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解析眼の潜入捜査官

第1話 第1話

第1話

第1話

雨粒が防水ジャケットの肩を叩いていた。

第四埠頭三号倉庫。午前二時十七分。コンクリートに跳ねた雨が脛を濡らしている。屋根の波板が軋み、鉄錆と機械油の匂いが湿気と絡んで鼻の奥に居座っていた。遠くで貨物船の汽笛が、濡れた空気の中でくぐもって伸びる。海の塩気と、倉庫内に染み付いたディーゼルの残り香。そのすべてが、怜司の三年分の呼吸と同じ匂いをしていた。

黒瀬怜司は、積まれた木箱の縁に腰を預け、煙草の火で指先を炙った。右手の薬指。三年前、潜入初日に鉄扉へ挟んでわざと潰した指だ。神経は死んでいる。炙っても、熱くない。皮膚の焦げる匂いだけが、微かに鼻腔を掠めた。指先が黒ずむのを、怜司は眇めた目で眺めていた。痛みを感じない指というのは、便利でもあり、呪いでもある。使えない男を演じるには、ちょうどいい。

「おい黒瀬、また爪噛んでんのかよ」

嘲笑が飛んできた。鮫島。紅蓮会の下っ端で、三年間ずっと怜司より二つ上の序列にいる男だ。

「悪いな」

笑って返す。抑揚を殺した、使えない男の笑い方。三年かけて磨いた表情筋。頬の内側がわずかに強張るのを、鮫島は気づけない。舌で奥歯を一度撫で、喉の奥で息を浅く整える。声が震えないことだけを、怜司は自分に課していた。

右手の人差し指は、すでに内ポケットに差した拳銃の安全装置に触れている。触れているだけだ。まだ、外していない。指の腹に伝わる金属の冷たさが、体温とほとんど同化しかけている。外気と同じ温度になった武器は、もう自分の一部だった。

雨脚が強くなった。シャッターの隙間から風が吹き込み、剥き出しの電球が揺れる。影が揺れる。怜司の視界の端で、鮫島の喉仏が一度、上下した。

——緊張している。こいつは、今夜の積荷を、知っている。

《解析眼》。そう怜司が名付けた、生まれ持った何か。対象の挙動・呼吸・視線のわずかな揺れから、次の一手を〇.二秒先読みできる感覚。その感覚が、今夜ずっと、背中を撫で続けていた。冷たい指で、首筋から肩甲骨の谷までを、ゆっくりと辿るように。

「積荷、予定より半分重いらしいぜ」

木箱の反対側から、別の男が声を投げた。坂東。紅蓮会四課の班長。刈り上げた後頭部に、古い銃創の跡が二つ。

「……重い?」

怜司は首を傾げた。使えない男の首の傾げ方。「薬って、そんなに重量、変わるもんすか」

坂東は笑わなかった。口角は動かず、眼球だけが、怜司の喉元の一点に据えられている。

「お前は頭使うな、黒瀬。頭使うと、死ぬぞ」

作業員たちの笑いが起こる。六人。フォークリフト一台。クレーン一基。シャッター前で雨に打たれている二人は見張り。怜司を入れて、倉庫内に九人。

九人の配置を、視界の端で一度、すべて捉え直す。壁際、柱の陰、コンテナの角。退路は三つ。そのうち二つは、すでに塞がれている。

坂東の右手は、腰のホルスターに近い。鮫島の左足は半歩、後ろに引いている。フォークリフトを動かしている若い男——名前は知らない——彼だけは作業に集中して、怜司から視線を切っている。

——逆に言えば、八人の視線が、おれに刺さっている。

三年。 三年だ。 妻の声を、最後に聞いたのはいつだったか。娘の背丈を、最後に測ったのはいつだったか。鉛筆で柱に引いた横線が、今でも目に焼き付いている。あの線は、もう、消されているかもしれない。

別居届に判子を押した日、指の震えを見られないよう、事前に氷水へ右手を浸けた。愛情が冷めたと演じるために。潜入を守るために。冷やした指先は今も、雨の夜になると疼く。骨の芯に、あの日の水温が閉じ込められている。

報告書は、握り潰され続けた。連絡役の室長は、いつも同じ一言しか返さなかった。《お前の観察は細かすぎる》《裏は取れない》《次の機会を待て》。昇進試験は、同期に二度抜かれた。同期は今、本庁の組対で内勤デスクに座っている。暖房の効いた部屋で、コーヒーを啜りながら、書類に判を押しているのだろう。

怜司は、港湾倉庫で煙草の火に死んだ指を炙っている。

それでも、今夜まで耐えた。 なぜか——《解析眼》が、ずっと告げていたからだ。紅蓮会の奥には、もう一段深い何かがある、と。 その何かを、今夜、掴めるかもしれない。

「黒瀬。こっち来い」

坂東の声が、低くなる。低さの意味を、《解析眼》が先に読む。 ——呼ばれている。離される。他の男たちから、切り離される位置へ。

怜司は煙草を踏み消し、歩を進めた。足音を使えない男のリズムに保ったまま。歩幅は短く、足首をわずかに内側に。背中を撫で続けていた感覚が、鎖骨の下まで這い上がってきている。心臓の鼓動が、耳の奥で、雨音よりも大きく響いていた。

コンテナの前まで来た。

ISO規格の二十フィート。海上輸送用。封印シールは二重。一重目は税関、二重目は紅蓮会独自の封蝋。 封蝋は、まだ切られていない。蝋の赤は、電球の光の下で、凝った血のように見えた。

「今夜の荷下ろし、立会いはお前だ」

坂東が言った。

「……おれが?」

「抜擢だ。よかったな、使えない黒瀬」

ざわり、と空気が動く。笑いの気配。だが、誰も実際には笑っていない。六人全員の視線が、一度も怜司から外れていない。

——罠だ。

《解析眼》が、はっきりと告げた。

怜司は首の後ろを掻いた。使えない男が困ったときの仕草。三年間で百回以上繰り返してきた動作。その動作に、今だけ、意味を一つ追加した。

——首の後ろから、襟の内側へ。襟の内側には、小型のGPS発信機が縫い込んである。三年ぶりに、スイッチを入れた。指先に、針の頭ほどの突起。押し込む感触は、想像していたよりも、ずっと軽かった。

発信機は一度だけパルスを打ち、焼き切れる。使い捨て。たった一度だけ、連絡役の室長に、緊急信号が飛ぶ。

「まじすか、ありがたいっす」

使えない男の、卑屈な笑い。

耳の奥に差したイヤホンが、受信専用の糸で、室長と繋がっている。三年間、指示が降りてくる一方通行の糸。 五秒後、その糸が、震えた。

「——黒瀬」

室長の声。 いつもの、抑揚のない、冷たい声。

「受信信号、確認した」

安堵が胸に滲む。三年間の鎖が、今、緩む音がする。ほんの一瞬、雨の匂いが、懐かしい台所の味噌汁の湯気に、すり替わった気がした。

「報告しろ」

怜司は口を動かさず、喉マイクに微かな振動を伝えた。

「積荷、重量異常。麻薬のみでない可能性。緊急確保を要請」

一拍。 二拍。 三拍。

雨の音が、やけに、遠い。

「黒瀬」

室長の声は、変わらなかった。 同じ抑揚、同じ温度、同じ冷たさ。 だが、続く言葉だけが、三年間の糸を一息に、切った。

「お前はここで死ぬ」

雨の音が、戻ってきた。

コンテナの前で、坂東の右手がホルスターを掠めた。鮫島の左足が半歩、前へ出た。フォークリフトの若い男だけが、やはり視線を切っていた。彼だけは、この計画を、知らされていない。

怜司の瞳孔が、開いた。

《解析眼》——発動。

六人の射線が、光の糸となって宙に引かれる。坂東のホルスターから拳銃が抜かれる軌道、〇.八秒後。鮫島の腰のマグナム、一.一秒後。背後の二人、サブマシンガン、一.三秒後。シャッター前の見張り二人が振り返る時間、二秒。

先に動くのは、坂東。 利き足は右。体重は、すでに右足へ移っている。初弾は、怜司の心臓。

耳の奥で、三年間、殺してきた音が軋む。妻の笑い声。娘の寝息。判子を押す、乾いた音。すべてが一度に、眼球の裏で瞬いた。

——ああ。 ようやくだ。 三年ぶりに、この仮面を、外せる。

怜司の右手は、もう内ポケットにはない。親指が、安全装置を弾いていた。

坂東の右肩が、〇.一秒だけ、持ち上がった。

その〇.一秒を、怜司はすでに、使い切っていた。

踏み込み。一歩。コンテナの影へ体を滑り込ませる。銃声。コンテナの鉄板が、甲高い音で怜司の残像を撃ち抜く。鉄粉と火花が、雨の粒子と混ざって舞った。硝煙の匂いが、湿った空気を裂いて鼻の奥に突き刺さる。

封蝋が、銃弾で裂けていた。 コンテナの扉が、鉄の重みでゆっくりと、開いていく。

怜司の視界の端に、中身が映り込む。 麻薬の袋ではない。 油紙で包まれた、長い箱。軍用規格の刻印。そして——警視庁の紋章が押された、機密指定の書類の束。

無線が、もう一度、鳴った。

「黒瀬。三年間、ご苦労だったな」

室長の声は、今度は、薄く、笑っていた。

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