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護衛は嵌められた

第2話 第2話

第2話

第2話

ドアノブに触れた指が、止まった。 廊下側の誰かが、鍵の位置を探っている。ピッキング工具の先端が金属に触れる、ほんの一瞬の摩擦音。訓練を受けた人間の手つきだ。焦っていない。だが、急いでもいる。仲間の到着を待たずに、仕事を始めようとしている。指の腹がドアノブの冷たさを覚えている。エアコンの低い唸り、冷蔵庫のコンプレッサー、空調のダクトを渡る空気のかすかな鳴り——室内のあらゆる雑音の層の下に、あの摩擦音だけが別の周波数で貼りついている。こちらが聞き耳を立てた瞬間、向こうもまた息を潜めたのがわかった。呼吸のリズムが、扉を一枚隔ててこちらと同期しかけていた。

俺は音を立てずに扉から三歩下がった。拳銃のグリップが掌に吸いつく。掌の汗がグリップチェッカーの溝に吸われていく。安全装置に指が触れた感触で、自分の指先がまだ正常に動くことを確かめた。銃口を下げたまま、扉と壁の角度を測り直す。弾道が貫通する壁の厚さ、跳弾の反射方向、蓮華が座り込んでいる位置と扉の直線距離——全部、半秒で計算し直した。

蓮華は壁際に座り込んでいる。膝を抱えていない。抱えたいのを我慢している姿勢だ。目は俺の手元の銃ではなく、俺の顔を見ていた。指示を待っている目。俺は小さく頷いた。そこにいろ、という合図。彼女も小さく頷き返した。その頷き方が、訓練された護衛対象のそれに近かった。十九歳の令嬢は、こういう夜を、過去にも経験している。そう悟らせる動きだった。

その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。 一度。短い振動。メッセージの着信。

画面を点けるなと自分の頭が先に叫んだ。闇の中で光は最大の標的になる。だが、このタイミングで届いたメッセージの正体を、知らないまま扉を開けることもできなかった。廊下の工具の音が、一瞬だけ止まっている。向こうも、こちらの振動音を聞き取ったのかもしれない。

俺はスマートフォンをバスローブの裾で覆い、隙間から画面を覗いた。生地の繊維越しに、液晶の白がにじんで漏れた。 発信元、非通知。 本文、六行。

> 九条迅。三十四階、スイート三四〇二。白石蓮華誘拐容疑。テレビ速報、午前二時二十分。 > 警視庁特殊班、地下より上昇中。民間私設部隊、非常階段上下より突入中。 > 依頼主、白石博嗣氏より通報済。 > 通報の録音データ、編集済み。 > あなたの顔写真、配信済み。 > 生存確率を上げたければ、令嬢を置いて窓から落ちろ。

読み終えた瞬間、指先の感覚が遠のいた。

##

心臓が一拍、大きく鳴った。胸骨の裏側で鈍い太鼓の音が響いて、そのあと、やけに静かになった。耳鳴りに似た音が、後頭部から前頭葉に向かって抜けていく。こういう時、人は恐怖を感じる前に、まず時間の流れ方が変わったことに気づく。秒針の刻みが、ひとつひとつ分解されて聞こえる。

落ち着け、と舌の裏で唱える。ここで動揺すれば、向こうの思う壺だ。まず、この文面のどこが嘘で、どこが本当かを切り分ける。六行しかないメッセージに、これだけの情報を詰めたのは、こちらに考える時間を与えるためだ。考えた末に、向こうの望む方向へ動くように設計されている。つまり、この文章そのものが、すでに罠の形をしている。

誘拐容疑——これは本当だろう。こちらを社会的に殺す準備として、一番手早い汚名だ。若い女を連れた男を、世間は三秒で裁く。背景も、経歴も、誰も読まない。 速報の予告時刻、午前二時二十分——あと四分。画面の左上、時計は二時十六分。秒表示が、思い出したように「48」から「49」に進んだ。 警視庁特殊班、地下より上昇——これも恐らく事実だ。エレベーターを一基ずつ止めたのは、司法手続きを踏む側の人間じゃない。だが「上昇中」と書いたということは、公的な部隊を、誰かが誘導で投入させている。正規の警察が、誰かの描いたシナリオの小道具として動かされている。 民間私設部隊——三十四階の廊下にいる連中。こちらが先に片付けなければならないのは、こいつらだ。装備の重さが扉越しに伝わる。防弾ベストの厚み、サイドアームの位置、戦術ライトのバッテリーの重心——全部、足音と呼吸の深さから割り出せる。

そして、依頼主・白石博嗣。 令嬢の父親が、俺の名義で通報している。 録音データは編集済み。 つまり、俺が誘拐を認めた音声が、既に編集されて警察に渡っている。俺の声帯の癖を、どこかで採取されていた。この半年、白石家の屋敷でかわした会話のどこかに、集音装置があった。

最後の一文を、もう一度読む。 令嬢を置いて窓から落ちろ。

差出人は、俺を殺したい側ではない。殺す前に、使いたい側だ。窓から落ちれば、誘拐犯の自殺として事件は閉じる。令嬢は「救出」される。そして、何かが蓋をされる。何かを蓋するために、今夜、俺は選ばれた。半年前、白石家の護衛の席に座った瞬間から、俺はこの窓ガラスの厚みと、三十四階の高さと、落下までの秒数を、他人に計算されていた。

四年ぶりの標的が、自分自身だった。

画面を消し、スマートフォンをベルトの内側に挟んだ。金属のバックルが腰骨に当たって、ひんやりと鳴った。 蓮華のほうを見る。 彼女は、動いていなかった。だが、俺の表情を読んでいた。闇の中で、睫毛の影だけが微かに揺れていた。

「迅」 「声、小さく」 「父が、何か」 「今は言わない。後で話します」 「……うん」

「うん」と頷いた彼女の声が、十九歳の声じゃなかった。 もっと、昔から諦めに慣れた人間の声だった。 俺はその声に、短く返事をしなかった。返事をする代わりに、壁のテレビのリモコンに手を伸ばした。リモコンのプラスチックが、指先に安っぽく乾いていた。電源ボタンの窪みを、指の腹が迷わず探り当てる。

音量ゼロ。 画面の明かりは、カーテンの裏の死角に向ける。 夜間の緊急速報チャンネルに合わせる。

テロップが流れていた。まだ本チャンの速報ではない。速報の準備を告げる、下段の細いテロップ。 『二時二十分より、臨時ニュースをお伝えします』 天気の枠も、CMの枠も、差し替えられている。テレビ局側で、既に枠が空けられている、ということだ。編成局の当直が、今夜のために配置換えされている。誰かが、番組表という大きな船の舵を、三分後に切るために握っている。

##

俺は舌打ちを飲み込んだ。喉の奥で潰れた音が、胃のほうへ落ちていった。

誰かが、今夜のために、何週間もかけて準備をしていた。いや、もっとかもしれない。俺が白石家の令嬢に付いた半年前から、既に設計図は引かれていた。俺という駒を、今夜この部屋で、こう動かすために。雇用契約書のサインの瞬間、俺はすでに、このカーペットの上で死ぬように設計された人形だった。

廊下の気配が、二人増えた。 三人。いや、四人。スイートの扉の前に、四人。 片方の足音が、扉から離れた。隣のセカンドベッドルーム側の扉、そちらに回った。二方向から、同時に押し込む算段だ。ベッドルーム側の扉の鍵は、内側からチェーンがかかっている。だが、チェーンは儀式的な防具でしかない。プロの四人には、三秒の遅れしか意味しない。

時計、二時十七分。 速報まで、三分。

三分後、このスイートの扉は、警察の突入名義で割られる。その前に、民間の部隊が先に入り、「抵抗した護衛が令嬢を撃った」という現場を作り上げる。速報が出た瞬間、死体の数と身元が、全国に配信される。俺は死んでいて、蓮華も死んでいる。そういう夜として、この夜は保存される。テレビの前の誰かが、チャンネルを回す手を止める。スマホのタイムラインが、三十分だけ俺の名前で埋まる。翌朝には別の事件が上書きする。そして、白石博嗣の手の中で、何かがひとつ、静かに蓋をされる。

俺は膝を折り、蓮華の耳元に顔を寄せた。彼女の髪から、細い花の香りがした。昨日、俺が運転する車の後部座席で、同じ匂いを嗅いだ。あの時はただの香料だった。今は、守らなければならないものの輪郭だった。 「お嬢。ひとつだけ、本当のことを教えてください」 「なに」 「お父様が、あなたに何を見られたくないか、心当たりはありますか」

蓮華の呼吸が、止まった。 闇の中でも、喉の動きでわかった。彼女の肩が、ほんの一度だけ、内側に縮んだ。それから、ゆっくりと元の位置に戻った。誰かに「見てはいけないもの」を渡された子供が、十年かけてその重さに慣れていった、そういう戻し方だった。

「……ある」 「それ、今夜使います」 「使うって」 「生き延びるために」

蓮華は、一度、強く目を閉じた。睫毛の先が、頬に影を落とした。 それから、開いた。瞳の奥に、さっきまでなかった硬い光が灯っていた。

「わかった」

短い返事だった。泣かなかった。震えもしなかった。覚悟というより、ずっと前から肚を決めていた人間の、答え合わせの声だった。この夜が来ることを、彼女はどこかで知っていた。知っていて、知らないふりをして、十九年を生きてきた。その答え合わせが、今、俺の耳元で行われた。

俺は立ち上がり、扉のほうに銃口を向け直した。膝の関節が、小さく鳴った。 ドアノブが、静かに、回り始めた。 金属が、ゆっくりと、時計回りに——

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