第2話
第2話
鉄板が甲高く悲鳴を上げる。
コンテナの影に背を張り付け、怜司は呼吸を二等分した。肺の上半分だけで吸う。下半分は残す。次の踏み込みに使う、酸素の備蓄。
銃声、三発、四発、五発。跳弾が脛を掠め、防水ジャケットの裾を裂いた。皮膚まではまだ届かない。
「黒瀬ェ、出てこいや!」
鮫島の怒鳴り声。二時方向、十二メートル、柱の陰。マグナム抜刀直後の、上ずった声帯。声の震えだけで、《解析眼》は鮫島の右手が汗を掻いていることを読み取った。引き金にかかった指が、〇.二秒ごとに微かに滑る。汗の粒が、グリップの鮫皮の溝に、もう二粒は落ちている。——こいつは、撃ちたくて撃っているのではない。撃たされている側だ。
硝煙。湿気。死んだ薬指の焦げた皮膚。雨。鼻腔が一度に洗われる。舌の根に、鉄の味。奥歯を噛みすぎた。
怜司は顎だけで角度を作り、半開きのコンテナ扉の隙間を覗いた。
油紙の長包。軍用規格の焼印。一梱一メートル、推定十四キロ。アサルトライフル——M4A1系、国内改修型。目視で、十二梱。
その奥。 革張りのアタッシュケース、三つ。留め具の意匠、警視庁官給品。
ケース側面、桜に三葉の押し型。機密指定の赤ラベル。日付は、三日前。
——生きている書類だ。
怜司は、奥歯を、一度だけ噛み合わせた。
喉の奥に、鉄の錆が湧く。三年前、初めてこの倉庫に足を踏み入れた日、同じ場所に、同じ押し型の書類を見た。あのときは、まだ「自分たちが追うべき証拠」だと思っていた。室長に報告した。詳細に、角度まで添えて。——返ってきたのは、「よく見た。もっと深く潜れ」という、たった二行の電文だった。
「黒瀬」
耳の奥で、室長の声が鳴る。
「見えたか」
抑揚はない。三年間指示を降ろし続けてきた、あの乾いた声のまま。
「お前が見ているのは、おれたちの商品だ」
おれたち。 その二文字が、鼓膜の内側で、ゆっくりと反転した。
反転して、そのまま底に沈んだ。沈んだ場所で、別の重さになって、もう一度、浮いてきた。——おれたち。おれ、たち。三年間、一度も自分を含めてもらえなかった人称が、今、最悪の形で自分を呑み込んでいる。
「警察官給の書類、軍用ライフル——流しているのは、警察側だ。紅蓮会はただの運び屋。商社の下請けだよ、黒瀬」
雨音。貨物船の汽笛、遠く。 怜司は、喉マイクを切った。声は、出さない。まだ。
坂東が怒鳴る。
「時間かけんな、ガキども! 撃て!」
連続三発。コンテナの鉄板が火花を散らす。鉄粉が、濡れた睫毛に張り付いた。鮫島の位置、半歩前進。サブマシンガン二人、装填動作中。残弾、合計四十発以上。
怜司は内ポケットから拳銃を抜いた。グロック19。装弾十五。三年前、潜入一日目に支給された、唯一の武器。
グリップの樹脂が、掌の汗を吸い上げる。その感触が、奇妙なほど懐かしい。三年、一度も実弾を込めていない銃。金属の冷たさが、指の腹を通って、肘まで這い上がってきた。
室長の声は、続く。
「お前の報告書、一度も上には上がっていない。全部、おれの引き出しの中だ」
「……」
「細かすぎて使えなかったんじゃない。細かすぎて、消さざるを得なかったんだよ」
氷水に浸した右手の記憶が、骨の芯で疼く。判子を押した乾いた音。娘の柱の横線。妻の背中。——すべて、一人の男の引き出しに、三年間、閉じ込められていた。
引き出しの中で、紙が積み上がる様を想像した。三年分の報告書。鮫島の癖、坂東の弱み、船着場の交代時刻、書類の焼印の摩耗度合い。一枚一枚、震える指で書いた。震えないふりをして、書いた。あの紙束が、鍵のかかった木の抽斗の奥で、黄ばみながら、静かに積もっている。——灰になる日を、じっと待っていた。
「お前を潜り込ませたのは、おれの上の人間だ」
室長は、笑っていた。
「現場の下っ端を、三年ごとに一人、消耗品で差し込む。仕事内容は観察じゃない。——釣り餌だ」
釣り餌。 舌の裏で、転がす。金属の味がした。
鉄ではなかった。もっと安い、錆びた亜鉛の味。鉤に刺された蚯蚓が、最後に覚える味は、きっとこれだ。
「紅蓮会側は、潜入者の存在を知っている。三年ごとに一人、見せしめで殺す。現場が引き締まって、商売の回転が上がる」
怜司はスライドを確認した。薬室に一発。弾倉に十四発。
「お前の妻子には、もう手を回してある」
心臓が、一度だけ、軋んだ。
軋んで、そのまま、止まろうとした。止めてはいけない、と別の筋肉が勝手に叩き起こす。肋骨の内側で、鉄の鍵束が揺れるような音がした。
「別居中だろうと戸籍は繋がっている。お前が死んだあとに消しても、世間には事故で通る」
「——室長」
怜司は初めて、口を開いた。声が、思っていたよりも、低かった。
「名前は」
「なに?」
「あんたの、本当の名前だ」
一拍。
室長は、笑いを声に混ぜた。
「お前が墓の下で思い出すのに、必要か」
「おれが、探すのに必要だ」
雨音が、倉庫の外で、厚みを増した。
——妻子。
その一語を境に、三年間磨いてきた仮面の内側で、鎖が一本、音もなく切れた。
切れた鎖の先端が、内側の肉をゆっくり擦っていく。痛みはなかった。三年間、痛まないように、神経そのものを氷漬けにしてきた。その氷の下で、何かが、今、ようやく体温を取り戻そうとしている。
指の震えを隠すために、氷水に右手を浸した日。判子の乾いた音。娘の「行ってきます」。妻の、潰した笑み。——すべてを守るために、おれは殺してきた。自分の感情を、三年。
そのすべてを、同じ男が、最初から引き出しに仕舞っていた。 そして今、同じ男が、家族にまで手を伸ばしている。
死んだ薬指を、グリップの背に添えた。
感触はない。だが、添えているという事実だけが、引き金を引く筋肉に、〇.〇一秒の安定を加える。
《解析眼》が、倉庫を編み直す。
六人の射線、光の糸。坂東の利き足、右。体重移動、右後方三〇度。鮫島、柱から左肩が〇.三センチ露出。サブマシンガン二人、装填完了まで一.二秒。フォークリフトの若い男——まだ銃を抜いていない。彼だけは、この計画を知らされていない。
肩の震え方が、素人のそれだった。二十歳そこそこ。手首の内側に、真新しい刺青の赤み。仕事を覚えるために入った末端の運び手。——釣り餌の隣に置かれた、もう一つの使い捨て。
シャッターの外、雨の向こう。 新しい音が混ざる。エンジン、アイドリング。ヘッドライトは消している。ドア開閉、二つ。足音、四つ。
——七人目以降は、外から来る。
怜司は、拳銃を左手に持ち替えた。右手は、コンテナの扉に掛ける。
「坂東さん」
声を張る。使えない男の、卑屈な声のまま。
「……すんません、一発だけ、土下座させてください」
倉庫の空気が、〇.三秒、ほどけた。
三年間、鮫島も坂東も、この男のこういう声を、何百回と聞いている。耳が反射で、それを聞き取ってしまう。
その〇.三秒を、怜司は使い切った。
右手で、コンテナの扉を全開に押し開ける。鉄の塊が、六人の視線を一斉に遮った。同時に、左手で天井の電球を撃った。一発。電球が弾け、破片が降る。倉庫西側、半分、闇に落ちる。
「明かり——!」
鮫島の声が、裏返った。
闇の中で、《解析眼》だけが光の糸を編む。
六人の呼吸音、六つ。靴底の向き、六つ。坂東の右足の重心、後退。銃口は、怜司が「さっきまでいた」コンテナの影を指している。
怜司は、もう、コンテナの上にいた。
鉄の波板から、水滴が首筋に落ちる。その冷たさだけを意識の奥に押し込め、上から六人の頭頂部を、番号で縛った。
一、坂東。二、鮫島。三、サブマシンガン左。四、サブマシンガン右。五、フォークリフトの若い男。六、見張りの片割れ。
五は、殺さない。番号から、五を抜いた。
番号を抜くと、抜いた場所に、小さな空洞ができる。その空洞に、三年前の自分が、一瞬だけ、立った。潜入一日目、手首に安物の腕時計を巻いて、倉庫の鉄扉を叩いた日の自分。——おれも、あの男と同じ空洞の場所にいた。誰かが、番号から外してくれていれば、違った道があった。
無線に、室長の声が最後の糸を引いた。
「黒瀬。どこまで逃げる気だ」
怜司は、初めて、喉マイクを入れ直した。 息は、静かに、整っていた。 三年ぶりに、自分の声で、言葉を発する。
「——逃げない」
雨音が、一瞬だけ、途切れた気がした。
「おれが、狩る」
シャッターの向こうで、車のドアが、同時に、開いた。