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解析眼の潜入捜査官

第3話 第3話

第3話

第3話

シャッターの底で、雨が割れて転がった。

外から滑り込んだエンジン音、二基。アイドリングのまま停まる。タイヤの溝が浅い水たまりを潰す、潰す、潰す。

怜司はコンテナの天板に伏せ、頬骨で水滴を一つ、押し潰した。鉄の冷たさが頬から肋骨まで一気に這い、呼吸の下半分を凍らせる。

「上だぞ、上——!」

鮫島の声が、闇の角を回って伸びてきた。

西側の照明は死んだ。東の常夜灯一基だけが、コンクリートに黄色い円を落としている。その円の縁を、坂東の靴の影が、ゆっくりと舐めた。

シャッターが外側から三十センチ持ち上がる。雨と、夜と、新しい靴音が四つ、滑り込んだ。

——七、八、九、十。

怜司は番号を足し直した。十人。倉庫内に十人。退路、二つとも塞がった。

「黒瀬」

無線が、また鳴った。室長の声、いつもより半音、低い。

「家族の写真、確認したぞ」

「……」

「娘、最近、髪を結ばないんだってな。お前に似て、不器用だ」

奥歯のエナメル質に、細いひびが入る音。鼓膜より先に、頭蓋骨で聞いた。耳の奥で、娘の小さな指が、何度も、何度も、ゴムを落としている映像が蘇る。朝の鏡の前、うまく結べなくて、泣きそうな顔を鏡の自分に見せないように、口を一文字に引き結んでいる、あの横顔。

「結べないんじゃない」

怜司は、低く返した。

「結んでやれる人間が、家にいなくなっただけだ」

「ほう」

「あんたが、消したんだろう」

雨音が、シャッターの隙間で、白く割れる。

胸の底で、三年間沈めていた小石が一個、浮いた。鎖骨の裏を、こつ、と叩いた。叩いた場所が、温い。三年で初めて、自分の体温が戻ってくる場所だった。

「降りてこい、黒瀬」

坂東の声。常夜灯の円から半歩、踏み出した。靴底のゴム、水を吸って重い。

「降りたら、娘の髪、結ばせてくれるんですか」

怜司は、コンテナの上から、声だけ落とした。

「結ばせてやってもいい」

坂東は笑った。「死体に、な」

四方から、笑い声が立った。

——笑っている。今夜は、本当に、笑っている。

三年間、この男たちの笑い方を、毎晩、解析してきた。形だけの笑い、緊張をほぐす笑い、序列を確かめる笑い。今夜のは、そのどれでもなかった。喉の奥が開いている。横隔膜が震えている。腹の底から、本当に、可笑しがっている。

獲物に対する、笑い方だった。

三年間、こいつらは、おれを「使えない仲間」として嗤っていた。今夜、初めて、「殺す相手」として嗤っている。嗤いの種類が変わった瞬間に、三年間磨いた仮面の意味が、消えた。仮面の下の顔が、外気に触れる。冷たい。だが、この冷たさは、知っている。娘を抱き上げた朝の、玄関先の冷気と、同じ温度だった。

「鮫島」

坂東が、視線も動かさず命じた。

「上、潰せ」

鮫島がマグナムを上げた。銃口が、怜司の伏せた背を、コンテナの鉄板越しに探る。

——〇.八秒。

《解析眼》が、初弾の軌道を描いた。鉄板を貫通する角度、三十二度。怜司の左肩甲骨を、〇.六センチ掠めて、貫く。

伏せている場合では、ない。

怜司は、転がった。

天板の縁を蹴り、コンテナと壁の隙間、四十センチの暗渠へ落ちる。落下中、左手の銃口を天井へ向ける。残った電球、二つ。一発、二発。火花が散り、倉庫東半分も闇に落ちた。

常夜灯だけが、生き残った。床に、黄色い円。直径、三メートル。

その円の中央に、坂東が、立っている。

坂東の足が、〇.二秒、止まった。

——円の外に、出られない。円の中にいれば、的になる。円の外に出れば、闇の中で、おれの番号になる。

怜司は、暗渠の奥で、息だけで笑った。仮面を被ったままの笑い方ではなかった。三年で初めて、頬の筋肉が、自分のために動いた。

「黒瀬」

無線。室長の声が、初めて、わずかに早口になる。

「無駄だ。応援はあと二台、向かっている」

「室長」

「なんだ」

「あんたの引き出しに、おれの報告書、何枚あった」

「……」

「三百二十六枚だ」

怜司は言った。

「一日に三枚、三年で三百二十六枚。おれが書いた。氷で冷やした指で、震えないふりをして、書いた」

雨音が、間に挟まる。

「全部、灰にしたか」

「まだ、引き出しの中だ」

「燃やせなかったのか」

「——燃やす理由が、なかったんだよ」

声に、初めて、抑揚が混ざった。

室長の声に、《解析眼》が、別の糸を編む。喉の奥、空気の濡れ具合。声帯の震え、〇.三ヘルツ、不規則。唇が乾いている音。舌が、上顎に張り付いて、離れる。離れる音の間隔が、いつもの会議室より、〇.四秒、速い。

——焦っている。

焦らせたのは、おれだ。

「鮫島、坂東、撃て。そいつをコンテナごと、潰せ」

室長の声が、初めて、命令の語尾になった。

鮫島の指が、引き金を、引いた。

その指の動きを、怜司は、見ていない。だが、見えている。

《解析眼》——全開。

世界が、コマ送りになる。

雨粒が、空中で、止まる。一粒一粒の輪郭が、針で刻んだように立ち上がる。常夜灯の黄色い光が、粒の側面を撫で、影を斜めに引き伸ばす。

鮫島のマグナムから、初弾が、出た。

弾頭の回転、毎分三千二百回。コンテナの鉄板に当たるまで、〇.〇四秒。貫通後、軌道は二.五度、下方へ偏向。着弾予定地点——怜司が「いた」場所から、〇.三メートル後方。

サブマシンガン二人、発砲開始まで〇.六秒。坂東のホルスター、二発目を抜くまで〇.九秒。シャッターから入った四人、扇形に展開。配置完了まで一.四秒。

時間は、ある。

怜司は、立ち上がった。

四十センチの暗渠の中で、両足の踵を壁に押し付け、背中で反対側の壁を押す。圧着。重力を、一瞬、無視する。コンクリートの粒が、背中のシャツ越しに、脊椎の一つ一つを数える。冷たい汗が、肩胛骨の谷を伝って、尾骨まで一気に落ちる。

死んだ薬指が、グリップの背に、貼り付いている。感触はない。だが、貼り付いているという事実だけが、引き金の指の安定を、〇.〇一秒、深くする。

三年。

三年間、この感覚を、押し殺してきた。

《解析眼》を使えば、紅蓮会の下っ端など、半年で全員、骨を折って吐かせられた。それをしなかったのは、室長の指示があったからだ。《細かすぎる》《裏は取れない》。あの言葉の一つ一つが、おれの瞳孔を、塞いでいた。

塞いでいたのは、紅蓮会ではない。室長だった。

塞ぎ続けていた手が、今、外れた。

外れた瞬間、瞳孔の奥で、三年分の景色が一度に開いた。鮫島が初めて怜司の頬を張った日の、唾の飛び方。坂東が部下を蹴り殺した夜の、靴底に付着した血の粘度。倉庫の鉄扉のヒンジ、左下のリベットが緩んでいる角度。事務所の金庫の、ダイヤルが回る時の、ラチェットの歯飛び。室長が報告書を受け取る時、右手の親指が、かすかに震えていた、あの理由。すべてが、いま、武器になる位置に並んでいる。

怜司は、暗渠の奥から、ゆっくりと、笑った。

「坂東さん」

声を、闇に投げた。

「土下座、もう一回、いいですか」

坂東の眉が、〇.一秒、動いた。

反射で、聞いてしまう。三年分の、卑屈な声。

その〇.一秒。

怜司は、暗渠から、跳んだ。

両足のバネ、壁の反発、肩甲骨の捻り。常夜灯の円の、外側へ着地。靴底が、コンクリートを噛む。膝が沈む。腰が回る。左手のグロックが、坂東の顎を、下から、捉えた。

時間は、まだ、コマ送りのままだった。

坂東の眼球が、〇.〇五秒、こちらを見た。

見たときには、もう、間に合わない。瞳孔の縁、毛細血管の一本一本まで、怜司には読めていた。そこに浮かんだのは、怒りでも恐怖でもない。理解だった。三年間「使えない男」として見下していた相手の、本当の顔が、今、自分の顎の下にある、という、遅すぎる理解。

怜司の引き金の指が、〇.三ミリ、沈んだ。

——一発目。

雨音は、まだ、戻ってこない。

《解析眼》の中で、世界は止まったままだった。鮫島の汗、坂東の喉仏、サブマシンガンの装填レバー、シャッターから入った四人の踵の角度。すべてが、番号を持って、怜司の前に並んでいる。

三年分の取り立てを、今夜、一晩で、終わらせる。

死んだ薬指の腹で、グリップの背を、もう一度、押した。感触は、ない。だが、確かに、押した。

——おれは、狩る。

無線の向こうで、室長が、初めて、息を呑んだ。

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