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四時四十四分、鍵は開いていた

第1話 第1話

第1話

第1話

ep1「開いていた鍵」を執筆します。

鎖が、ほどけていた。

正門の錆びた門扉に巻きついていたはずのU字錠が、冷えた鉄の鎖ごと、だらりと地面に垂れている。指先で軽く押すと、蝶番がきしみ、門はあっけなく内側へ開いた。私は息を呑み、背後の彼を振り返った。

「……開いてるよ」 「うん」と彼は短く答えた。「そうみたいだね」

そうみたいだね、じゃない。工務店の業者が閉校時に取り付け直したはずの南京錠を、半年も管理されていない廃校の正門で、誰が、いつ、解錠したというのか。鎖の切れ目を、私はもう一度、そっと指でなぞった。金属は切断されていなかった。鍵穴ごと、丁寧に外されていた。素人ではない手つきだ。針金一本でこじ開けたのではなく、正規の鍵を持つ誰かが、礼儀正しく開けて、律儀に、また閉めずに立ち去った。そういう置き方だった。

四月の深夜一時、桜坂高校。 閉校してちょうど一年になる。

私の首から下がった一眼レフが、胸の前でこつんと鳴った。黒いストラップは汗で湿り、掌の皮膚にまとわりつく。後輩への卒業記念、と私は彼に説明した。今年の三月に卒業した写真部の後輩たちに、在学中の校舎の写真を集めた私家版の写真集を贈りたい。だから最後にもう一度、どうしても校内を撮りたい。

嘘ではなかった。嘘ではない、はずだった。 ただ、本当のことは彼にも言っていない。

彼は懐中電灯のスイッチを押し、細い光を地面に伏せた。私のスニーカーのつま先を、静かに照らす。光の輪は小さく、ちょうど足元一歩分だけしか明るくならない。外から見られないようにしているのだと、私はやっと気づいた。彼は、この種の出入りに、慣れている人の歩き方をしていた。

「行こう。見つかると面倒だ」

小さな声のくせに、迷いがなかった。

玉砂利の敷かれた前庭を抜け、昇降口までの十数メートル。一歩ごとに踏む砂利の音が、耳の内側で跳ね返るようだった。左手にはかつての桜並木。一年で枝はずいぶん乱れ、街灯もないから、葉のざわめきだけが闇の厚みを増していた。花はもう散り果てて、足元にはひしゃげた花びらの黒い影が、濡れた紙屑のように貼り付いている。春というより、春が終わったあとの、生乾きの匂いがした。

昇降口の硝子戸の前に立ったとき、彼が私より先に手を伸ばした。戸の取っ手は油が切れていたのだろう、ぎ、という低い軋みを残して、横へ滑る。

やっぱり、鍵は開いていた。 外の鍵も。中の鍵も。

「先に誰か、入った?」 私は小声で聞いた。 「さあ」と彼は首をわずかに傾げて、 「でも、ちょうどいいよ」 と笑った。

ちょうどいい。その言葉が、廊下の暗さの中へ呑まれていく。ちょうどいい、という単語の輪郭だけが、しばらく私の耳の奥に残って、冷たく回った。

校舎の中の匂いを、私はよく知っていた。埃と、チョークの白い粉と、給食の残り香。そこに微かに、消毒薬じみた饐えた匂いが混じる。一年前より、確かに湿っている。廊下の床のリノリウムは、ところどころ剥がれて黒い下地を覗かせ、踏むと鈍く、重たく軋んだ。天井の蛍光灯は半分以上が外されていて、むき出しのソケットが、黒い眼窩のように並んでいた。誰かに見下ろされているような気配だけが、等間隔に続いていた。

彼は靴を脱がなかった。私もそうした。履き替える上履きは、もうどこにもない。

懐中電灯の光が廊下の奥を舐めると、右手の壁に掲示板の跡が浮かび上がる。画鋲の穴が、点々と、並んだまま。ここに、三年前、私の顔写真が張り出されたのだ。生徒会の不正を告発した告発文書に、まるで指名手配のように貼られた顔写真。『生徒会を陥れた嘘つき』と、誰かが赤マジックで書き殴った、私の名前。

それを、私は毎朝、素通りして登校した。 毎朝、泣かないことだけを、決めていた。

唯一、この壁の前で足を止めてくれたのが、彼だった。画鋲を一本ずつ、黙って抜いてくれた。抜き終わったあと、血の滲んだ指の腹を、彼はTシャツの裾でごく当たり前のように拭った。あの仕草の素っ気なさを、私は、たぶんずっと覚えている。覚えている、と思っていた。いまこの壁の前に立って、彼の横顔をもう一度盗み見たとき、あの日の彼の指先の血の色と、今夜の彼の静かな横顔が、どうしてもうまく重ならなかった。同じ人のはずなのに、輪郭の芯のところで、ほんの少し、焦点がずれていた。

「ここ」 と、彼が声をかけた。懐中電灯は、階段の登り口を指していた。 「三階、行くんだろう」 「……うん」

私が行きたがっているのは、旧写真部の暗室だ。あれは三階の、音楽室の隣にある。 ――というのは、建前だった。

本当の目的地は、音楽室の斜向かいの、旧生徒会室だった。あの告発の時に押収されたまま、返却されなかった私の提出物が、まだあの部屋のどこかに残っているはずだった。閉校時に校内書類は一度も整理されなかったと、閉校委員の教員がこぼしていたのを、私は聞き逃していない。

確かめたかった。 回収したかった。 そしてもう一度、何かを、終わらせたかった。

階段の踊り場に差し掛かったとき、私はふと、彼の横顔を見た。

懐中電灯の逆光で、輪郭が薄く浮かび上がる。鼻梁の線、長めのまつげ、薄い唇。いつもの彼だ。いつもの、はずだった。

なのに、そのとき――ほんの瞬き一つ分だけ、彼の横顔に、私の知らない誰かが重なった。

知らない男の輪郭。 もう少し、角ばっていた。 もう少し、昏かった。 そして、口元が、笑う前の形に、ほんの少しだけ、引き攣れていた。

「どうかした?」

声で、彼はいつもの彼に戻った。 心臓が、一度、大きく鳴った。鳴ったあと、みぞおちの奥で、小さく、もう一度。息を吸うと、埃と湿気のあいだから、覚えのない甘い匂いが、ごく薄く、鼻先をかすめた気がした。香水ではない。整髪料でもない。誰かが、この廊下に、ついさっきまでいた、そういう匂いだった。

「……ううん、なんでもない」 なんでもない、と私は繰り返した。 なんでもない、はずだ。

階段を三階まで登りきる頃には、額にうっすらと汗が滲んでいた。廃校の校舎は、夏でもないのに空気が重い。空調の止まった校舎の内側は、呼気と古い木材の湿気がこもって、どこか熱っぽい。

三階の廊下の突き当たりに、旧音楽室がある。

その扉の前まで来たとき、彼が、ふいに立ち止まった。 私も止まった。

扉は、閉まっていた。 鍵は、もともとかかっていないはずだった。

彼は懐中電灯の光を、ゆっくりとドアノブへ移した。錆びた真鍮のノブが、鈍く光った。

「先に、ここ見ておこうか」 と、彼は言った。

音楽室の話は、私は一度もしていなかった。 暗室と、生徒会室の話しか、していなかった。

なぜ、音楽室なのか。 喉の奥で、問いが痞えた。舌の上で一度ほどけかけて、結局、唾と一緒に飲み下した。聞けば、何かが、取り返しのつかないところまで動いてしまう気がした。

その瞬間、廊下の、闇の濃い方から、ちいさな音が、耳に届いた。

ぽつん、と、どこか遠くで、水滴の落ちるような音。 そのあとに、薄く、旋律が続いた。

童謡だった。 たしか、――とおりゃんせ、という曲だった。

行きはよいよい、帰りはこわい。そういう歌詞の曲だ。音は、ピアノの弦を直接指で弾いたような、くぐもった響き方をしていた。調律はとうに狂っていて、半音ずつ、ずれた場所で音が沈んでいく。弾き手は、間違えていなかった。わざと、その壊れた音階の上を、なぞっていた。

「聞こえる?」 私は、掠れた声でそう聞いた。

彼は、懐中電灯を扉に向けたまま、こちらを振り返らなかった。

「うん」

短く、いつもの声で、彼は答えた。 そして、ほんのわずか、口の端を上げた。

「懐かしいな」

そう、つぶやいた。

腕時計を見る。午前一時二十四分。 四時四十四分まで、あと三時間と、少し。

私はまだ、知らなかった。 正門の鎖を解いたのが、誰だったのか。 この校舎に、あと何人分の呼吸が潜んでいるのか。 そして、いま目の前で薄く笑っているこの彼が、一年前の今夜、どこで、何をしていたのか。

私は、シャッターボタンの上に、静かに、指を置いた。

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