第1話
第1話
白磁が割れる音がした。
麗華様の居室を辞して五十歩と離れていない廊下でのことだ。振り返ると、入口に侍女が一人、顔面を蒼白にして立ちすくんでいた。
駆け戻った。
部屋の中は、ほんのわずかな間に一変していた。後宮きっての寵妃・麗華様が床に崩れ落ちている。唇が暗い紫色に染まり、白い頬を痙攣が走っていた。四肢が小刻みに震えている。割れた茶碗の破片が床に散らばり、琥珀色の茶が白磁の欠片の間を細い筋になって流れていた。甘い残り香が鼻をついた。龍井の青い香りの下に、かすかに別の匂いが混じっている気がした。だが、それが何かを考える余裕はなかった。
あの茶だ。ほんの先刻、私が淹れて運んだ茶。
「毒よ──茶に毒が入っている!」
侍女の甲高い叫びが廊下に反響した。複数の足音が石畳を蹴って近づいてくる。衛兵だ。私は立ち尽くしたまま、麗華様の唇の紫色と、床に広がる茶の色を交互に見ていた。
宦官長が現れた。背の高い、痩せた男。鋭い目が室内を一巡した。倒れた麗華様。散乱した茶碗の破片。琥珀色の水溜り。そして、入口に立つ私。
「この茶を淹れたのは誰だ」
低い声だった。三対の目が、同時に私を向いた。
「翠蘭です」
茶房を仕切る年嵩の女官──陳媽媽の声だった。
「茶房で茶を淹れたのも、この部屋へ運んだのも、翠蘭です」
否定のしようがなかった。事実、その通りだったのだから。背後から腕を掴まれた。衛兵に両腕をとられ、石畳に膝をつかされる。冷たい石が膝頭に食い込んだ。周囲の侍女たちが息を呑む気配。だが頭の中は凪いでいた。恐怖より先に、一つの疑問だけが浮かんでいた。
なぜだ。あの茶に毒など、入っているはずがない。
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弁明の場は、形だけは与えられた。
後宮の東寄りにある裁定房に引き据えられ、宦官長と侍医の前で、あの朝の手順を最初から述べよと命じられた。裁定房は狭かった。窓のない石壁の部屋に卓が一つ、その向こうに宦官長が座り、傍らに侍医が立っている。卓の上には竹簡が何枚か積まれていた。壁に掛けられた燭台の炎が、宦官長の頬骨に深い影を落としている。私は一つ一つ答えた。声が震えぬよう、事実だけを並べた。
そもそも私は、麗華様の茶を淹れる役目ではなかった。後宮の末席侍女──それが翠蘭という人間の立ち位置だ。寵妃の朝茶を任されるような身分ではない。ただあの朝、当番の侍女が腹を下し、急遽、茶房にいた私に声がかかった。
「翠蘭。今朝は麗華様の茶をお前が運びなさい」
陳媽媽にそう言われ、断る理由はなかった。
茶葉は封の切られていない新しい壺から取った。蓋を外したとき、青みを帯びた香りが鼻先をかすめたのを覚えている。上等な龍井だった。湯の温度は掌にかざして確かめた。蒸らしは三十数えるまで。没落したとはいえ薬師の家に生まれた身だ。薬草の扱いと茶の扱いは根が同じ──温度と時間を誤れば薬は毒に変わる。だからこそ、誤らない。
味も香りも確かめた。異物はなかった。
その説明を、宦官長は一語も書き留めなかった。私がどれほど正確に手順を述べても、彼の筆は卓の上に置かれたままだった。代わりに竹簡を取り上げ、読み上げを始めた。
「陳媽媽の証言。翠蘭が茶房にて一人で茶を淹れるのを確認」
一枚。
「侍女・春桃の証言。翠蘭が盆を持ち、麗華様の居室に入るのを目撃」
二枚。
「侍女・玉佩の証言。翠蘭が卓に盆を置いた直後、麗華様が茶を召された」
三枚。証言はすべて正しい。茶を淹れたのは私。運んだのも私。卓に置いたのも私。麗華様がそれを飲んで倒れた。
だが、茶に毒を入れたのは私ではない──その一点だけが、どの証言にも含まれていなかった。含まれようがない。「毒を入れていない」証明を誰がどうやって目撃するというのだ。
侍医が口を開いた。痩せた老人で、白い顎鬚を薬指で撫でる癖があった。
「毒物は烏頭の類と見られる。即効性ではなく、摂取から発症まで四半刻ほどの遅効性を持つ。薬師の知識があれば、調合は容易であろう」
その言葉の意味するところは明白だった。薬師の家に生まれた私だからこそ、毒を仕込めたのだと。私の生まれそのものが証拠にされていた。
「動機も明白である」
宦官長が続けた。
「翠蘭。お前の生家は五年前に取り潰された森州の薬師・陸家であるな。陸家は麗華様の御実家が推した弾劾で官籍を剥奪されている」
知らなかった。いや──正確には、意識したことがなかった。私を後宮に送り込んだのは遠縁の叔母であり、生家がなぜ潰れたのかの詳細は教えられていない。だが宦官長には関係のないことだ。彼の手元にはすでに筋の通った物語が揃っている。動機、機会、証言。欠けているのは自白だけだ。
「処刑は三日後とする」
宣告は、短かった。
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牢は後宮の最奥にあった。
地上の光が届かない石造りの地下房。壁は湿気を含んでじっとり黒ずみ、天井の隅に苔が薄い層を作っている。鉄格子の向こうには細い通路が伸び、突き当たりに衛兵が一人、壁に背を預けて舟を漕いでいた。空気は重い。土と錆びと、かすかな黴の匂い。
私は壁に背を預け、息を吐いた。吐いた息が白くはならなかったが、石壁から伝わる冷気は身体の芯まで沁みた。指先の感覚が鈍い。薄い衣一枚では、地下の湿った寒さを防ぎようがなかった。
三日。あと三日で、私は死ぬ。
没落した薬師の家に生まれた。幼い頃、母が残した薬草図鑑だけが宝物だった。頁が擦り切れるまでめくったあの図鑑は、後宮に入るときに取り上げられている。親を亡くし、家を失い、後宮の末席に流れ着いて三年。誰の名前も覚えてもらえず、誰の記憶にも残らないまま消えていく──そういう人生だと思っていた。
皮肉なものだ。初めて名前を呼ばれたのが、毒殺犯としてだった。
翠蘭。その名を後宮の誰も知らなかったはずが、今日の夕刻には宮中の隅々にまで知れ渡っているだろう。寵妃・麗華に毒を盛った末席侍女。処刑される罪人。
目を閉じる。暗い天井を見ていても、何も見えないのは同じだった。
どこかで水が滴る音がした。一定の間隔で、石を穿つように落ちている。その単調な音だけが、時間がまだ流れていることを教えてくれた。
だが──泣くな。考えろ。
私は目を開けた。
あの朝の光景を、最初から組み立て直す。茶房。新しい茶葉の壺。湯の温度。蒸らしの時間。盆に載せた一式。廊下。麗華様の居室。三人の侍女。卓に盆を置く。一礼。退室。
すべてが頭の中にある。薬師の娘の記憶力は、こういうときに仕事をする。一度見た光景を細部まで引き出せるこの性質を、母は「お前の一番の才能」と言った。
あの茶に毒は入っていなかった。
自分で淹れたのだ。茶葉は未開封。湯に異物なし。器は洗浄済みで欠けも罅もなかった。味も香りも、確かめた。あの一杯に、毒が紛れ込む隙間は存在しない。
だとすれば。
麗華様の体に毒を入れたのは、茶ではない。
何か別のものだ。
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私はまだ、それが何かを知らない。だが一つだけ、確かなことがある。
麗華様が倒れたあの瞬間、私はこの目で症状を見た。唇の変色。四肢の痙攣。呼吸の乱れ方。薬師の家で叩き込まれた知識が、ちりちりと頭の奥を刺激している。何かが引っかかる。あの症状の出方には──妙なところがある。
侍医は烏頭と言った。だが烏頭ならば、まず舌の痺れが来るはずだ。麗華様は茶碗を落とす直前まで、侍女と普通に言葉を交わしていたと聞いた。舌が痺れていれば、呂律が乱れる。それがなかった。烏頭ではない──少なくとも、烏頭だけではない何かが、あの体を蝕んだのだ。
今はまだ、その違和感の正体を掴めない。だが三日ある。この石壁の内側で、頭だけは自由に動かせる。
衛兵の鼾が通路に低く響いていた。私は膝の上で指を折った。
三日。たった三日。
記憶の中の居室に、もう一度立ち戻る。麗華様の傍らに何があった。卓の上には何が並んでいた。あの部屋には、茶の香りとは別の匂いが漂っていなかったか。
一つずつ思い出す。一つも取りこぼさない。
この牢から出る方法があるとすれば、それは力ではなく、真実だけだ。