第3話
第3話
ドアノブが時計回りに止まった。 次の瞬間、扉の木目が内側に膨らんだ。
銃声は、ほぼなかった。サプレッサー。低く湿った破裂音が連続する。扉の木目が弾け、鍵の金具が飛び、木屑が空気に散る。木屑の匂いが、火薬の匂いと混ざって鼻の奥を刺した。埃っぽい、焦げた甘さ。四年前、最後に嗅いだのと同じ匂いだった。
俺は床を蹴った。 「伏せろ」
蓮華の肩を掴み、絨毯の上に押し倒す。彼女の体が思ったより軽い。髪が俺の頬に触れ、花の匂いが鼻に刺さる。シャンプーか香水か、判別する余裕はなかった。バスローブの膝から下が露わになるが、今夜は誰もそんなことを気にしない。絨毯の毛足が、押し倒した反動で彼女の頬を擦った。赤い筋が、一瞬、白い肌に浮いて消える。
弾丸が頭上をかすめた。二発、三発。シャンデリアが揺れ、天井の配線が切れる。装飾ガラスが粉になって落ちてきた。光の粉が闇に舞い、絨毯に銀の点を残す。残した点の一つが、蓮華の黒髪に引っかかって、星のように光った。
「頭、下げて」 「う、うん」 「ソファの影まで、這ってください。俺の合図で」
蓮華が頷く。震えていない。震える代わりに、唇を噛んでいる。その唇を一瞬だけ見て、視線を扉に戻した。噛まれた唇の端に、薄く血が滲んでいた。痛みを、恐怖に換算しないための噛み方だった。
扉は、まだ持っている。長くはもたない。鍵が吹き飛んだ扉を、あと数発で蹴破られる。その前に、こちらから潰す。
ホルスターの拳銃を、一度下ろした。 代わりに、扉左の死角、壁紙を剥がした。その下に、予備の拳銃を貼りつけてあった。ホテル到着直後に仕込んだ、俺だけの保険。テープで止めた九ミリ、装弾数六。グリップの樹脂が掌に吸いつく。冷たさが、四年分の錆を指の腹から削り落としていく感覚があった。
弾倉を確認する暇はない。 だが、足りる。
扉の外、四人。先頭二人、後衛二人。先頭から潰す。靴音の重さ、呼吸のリズム、無線の漏れ。扉越しに拾える情報だけで、人数と陣形は描ける。四年、忘れていたはずの能力が、勝手に立ち上がっていた。
「お嬢、耳」 「え?」 「塞いで。口、開けて」
彼女が反射的に両手を耳に当てた。躾がいい。俺は息を吸って、吐いた。肺の底に残っていた煙草の残滓が、一緒に外に出ていった気がした。
扉が、蹴破られた。
先頭の男が踏み込んでくる。黒のバラクラバ、戦術ベスト、サイドアーム。視線がまず室内の中央、次にソファ、次に壁際——訓練された掃討動作。だが、その視線の順番を、俺は知っている。
扉の左横、壁紙の死角から、銃口を上げた。
撃った。 一発。
先頭の男の右肩。鎖骨のすぐ下、三角筋の上縁。関節を外すための角度。男が呻いて銃を取り落とした。落ちる拳銃を、視界の端で追う。金属が絨毯に沈む、くぐもった音。
二発目。
先頭の二人目、膝の皿の外側。脛骨と膝蓋骨の繋ぎ目。撃たれた男が崩れる。痛みの悲鳴ではない。筋肉が役目を忘れた、ただの脱力の声。男の体重が、足元のワイヤーのように仲間を絡める。
後衛二人が、一瞬、遅れた。 その一瞬が、欲しかった。
俺は走った。扉の内側、壁際に沿って。倒れた先頭の男の拳銃を左手で拾い上げる。サプレッサー付きのH&K。スライドの位置だけ指で確認した。トリガーガードの内側に、まだ相手の指の温度が残っていた。
「お嬢、合図」
蓮華が這った。這うフォームが悪くない。肘と膝、交互に、頭を下げて。教えられた動きだ。過去のどこかで、彼女は這うことを、教えられている。どこの誰に、何歳のときに——その疑問は、頭の後ろに畳んだ。
ソファの影に、彼女の背中が消えた。
後衛の一人が、倒れた仲間を引き戻そうと屈んだ瞬間、三発目を撃った。 奪った拳銃のほうで。 肩。今度は左。
男が仲間ごと崩れる。もう一人の後衛が、扉の外側に飛び退いた。廊下へ。退避。戦術的には正しい。だが、退避した先で、こちらは位置を特定される。
廊下で、無線の声が上がった。 「——三四〇二、先行班交戦、負傷二、応援要請——」
声の高さを記憶した。男、三十代、訓練された声帯の使い方。日本人。民間軍事会社の契約兵でよく聞く声色。あの会社か、別の会社か。後で考える。今は、次の一手。
ソファの影に滑り込んだ。 蓮華が、息を詰めて俺を見上げていた。瞳孔が開いている。怯えではなく、集中で開いている目だった。
「撃った?」 「殺してません。肩と膝」 「どうして」 「殺すと、こちらが犯罪者になる」
自分の声が、思ったより静かだった。四年ぶりの引き金。指先が、まだ覚えていた。筋肉の記憶は、忘却より深いところに沈んでいる。その事実を、心のどこかで、静かに恐れた。
殺せば、向こうの筋書きが完成する。「誘拐犯の護衛が警察官を殺害」——速報のテロップは、もう用意されている。だから、撃たない。殺さない。撃ち抜いた関節は、一生戻らない。それでいい。向こうも、同じ覚悟で来ている。
壁のテレビが、切り替わった。
画面上段、赤地に白の帯。 『緊急ニュース』
目を一瞬、画面に向けた。 二時二十分。
『白石財閥長女・蓮華さん(19)、都内ホテルで誘拐——』
音は消してある。テロップだけが、下段を流れていく。文字の流れる速度が、やけにゆっくりに見えた。
『——容疑者は、専属護衛の九条迅容疑者(32)——』
俺の顔写真が、画面の中央に出た。
証明写真の、硬い表情。どこで撮られたか、すぐに思い出した。白石家の契約を結んだ日、屋敷で撮られた身分証用の写真だ。その写真が、全国のテレビ画面に、誘拐犯の顔として表示されていた。照明の下で、少しだけ左に寄った襟。撮影の瞬間、隣で立ち会っていたのは、白石家の執事だった。その執事の顔を、今、思い出した。
血が、背中のほうから冷えていく感覚があった。 怒りではない。悲しみでもない。 ただ、壊された、という感覚。
自分の顔を、誰かが使った。俺の許可なく、俺の顔を、誘拐犯の顔として、全国に流した。この瞬間、俺の名前を知る全員の記憶の中で、九条迅は誘拐犯に書き換えられていく。母の記憶の中でも。妹の記憶の中でも。
蓮華が、画面を見た。 それから、俺を見た。 もう一度、画面を見た。
「迅」 「見ないでください」 「あなた、誘拐犯になったのね」 「はい」 「ごめんなさい」
そう囁いた。 囁いた声が、十九歳の声に戻っていた。
俺は画面から目を逸らし、扉のほうに銃口を向け直した。廊下は、一瞬、静かだった。負傷二人を引き、後衛一人が後退した後の、戦術的な間。すぐに、次の波が来る。応援要請を受けた、もっと重装備の班。
時計、二時二十一分。
テロップが、まだ流れている。 『——特殊班が現場へ急行中——』
正規の警察が、ここに来る。俺を撃つために。 本物の警察官を撃つわけにはいかない。撃てば、それは本物の罪になる。だが、逃げなければ、撃たれる。
ここに留まる選択肢は、消えた。
「お嬢、立てますか」 「立てる」 「走れますか」 「裸足でも」 「じゃあ走ってもらいます」
蓮華がソファの影から顔を出した。顔色が白い。目の光は、死んでいない。その目を確認して、マガジンを素早く入れ替えた。奪った敵の拳銃、これがメイン武器になる。サプレッサー付きは、今夜の音量制御に向いている。
蓮華が俺のバスローブの袖を掴んだ。 「迅」 「はい」 「窓から落ちろって、言われたんでしょ」
俺の手が、止まった。
彼女は、メッセージを見ていない。見ていないのに、知っていた。
「どうして、わかるんですか」 「あたしも、同じ文面を、昔、読まされたことがあるから」
蓮華の目が、画面の俺の顔を、もう一度見た。その瞳の奥に、俺の知らない季節の光が、一瞬だけ通り過ぎた。いつか、どこかで、この少女は、同じ文面を受け取って、同じ窓の前に立たされている。
俺は、返事をしなかった。 返事をする代わりに、蓮華の手首を掴んだ。細い手首だった。脈が、指の腹を叩いていた。速いが、乱れていない。この女は、逃げるための心臓の使い方を、知っている。
扉の外、無線の声が重なる。二人、三人。応援班が、到着している。
テレビの画面には、まだ俺の顔が消えない。 その下に、白石博嗣のコメントが、文字だけで流れていた。
『——娘の無事を、心より祈っております——白石博嗣——』
父親の声で、父親の顔で、その嘘が、全国に流された。
蓮華が、画面を見ずに、呟いた。 「父が言う『無事』は、息が止まっている状態のことよ」
俺は拳銃を構え直した。 非常階段まで、三十歩。
今夜の仕事は、護衛から、逃亡に変わる。