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灰色の侍女は後宮の密室を解く

第1話 第1話

第1話

第1話

床の木目は、嘘をつかない。

 凛花が雑巾を握り直すたびに、その黒々とした筋は同じ方向へ流れていた。正直さとは、変わらぬことだ。変わってしまうのは、いつも人間のほうだ——かつての己を、凛花は努めて思い出さぬようにした。

 後宮の西端、蒼蘭殿の回廊。夜明け前の薄闇に、板敷きはまだ湿っている。膝を突き、雑巾を押し当て、腕ごと体重を乗せて木目に沿って擦る。手首の骨が軋むほどの力を込めれば、余計なことを考えずに済んだ。脇の桶に映る己の顔は、灰色の衣と同じく、輪郭が溶けて曖昧だ。水面に浮かぶのは、三年前の華やかな官服を纏った女ではない。誰でもない、ただの灰色だ。それでいい、と凛花は桶の水をひと掬い、己の影の上に静かに零した。輪郭はさらに滲み、やがて消える。

「おい、そこの灰色」

 先輩女官の冷たい声が落ちてきた。灰色——それは身分最下層の末端女官の通り名であり、凛花の名でもあった。正式な名を呼ぶ者は、もうこの宮にはいない。

「薫妃さまの朝の茶はわたくしが運ぶ。お前は水汲みだ」 「……承知しました」

 凛花は額を板に近づけた。三年前までは、この後宮で起きた不正を暴き、宮廷探偵として名を知られた身であった。今は桶の水を零さず運ぶだけで一日が終わる。それでよかった。眠っていれば、眠ったままでいられるなら、それでよかった。

 悲鳴が聞こえたのは、井戸端から桶を担いで戻る途中のことだった。

 薫妃の住まう貴妃殿の奥、私室の方角から、短く細く、喉を絞られるような声が一度だけ走った。桶の水が揺れて、凛花の袖を濡らす。冷たい雫が肘まで伝い、鎖骨の窪みで止まる。その冷たさが、眠っていたはずの勘の芯を、針で突くように目覚めさせた。足は、考える前に駆け出していた。

 貴妃殿の前には、すでに禁軍の兵と内侍の宦官が集まっていた。閉ざされた扉を、屈強な兵が三人がかりで押している。 「内側から閂!」「応答なし!」  三度目の体当たりで、木の軋みとともに扉が内へ割れた。押し出される人波の最後尾から、凛花もまた部屋の奥を覗き込む。

 薫妃は無事だった。寝台の帳の内側で、両手を口に押し当て、肩を震わせている。帳の絹は朝の冷気に微かに揺れ、妃の白い指先が布地の上で細かく痙攣していた。  倒れていたのは、貴妃付きの女官——秋織だった。部屋の中央、漆塗りの卓の脇に仰向けに横たわり、首筋から滲み出た薄赤い筋が、絨毯の縁で黒く沈んでいる。右手には、刃の細い小刀。血の匂いに混じって、薄荷めいた香と、焚き残った沈香の甘さが、まだ部屋の天井に澱んでいた。

「……自害か」  禁軍の隊長が呟き、宦官が相槌を打つ。 「閂は内側、窓の閂も落ちております。薫妃さまの他に、誰も入れませぬ」 「薫妃さまには、何も見えておられぬ。物音に目を覚まされた時には、既にこうであったと」

 声は、事件を畳もうとする声だった。凛花はその空気を知っていた。面倒は早く片付けるに限る——宮廷とはそういう場所だ。結論は初めから決まっていて、証拠はその結論に合うように並べ直される。三年前、己を陥れた声音も、これと同じ温度だった。あの朝、詔を読み上げた宦官の声は、今この部屋に漂う声とそっくり同じ抑揚で、人の生き死にを事務簿の一行に畳み込んでいった。

 部屋の隅に立ち、雑巾と桶を足元に置く。末端女官の身で、口を挟める場ではない。分かっていた。分かっていたが、眼だけは、もう勝手に動き始めていた。

 ——妙だ。

 卓の上には、湯気を薄く立てる茶器が二つ。ひとつは倒れ、ひとつは立ったまま。茶葉が、卓の縁から床へ散っている。だが、その散り方が妙だった。倒れた茶器から零れた茶葉ならば、縁から真下へ、引力に従って落ちるはずだ。近くに散り、遠くへは飛ばない。ところが茶葉は、卓から三歩分も離れた窓際まで、点々と弧を描いて落ちていた。まるで誰かが、茶器を手にしたまま、もがきながら後退ったかのように。茶葉の弧は一定の間隔で、人が一歩、また一歩と退いた歩幅そのものを、床に墨書したようにも見えた。

 そして、秋織の右手の小刀。刃と、喉の切り口の角度が合っていない。自ら首を切るならば、刃は手前から奥へ斜め下に走る。だが傷は、外側から内側へ——他人の手で引かれた角度だった。切断面の縁は迷いなく一筋、震えの痕跡がない。人は己を殺めるとき、必ず一度は躊躇う。その躊躇いが、この傷には、ひとかけらも刻まれていなかった。小刀を握った秋織の指は、柄の木目を掴みもせず、ただ添えられているだけ——死後に握らされた指の、あの弛みかたをしていた。

 だとすれば、これは自害ではない。

 凛花は眼を伏せた。見るな、考えるな、口を開くな。繰り返して、雑巾の端を握り直す。三年前、己が冤罪で官位を剥がされたとき、誓った。もう二度と、推理などしない。誰かの罪を暴けば、必ず誰かに憎まれる。憎まれれば、次に追放されるのは自分ではなく、自分を庇った者だ。もう、誰にも庇わせてはならない。

「灰色、何を見ている」

 先輩女官の鋭い声が飛んだ。凛花は慌てて頭を下げる。 「……申し訳ございません。片付けを、と」 「掃除はあとだ、証拠保全が先だ。そこを動くな」

 禁軍の若い兵が凛花を睨んだ。凛花は黙って膝を折り、板敷きに額をつけた。冷たい板が額骨を押し返してくる。この冷たさを知っている、と思った。三年前、詔を下される朝、同じように額を床に張り付け、同じ温度の板に己の体温を吸われた。眠れ、と額の冷たさに命じる。眠れ、思い出すな、動くな。

 数刻ののち、薫妃は別宮へ移され、部屋には秋織の遺体と、監視の兵が一人だけ残された。「自害」という報告が纏まりつつあるのだろう、外では宦官たちの声が事務的に流れている。

「灰色、血を拭け」  扉の向こうから、隊長の指示が投げられた。自害と決めてしまえば、あとは末端の仕事だ。凛花は雑巾を絞り直し、ゆっくりと部屋へ入った。

 遺体に薄布を被せ、血の広がった絨毯の縁に膝を突く。拭きながら、目だけは動いた——もう、止まらなかった。

 茶葉を一粒、指の腹で拾い上げる。乾き始めている。湯気を立てていた茶器から零れたにしては、水気が足りない。茶葉は最初から、卓の上に撒かれていたのだ。争いの中で袖が引っ掛け、あるいは足が蹴り、弧を描いて散った。倒れた茶器の内側には、茶渋の痕すらない。最近、一度も茶を注がれていない器だ。湯気が立っていたのは立ったままのほう——つまり、卓に並べられた茶器の片割れは、「倒すために置かれただけ」の舞台装置だった。指先で撫でた器の縁は、朝餉の湯気を一度も浴びていない、冷ややかな陶のままだった。

 卓は争闘を装い、小刀は自害を装う。二重の偽装。

「……誰かが、この場面を作った」

 声に出さず、凛花は唇の中でだけ呟いた。心臓が、骨の奥で一度だけ重く鳴る。三年の眠りから、覚めようとする音だった。

 眠れ、と己に命じた。末端女官の仕事は、床を磨くことだけだ。眼を閉じろ、誓いを守れ。繰り返して雑巾を動かす。動かした——が、雑巾の先が秋織の左手に触れた時、指が勝手に止まった。

 傷のある指。その爪の間に、なにか、細く、光を弾くものが挟まっている。

 見るな、と心が叫んだ。  見た、と眼が答えた。

 部屋の外から、掠れた声が届いたのは、その瞬間だった。

「……凛花姉さま」

 秋織の妹——朱音だった。女官見習いの幼い肩が、禁軍の兵に押さえられながら震えている。泣くことさえ許されぬ姿勢で、ただ凛花だけを見上げていた。その瞳は、三年前、凛花が後宮を追われるあの日、門の外まで泣きながら追ってきた少女の瞳と、寸分も違わなかった。あの日、少女は泥のついた小さな手で凛花の袂を掴み、「いつかきっと」と、言葉にならぬ声で結び目を作った。その結び目が、今、喉の奥で解けようとしている。

「姉は、自害などいたしません。昨夜——『見てはいけないものを、見てしまった』と、そう震えておりました。姉さま、あなたなら、お分かりでしょう。お願い——」

 凛花は、振り返らなかった。振り返れば、閉じかけた眼が、もう一度、完全にひらいてしまう。指先で握った雑巾が、じっとりと重い。血を吸った布は、拭うほどに己の手を汚す。——この手で、誰かを救おうとすれば、また別の誰かが、この手の重さで沈むのだ。

 秋織の爪に挟まった糸は、窓から射す薄光を受けて、後宮では纏うことを許されぬ色に、静かに煌めいていた。金糸とも紫ともつかぬ、ただ一人の指にしか許されぬ禁色。見間違えるはずもない、三年前に己を葬ったのと同じ、あの色だった。

 誓いが破れる音がする、と思った。

 それは——思っていたよりも、ずっと早い朝のことだった。

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