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霧生総合病院・地下二階

第1話 第1話

第1話

第1話

再生数が三桁を割った動画を、私はもう見ないことにしている。

アパートの天井に染みが浮いている。去年の夏からずっとそこにあるそれを眺めながら、秋永悠真という人間が今どのあたりにいるのかを考える。大学三年。二十一歳。就職活動のエントリーシートは白紙のまま机の引き出しに入っていて、開く予定もない。講義には週に二回だけ顔を出し、残りの時間は廃墟にいる。

廃墟探索Vlogger。名乗るのも気恥ずかしい肩書きだ。チャンネル登録者数は八百人。一年前に千を超えた瞬間だけ少し浮かれて、そこからじわじわと減り続けている。最後に投稿した動画——県北の廃工場を歩き回っただけの四十分——の再生数は、七十二。コメントはゼロ。

「誰が見てんだよ、これ」

自分に向かって呟く声は、思ったよりも乾いていた。

誰もいない場所を撮って、誰にも見られない動画を上げる。笑えないくらい正確な自画像だった。それでもカメラを持って出かけることをやめられないのは、理由がある。廃墟の中だけが、私の呼吸が楽になる場所だった。人の目がない。期待もない。「お前はどうするんだ」と問い詰めてくる空気がない。崩れかけた壁と埃の匂いの中にいると、自分がこの世界の端っこにちゃんと立っていられる気がした。

居場所という言葉を、こんなふうに使うのは間違っているのかもしれない。

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その日の夜、いつものようにSNSの通知を眺めていた。フォロワーからのDMはめったに来ない。だから件名のないメッセージが届いたとき、迷惑アカウントだろうと思った。

開いてみると、アイコンもプロフィールもない捨てアカウントだった。本文は短い。

『旧霧生総合病院。行ったことありますか? 閉鎖から三十年、地元でも近づく人がいない。地下二階の霊安室で名前を呼ばれた者は二度と出られない——って怪談、知ってます?』

霧生総合病院。聞いたことがなかった。検索してみると、わずかな情報がヒットする。県境に近い山間部。一九九六年に閉鎖。理由は経営破綻とされているが、当時の地方紙には「関係者の相次ぐ不審死」という記述もあった。画像は一枚だけ。遠景から撮られた白い建物が、木々の間にぼんやりと写っている。

画質の粗い写真を拡大してみた。建物の輪郭はぼやけ、手前の木の枝が重なって全体像がつかめない。だが窓らしき暗い矩形がいくつも並んでいるのは分かった。等間隔に、どの窓も同じように黒い。その均一さが、病院というよりも何か別のもの——檻のようなものを連想させて、指先が画面の上で止まった。

怪談サイトの投稿も見つかった。どれも似たような内容だ。地下二階の霊安室。名前を呼ぶ声。二度と出られない。テンプレートのような怪談で、信憑性は低い。だがコメント欄の一つに、妙な書き込みがあった。

『あそこは窓が全部塞がれてる。外からじゃなくて、内側から。釘じゃなくて板を当ててある。なんで内側から塞ぐ必要があるんだ?』

内側から。

その一文が、喉に小さな骨が刺さったみたいに引っかかった。窓を塞ぐなら普通は外からだ。不法侵入を防ぐためなら、そのほうが合理的だし作業も楽だ。内側から塞ぐのは——中にいる人間が、外を見たくなかったのか。あるいは、何かを中に閉じ込めておきたかったのか。

どちらの想像も、胃の底をざらりと撫でるような不快感があった。閉鎖された病院。内側から塞がれた窓。その中で、三十年間、光の届かない廊下が続いている。そう考えた瞬間、スマートフォンを持つ手が微かに冷たくなった。恐怖ではない。もっと手前の、好奇心が本能を追い越す直前の、あの感覚だった。

ベッドの上で天井の染みを見つめながら、すでに私の指はカメラのバッテリー残量を確認していた。二本。予備のSDカードは三十二ギガが一枚。ヘッドライトの電池は先週替えたばかりだ。

行く理由は、正直に言えば再生数だった。「閉鎖三十年の廃病院」「地元民も近づかない」「怪談あり」。サムネイルに使えるフレーズが揃っている。バズるかもしれないと思ったわけではない。ただ、七十二回再生の動画を量産するよりはましな結果になるだろうという、その程度の計算だ。

だがそれだけではないことも、自分では分かっていた。あの写真の窓の黒さが、まだ目の奥に残っている。内側から塞がれた窓の向こうに何があるのか、カメラ越しに確かめたかった。それは再生数とは無関係の、もっと原始的な衝動だった。

翌朝、私は始発の電車に乗った。リュックにはカメラ、三脚、ライト、モバイルバッテリー。それから、誰にも行き先を告げていないことに気づいたのは、乗り換えの駅のホームだった。

告げる相手がいない、というのが正確だった。

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電車を二本乗り継ぎ、そこからバスに揺られて四十分。終点で降りたのは私だけだった。バス停の時刻表は色褪せて、午後の便は一本しかない。帰りの最終は十六時十二分。それを逃したら、ここで夜を明かすことになる。

十月の山間部は、もう空気が冷たい。道の脇を流れる細い川の水音と、自分の靴音だけが聞こえる。Googleマップに表示された道を辿るが、途中から舗装が途切れ、草に覆われた獣道のようになる。本当にこの先に病院があるのか疑いながら二十分ほど歩いたとき、木々の隙間から白い壁が見えた。

旧霧生総合病院。

最初に感じたのは、大きさだった。山の中にこれほどの建物があることの違和感。五階建て。横に長く、左右の端が見えないほどだ。コンクリートの外壁は灰色に変色し、蔦が絡みついている。正面玄関のガラスは割れ、その奥に暗い空間が口を開けていた。

だがそれよりも、私の足を止めたのは窓だった。

一階から五階まで、すべての窓が塞がれている。書き込みの通りだった。外壁に打ちつけられた板ではない。ガラスの向こう側——建物の内部から、合板のようなものが当てられている。規則正しく、一枚の例外もなく。まるで中にいる何かが、外の光を徹底的に拒んでいるかのように。

風が止まった。

さっきまで頬を撫でていた秋の風が、病院の前に来た途端に消えた。木々の葉が揺れていない。川の音も、ここからでは聞こえない。静寂というよりも、音が吸い込まれているような感覚だった。

カメラを構える。液晶画面に映る病院は、肉眼で見るよりもさらに暗い。露出を上げても、窓の部分だけが不自然に黒く沈んでいる。

「——旧霧生総合病院に来ました」

配信用の声を出す。いつもの癖だ。明るく、軽く、怖がっていない自分を演じる声。だが今日はその声が、自分の耳に届く前に空気に溶けて消えたような気がした。

正面玄関に近づく。割れたガラスの破片が散らばる床に、靴の跡はない。少なくともここ数ヶ月、誰も入っていない。私はライトを点け、暗がりに光の筋を這わせた。受付カウンター。待合室の長椅子。天井から垂れ下がった配線。三十年分の埃が、すべてを均一に覆っている。

埃の匂いは、いつもの廃墟と同じだった。だがその下に、かすかに違う匂いが混じっている。錆びた金属のような、あるいは古い薬品が変質したような、鼻の奥にしつこく残る匂いだ。病院という場所の記憶が、空気そのものに染みついているかのようだった。

一歩、踏み入れる。

その瞬間、背後で何かが変わった気がして振り返った。正面玄関のガラス越しに見える外の景色は、さっきと同じだ。木々。曇り空。何も変わっていない。

——はずだった。

だが、ほんの一瞬だけ。ライトの光が届かない廊下の奥から、車輪が軋むような音が聞こえた。金属が金属を擦る、甲高い、細い音。ストレッチャーか、車椅子か——病院にあるべきものが、三十年の沈黙を破って動いたような音だった。

私は息を止めた。

五秒。十秒。音は繰り返されない。古い建物だ。温度変化で金属が膨張することもあるだろう。そう結論づけて、私はカメラを廊下の奥に向けた。ライトの光は十メートルほど先で闇に呑まれ、その先には何も見えない。

何も、見えないはずだった。

液晶画面の端に、目を凝らさなければ分からないほどかすかに——何かが光を反射していた。丸い、金属質の光。車輪のような。

私は画面から目を上げ、廊下の奥を直接見た。

暗い。何もない。

もう一度画面に目を落とす。

光は、消えていた。

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