冷たく、残っていた。廊下の空気に、その音は、どこにも、戻っていなかった。

三階の廊下は、想像していたより、長かった。蛍光灯の抜かれた天井のソケットが等間隔に続く下で、懐中電灯の光の輪が、ゆっくりと滑る。光の先で、床のリノリウムの剥がれは、じわじわと激しくなっていった。古い糊の跡が、黒い地図のように広がり、踏むたびに、ぎ、と木の下地が呻く。呻きのあいだに、どこかで、ぽとん、と、水滴の音が落ちた。さっきと同じ音だ。場所は、たぶん違う。水道はとうに止められているはずだった。天井裏の古い配管から、空気と一緒に、しずくが一粒、ずつ、にじみ出ているのだろうか。ぽとん、とまた落ちた。間隔が、少しずつ、狭くなっているように、感じた。狭くなっている、というより、私の歩幅に、合わせて、きている、ように、感じた。

「踏むとこ、気をつけて」 と彼が言った。 「そこの床、一年前から、もうだめだったから」

私の呼吸が、一瞬、浅くなった。喉の奥が、ひゅっと、乾いた。舌の裏に、さっきまでなかった、金属の味が、じわりと、戻ってきた。

一年前、と、彼は言った。 閉校はちょうど去年の三月だ。去年の四月以降、彼がこの校舎に入ったことは、一度もないはずだ。少なくとも、私が知る限り、ない。廃墟探索が趣味でもない。閉校前の最後の文化祭にすら、彼は来なかった。体調が悪いと言って、来なかった。あの日、私が送ったメッセージの、既読は、夜中の、三時、四十四分に、ついた。返信は、なかった。

「……そう、なんだ」 私は、声が裏返らないように、そう返した。 「詳しいね」 「そりゃあ、三年通ってたんだから」 彼は笑った。「床くらい、覚えてるよ」

三年通ってた、は本当だった。 けれど、覚えている、という言い方の、どこかが、違った。覚えている、というより、最近も、歩きに来ていた、というような、足の運びだった。踏み抜けそうな箇所を、迷わず、きっかり一センチずれて避けた。そこに穴がある、と、身体がもう知っている歩き方だった。私は、彼の背中の、一点を見ていた。肩甲骨のあいだに、見知らぬ誰かの影が、うっすら、重なった気がして、瞬きで振り払った。振り払ったあとも、うっすら、そこには、まだ、誰かの、背中が、立っていた。

消毒薬の匂いが、強くなった。

廊下の右手、かつての保健室の前を通り過ぎたあたりから、ぞっとするほど、匂いが濃い。エタノールのような鋭さと、消えかけの石鹸の、甘ったるい後味。廃校になってから、置かれたはずのない、新しい匂いだった。懐中電灯の光を曇り硝子に向けようとして、私は、やめた。中に、なにかが、きっちりと片付いている気配が、した。誰かが、ついさっきまで、そこで、てきぱきと、片付けていた――そんな、整った、静けさだった。片付ける手つきの、指の長さまで、想像できそうで、私は、光を、床へ、落とした。

三年前、私は生徒会の不正を告発した。

会計帳簿の改竄、部費の流用、役員個人の買い物。すべてを、私はこの校舎の三階で、写真に撮った。撮った印画紙を、旧写真部の暗室で、赤い安全光の下で、現像した。酢酸の鋭さ、定着液の鉄くさい温度、現像液の苦い匂い。印画紙の上に、数字の影がじわりと浮かび上がる、あの時間。バットの中で、薄く、しろく、始まった像が、秒針の音に合わせて、黒く、澄んでいく、あの時間。私は、その匂いを、制服の袖に、一年間、染み込ませて登校した。告発文書の横に、嘘つきと罵られた私の顔写真が、画鋲で貼り出された、あの日の朝も、私の袖からは、定着液の、冷たい、鉄の匂いが、していた。

その匂いが、いま、廊下に、ある。

廃校になって一年の校舎に、あるはずのない匂いだった。 誰かが、ごく最近、あの暗室を、使った。

息を止めたまま、私は彼の背中を見た。彼の肩は、ひどく静かだった。静かすぎて、呼吸の上下が、どこかで、消されているみたいだった。彼の横顔は、こちらを、振り返らなかった。振り返らないのに、こちらの視線の位置だけは、正確に、知っている、という、首筋の、角度だった。

旧写真部の暗室は、廊下の奥の、突き当たりの、二つ手前。

扉の前に立ったとき、私は、ノブに触る前に、一度、深く、息を吸った。

吸ってしまってから、後悔した。

匂いは、廊下よりも、さらに、濃かった。新しい定着液の匂い。酢酸の、まだ揮発しきっていない、鋭い稜線。誰かが、今夜、ここで、何かを、現像していた匂い。しかも、つい、さっき、まで。鼻の奥が、つん、と、痺れた。痺れのあとに、舌の付け根で、懐かしさが、ひとつぶん、跳ねた。懐かしさは、いま、抱きたい感情では、なかった。

「……入るよ」 私は自分に言い聞かせるように、そう言って、ドアノブを、回した。

冷たい取っ手は、ごく軽く、回った。 こちらも、鍵は、かかっていなかった。

暗室は、暗かった。 当たり前だ。暗室なのだから。

けれど、その暗さの中に、一点だけ、ぼんやりと、赤い、光があった。

天井の隅の、安全光のランプが、ついていた。 誰が、つけたのか。 電気は、止まっているはずだった。 校舎全体のブレーカーは、去年、確かに、落とされたはずだった。

赤い光のなかで、作業台の、現像バットに、薄く、液が張られていた。薬液は、まだ、ほんのり、温度を持っていた。指を近づけると、液面の上の、わずか数ミリの空気が、人の体温の、名残のように、ぬるんでいた。バットの上の、印画紙には、像が、ちょうど、浮かび始めたところで、止まっていた。止まっていた、というより、いま、ちょうど、誰かに、覗き込まれるのを、待っていた。

校舎の、正面玄関の写真だった。 錆びた門扉。U字錠の鎖が、だらりと垂れている。 ――今夜の、門扉だった。 私が、さっき、カメラを構える、より、前の、写真だった。

背後で、彼が、静かに、息を吸った。 吸って、ゆっくり、吐いた。 吐いた息が、私のうなじの産毛を、ほんの一瞬、撫でた。

そして、また、あの声で、彼は、言った。

「――懐かしいな」

その言葉が、赤い光のなかで、薄く、震えた。

懐かしい、の、どこに、アクセントを置いているのか、私には、もう、わからなかった。「懐かしいな」の「な」の、最後の音が、不自然に、ほどけた。ほどけた先に、笑っていないのに、笑いに似た、湿った響きが、あった。泣き終わったあとの人が、喉の奥で、一度だけ、息を震わせる、あの音に、似ていた。

私は、ゆっくりと、振り返った。

赤い安全光のなかで、彼の顔は、半分だけ、染まっていた。染まっていない半分が、妙に、白かった。その白い側の目が、バットの中の、印画紙を、じっと、見ていた。まばたきを、しなかった。唇は、閉じていたが、閉じきっては、いなかった。閉じきらない唇の、内側で、奥歯が、ごく小さく、噛み合っていた。その噛み合わせの音は、聞こえなかった。聞こえないのに、形だけは、見えた。

どこか、遠くで、また、ピアノの、最初の一音が、鳴った。 とおりゃんせ、の、入口の音だった。 無人のはずの、三階の、音楽室の方角から、聞こえた。

胸の前で、カメラのストラップが、じわりと、皮膚に食い込んだ。指は、勝手に、シャッターボタンの、上に、戻っていた。押しては、いけない、と思った。いま押したら、バットの中の、あの写真の、続きが、私のフィルムの上にも、浮かんできそうな、気が、した。

私は、一歩、後ろに、下がった。スニーカーの踵が、床の剥がれたリノリウムを、ぺこん、と、へこませた。その音を合図にしたように、廊下の水滴が、ひとつ、また、ひとつ、落ちた。落ちる間隔は、もう、童謡の、拍に、揃っていた。

音楽室の方へ、戻らなければ、ならなかった。 戻りたくない、と、足が、言っていた。

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