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護衛は嵌められた

第1話 第1話

第1話

第1話

深夜二時十四分、三十四階。 空調の音が、止まった。

俺はグラスに口をつけず、耳だけを研ぎ澄ました。

ソファの向かい、白石蓮華がバスローブの裾を組み替えながらグラスを揺らす。氷が鳴る。窓の外、東京湾の光がガラスに滲んでいる。

「迅、また難しい顔してるわ」 「癖です」 「護衛の癖?」 「兵隊の癖です」

蓮華が小さく笑い、窓に向き直る。笑い声の尾に、ほんのわずかに湿度がある。退屈した令嬢の声ではなかった。どこか、何かを察して先回りで笑ってみせた、そういう声の色だった。俺は立ったまま、部屋の中央でゆっくりと呼吸を整えた。

空調の停止は設備管理の定時切替。それはわかっている。問題は、切替から三十秒経っても再稼働の気配がないことだ。

時計を見る。二時十五分。 部屋の温度は、まだ動いていない。 だが、空気の流れが死んでいる。

耳を澄ます。

最上階の静寂。廊下のエアコン室外機。エレベーターホールの微弱な駆動音——それが、消えている。

消えている、というより、消されている、という質感だった。止まった機械は、普通、余韻を残す。モーターのうなりが減衰し、ダクトの金属が熱を逃がす小さな軋みが続く。今夜は、その残響が、ない。誰かが一斉に、呼吸を止めさせたような静けさだった。

俺は眉をわずかに寄せた。三十四階下、ロビー階。そこから伝わってくる微かな震動が、さっきから変わっている。靴底が大理石を叩く音。複数。歩幅が揃いすぎている。

酔客の歩幅ではない。従業員の動線でもない。訓練された人間の、腰から下ろした足運び。それを、俺は自分の脚で何百回も踏んだことがある。だから、わかる。

「お嬢」 「なに」 「窓から離れてください」

蓮華が振り返った。眉をひそめ、けれど俺の目を見て何かを察したのか、黙ってソファの奥へ下がる。教育は悪くない。令嬢として甘やかされて育ったにしては、本能が鋭い。

腰のホルスターに触れる。支給された護身用の拳銃。装弾数七、予備二マガジン。 窓際に寄らず、壁伝いに位置を取る。スイートの間取りは入った瞬間に頭に叩き込んである。エレベーターホールまで二十歩。非常階段まで三十歩。バスルームの窓は開かない。バルコニーはない。

三十四階は高い。逃げ場は少ない。

頭の中で、脱出経路に優先順位をつけ直す。最上階付近の三十四階は、上からの圧力にも下からの圧力にも弱い。屋上機械室までは四フロア。そこまで蓮華を運べるか。運ぶとして、ドレスガウン一枚の女を、鉄の階段で。考えながら、考えすぎるな、とも思う。判断は速ければ速いほどいい。

照明パネルまで歩き、間接照明だけを残して主照明を落とした。

「明かりは消すの?」 「外から見えないほうがいい」 「敵がいるの?」 「わかりません。念のため」

念のため、という嘘を、蓮華は信じていない顔をしていた。

護衛歴四年、前職は特殊作戦群。退役の経緯は本人にも話していない。俺は白石財閥の令嬢警護に付いて半年。飲み会、買い物、パーティー、ホテル。面倒事はあったが、銃を抜くほどのものは一度もなかった。

だから、今夜ここで銃口を上げる想像を、心のどこかでずっと遠ざけていた。護衛という仕事は、結局のところ、引き金を引かずに終わらせることに価値がある。引いた瞬間、何かが決定的に壊れる。俺はその感覚を、かつて一度だけ知っている。

今夜も、表向きは普通の夜だ。 白石家のVIP宿泊。セキュリティは万全。ホテル側の警備と、財閥側の警備と、俺が重ねて配置されている。 だからこそ、違和感があった。 ホテル側の警備、財閥側の警備——その両方の無線が、さっきから一度も鳴っていない。

沈黙は、ときに一番の警報だ。生きている人間は、必ずノイズを出す。咳払い、椅子を引く音、無意味な交信確認。それが全て途絶えているということは、発信源が死んでいるか、黙らされているか、最初から偽の配置だったか、そのいずれかだった。

耳の奥のイヤホンに触れ、ホテル管制室を呼んだ。 応答なし。 財閥側の指揮車両を呼んだ。 応答なし。

指先が冷たくなる。 冷静に、と自分に言い聞かせる。 回線障害の可能性。システム更新の可能性。機器不良の可能性。 だが俺の耳は、三十四階下のロビーで、エレベーターの停止音が連続して鳴ったのを、確かに聞いた。

カーテンの隙間から一階の車寄せを覗いた。 いつも停まっているはずのホテル公式タクシーが、一台もいない。 代わりに、ヘッドライトを切った黒いバンが二台、サイドブレーキの音もなく正面ゲートを抜けていく。

その入り方に、一切の躊躇がなかった。ゲートの警備員は、止めなかったのではなく、止めるべき人間ではなかったのだ、と俺は理解した。

心臓が、鈍く脈打った。

「お嬢」 「……」 「椅子から降りて、ベッドルーム側の壁に背中をつけて座ってください」 「迅」 「お願いします」

蓮華が、ようやく声を落とした。 「何が起きてるの」 「まだ、わかりません。ただ、嫌な予感がします」

嫌な予感、という言い方も、嘘だった。 俺の予感は、もう嫌な、の域を超えていた。

スマートフォンを取り出す。電波は立っている。ホテルの緊急通報ボタンを押そうとして、指が止まった。 ホテル側と財閥側、両方の警備が無応答。 それを前提にして、ここに来た人間たちが、正規の警察や救援であるはずがない。

通報してどうする。 通報先が、敵の側にいたら。

通報という行為自体が、こちらの位置と生存を告げ知らせる合図になる。画面の光は、闇の中で一番目立つ信号だ。俺は画面を落とし、スマートフォンをポケットに戻した。

耳を澄ます。

エレベーターの駆動音が消えた。 全基。 三十四階から一階まで、縦に並んだ鉄の箱の全てが、沈黙した。

「お嬢、エレベーターが止まりました」 「停電?」 「いいえ。一基ずつ、手動で停止させた音です」

カチ、カチ、と、下の階から一基ずつ。マニュアル停止の音を、俺は知っている。 救助側がエレベーターを止めるなら、一斉に切る。 一基ずつ丁寧に止めるのは、敵が使わせないためだ。

壁越し、コンクリート越し、配管越し。 三十四階下、スチール扉の油圧が開く音。 一階の非常階段口、開放。

続いて、もう一つ。 十階か、十一階。 そこからも、扉が開いた音。

二方向。 挟み撃ち。

挟み撃ちは、逃がさないための布陣だ。殺すだけなら、一方向で足りる。二方向から詰めるということは、途中で合流させる気がないということ——つまり、スイートの扉の前で仕事を終わらせる意図を、明確に持っている。

息を止めた。 音を拾うために、じゃない。目の前の事実を、もう一度、頭の中で組み上げるために。

ホテル側警備、無応答。 財閥側警備、無応答。 非正規車両、正面ゲート通過。 エレベーター、全基手動停止。 非常階段、上下二方向から侵入。

結論は、ひとつ。

ここに来るのは、護衛対象を救うための人間ではない。 護衛対象を、保護しに来る人間でもない。 消しに来る人間だ。 俺も含めて。

「お嬢」 「はい」 「言いにくいんですが、ひとつだけ聞かせてください」 「なに」 「今夜、あなたのお父様から、何か普通じゃない連絡はありましたか」

蓮華は、一瞬、目を伏せた。 その一瞬で、俺は自分の仮説が、ほぼ当たっていることを知った。

目を伏せるというのは、知らない人間の仕草ではない。何かを言いかけて飲み込んだ、その喉の動きが、闇の中でもはっきり見えた。

階段の扉が、開いた。 三十四階、非常階段口。 足音が踊り場に響く。複数、歩幅が揃っている。

俺はホルスターから拳銃を抜き、スライドを静かに引いた。 薬室に初弾を送る。冷たい金属の手応えが、指先に馴染んでいく。

四年ぶりだ、と、頭の端で思った。四年ぶりに、人を撃つための構えを取っている。それでも、身体は覚えていた。忘れない種類の記憶というものが、確かにある。

蓮華が、息を呑んだ。 「迅」 「動かないで。音も立てないで」 「あなたは?」 「仕事をします」

照明パネルの残りを全て落とし、スイートを暗闇に沈めた。 闇の中で、自分の目が獣のそれに戻っていく感覚がある。

廊下、スイートの扉の外。 足音が、止まった。 ドアノブに、何かが触れる。金属と金属が、静かに擦れる。

俺は扉に銃口を向けた。 指は、まだ、引き金にかけない。

嵌められた、と、本能が告げていた。

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