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雨夜の拳、母の名を求めて

第2話 第2話

第2話

第2話

眠れなかった。眠る気もなかった。

蓮司はデスクライトを点け、数列の紙をA4のコピー用紙に書き写した。原本は汚したくない。芳江が最後に残したものだ。

`7-3-21-0-15-8-42-6-19-11` `4-28-1-33-7-22-0-14-9-36` `12-5-0-27-8-41-3-18-6-30` `88-2-K-4419`

四行目は解けた。K-4419。蓮司の警察官番号。では残りの三行が本体だ。

コーヒーを淹れた。インスタント。マグカップの縁に茶色い染みがこびりついている。熱い液体を一口含み、紙を睨む。

数字の並びに規則性を探す。元刑事だ。暗号解読の基礎は叩き込まれている。まず各行の数字の個数を数えた。一行目、十個。二行目、十個。三行目、十個。等間隔。ダッシュ区切り。各数字は0から42の範囲。

シーザー暗号か。ヴィジュネル暗号か。いや、芳江は暗号学の専門家じゃない。八十二歳の老婦人が作れる暗号。かつ、蓮司「だけ」が解ける暗号。

四行目が鍵だと便箋は示唆している。K-4419。この番号をどう使う。

蓮司はペンを取った。まず単純な引き算を試す。各数字から4、4、1、9を周期的に引く。負になるものは——駄目だ。意味のある文字列にならない。足し算。掛け算。XOR。どれも無意味な数列が出てくるだけだった。

時計を見た。午前二時。雨はまだ降っている。排水管を流れる水音がかすかに聞こえた。

コーヒーを飲み干し、二杯目を淹れる。マグカップを持つ手が少し冷えていた。四月だが、このビルは底冷えする。

数列をもう一度見る。0が三行すべてに含まれている。一行目の四番目、二行目の七番目、三行目の三番目。0は区切りか。あるいはヌル文字か。

——待て。

蓮司は手を止めた。見方を変える。数字を文字に変換するのではなく、数字そのものが座標や番号を指している可能性。電話番号。住所。郵便番号。口座番号。

「あんたは何を伝えたかった」

声に出した。芳江の顔を思い出す。

月に一度の依頼。猫探し、不審者調査。報酬はいつも少し多めに払ってくれた。「お釣りは次のお茶菓子代」と笑っていた。

依頼のあと、芳江はいつもお茶を出した。居間の畳に座り、玄米茶を啜りながら、世間話をした。芳江が聞きたがるのは決まって蓮司の過去だった。

『ご両親のこと、覚えていらっしゃる?』

『覚えてないです。三つの頃に施設に入ったんで』

『そう……』

あの沈黙。芳江はいつも少し間を置いてから、別の話題に切り替えた。天気の話、近所の猫の話。だが目の奥にあった光は消えなかった。何かを測るような、あるいは確かめるような眼差し。

ある時、芳江は蓮司の右手を見て言った。

『その傷、痛くないの?』

『慣れました』

『慣れちゃ駄目よ。痛いものは痛いって言わなきゃ』

妙に真剣な声だった。猫探しの依頼人が言う台詞じゃない。蓮司はそのとき不思議に思ったが、深くは考えなかった。老人の説教だと流した。

今なら分かる。あれは依頼人の言葉じゃなかった。もっと近い誰かの言葉だった。

蓮司はペンを回した。思考を戻す。芳江が蓮司「だけ」に解ける暗号を作った。蓮司の警察官番号を知っていた。つまり芳江は蓮司の経歴を詳しく調べていた——いや、最初から知っていた可能性が高い。

なら暗号の鍵も、蓮司の過去に紐づいているはずだ。

K-4419。Kは管轄コード。警視庁の内部システムでは、管轄と個人番号の組み合わせで職員を一意に特定する。だが暗号の鍵としてはまだ情報が足りない。

もう一つ、蓮司だけが知っていること。

手帳を開いた。四年間触れなかった革の手帳。ページをめくる。配属記録、研修記録、連絡先——。

指が止まった。

手帳の最終ページ。退職前に書き込んだメモ。暗号通信の講習で使った変換テーブル。数字とかな文字の対応表。警視庁の内部研修でしか配布されない、独自の符号体系。

「これか——」

蓮司は変換テーブルを書き写した。0から50までの数字に、五十音が割り当てられている。0=あ、1=い、2=う、3=え、4=お……。警視庁が秘匿通信に使う独自コードだ。一般には出回らない。芳江がこの体系を知っていたなら、蓮司の元職も知っていたことの傍証になる。

一行目。7-3-21-0-15-8-42-6-19-11。

変換する。ペンが走った。

か——え——な——あ——こ——き——ん——く——し——け。

「かえなあ、こきんくしけ——」

意味がない。蓮司は舌打ちした。だが変換テーブルが間違いとは思えない。四行目のK-4419が鍵だとすれば——。

88-2。四行目の先頭二つ。88と2。変換テーブルの範囲外。88は五十音に対応しない。つまりこの二つは別の情報を持っている。

88。何かの番号。2は——。

蓮司は眉をひそめた。88-2。区の番号と支店番号。東京都の行政コードで88は——。

違う。銀行だ。

金融機関コード。88は——みずほ信託銀行の旧コード。2は支店番号。丸の内支店。

蓮司は椅子から立ち上がった。

金融機関コードと支店番号。なら残りの三行は——。

口座番号じゃない。桁数が合わない。

貸金庫だ。

みずほ信託銀行丸の内支店の貸金庫。三行の数列を変換テーブルに通せば、暗証コードになる。

蓮司はもう一度変換を試みた。今度は方法を変える。4419を周期鍵として各数字にシフトをかけてから変換テーブルを適用する。

一行目、シフト後。3-0-20-9-11-4-41-15-15-2。

え——あ——な——し——け——お——む——こ——こ——う。

「えあなし、け——」

まだ駄目だ。蓮司は唇を噛んだ。だが方向は合っている。シフトの方法が違うだけだ。引くのか、足すのか、交互か。

三十分を費やした。七通りの組み合わせを試し、八番目でそれは現れた。

三行三十個の数字が、十五文字の平仮名に変わった。数字二つで一文字を指定する二桁方式——行番号と列番号。

`まるのうちにのさんきゅうはち`

丸の内二の三九八。

貸金庫番号。398。

蓮司はペンを置いた。手が震えていた。怒りでも恐怖でもない。確信だ。芳江は確実にこの結果を意図していた。

みずほ信託銀行丸の内支店。貸金庫398。

何が入っている。芳江は何を遺した。

蓮司はデスクの引き出しから免許証を取り出した。貸金庫を開けるには契約者の本人確認が要る。だが契約者は芳江のはずだ。遺言書に開錠の委任が含まれているかもしれない。行政書士の水谷に確認する必要がある。

携帯を開いた。着信履歴から水谷の番号を呼び出す。時刻は午前三時半。さすがにこの時間には出ない。蓮司は携帯をデスクに置き、窓の外を見た。

雨は小降りになっていた。歌舞伎町のネオンも半分が消え、夜明け前の薄暗い灰色が空に滲み始めている。

水谷に電話する。銀行が開く時間に合わせて丸の内に向かう。段取りは明確だった。

蓮司は椅子に座り直し、芳江の便箋をもう一度手に取った。「あなただけが解けます」。その通りだった。警視庁の内部コードを知らなければ、この暗号は永遠に数字の羅列でしかない。

ふと、別の疑問が首をもたげた。

なぜ芳江がこのコードを知っている。

蓮司は携帯を取り、水谷の番号に発信した。留守電に切り替わる。

「神代です。貸金庫の件で確認したい。朝一で折り返してくれ」

切って、すぐに水谷からショートメッセージが届いた。午前三時四十分。起きていたのか。

『貸金庫の契約者名は柊芳江ではありません。遺言書に委任状が同封されていますが、開錠にはもう一つ条件があります。契約者ご本人の同意です』

蓮司は画面を見つめた。芳江ではない。なら誰が契約者だ。

返信を打つ。

『契約者名は』

十秒後、返答。

『白河晴子様です』

知らない名前だった。

蓮司は携帯をデスクに置いた。白河晴子。聞いたことがない。芳江の親族か。友人か。だが芳江は天涯孤独だと言っていた。身寄りはないと。

便箋の文字が、蛍光灯の白い光の下で静かに滲んでいた。

白河晴子。その名前の向こうに、芳江が蓮司に見せたかったものがある。

窓の外で、雨が止んだ。灰色の空の端に、かすかな朱色が差し始めていた。

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