第1話
第1話
雨が、街を溶かしていた。
歌舞伎町の裏路地。ネオンの残光が水たまりに散る。赤、青、紫——色彩が雨粒に砕かれ、アスファルトの上で混じり合っていた。どこかの店から低音の効いた音楽が漏れ、雨音に溶けて消えた。神代蓮司は革ジャンの襟を立て、雑居ビルの非常階段を上がった。鉄骨の段を踏むたび、靴底が水を弾く音が狭い壁面に反響する。三階の踊り場で足を止める。錆びたドアノブに手をかけると、今朝と同じ角度で傾いでいた。侵入の痕跡なし。
ドアを開ける。六畳半の事務所。黴と煙草の残り香が鼻を突いた。デスクと折り畳み椅子、壁に掛けた探偵業届出証明書。蛍光灯のスイッチを入れると、管の片側が一瞬だけ明滅してから白い光が灯った。冷蔵庫を開けた。缶ビールが二本。一本を抜き、プルタブを起こす。炭酸が弾ける小さな音が、静まり返った室内に響いた。
浮気調査の写真をデスクに広げた。ラブホテルに入る男女、出てくる男女。撮影時刻を記録したメモ。男の方は四十代半ば、営業職らしいスーツの皺の付き方をしていた。女の方は二十代後半、男の腕にぶら下がるようにして笑っていた。六時間の張り込みで撮った十七枚。これで依頼人の妻には十分な証拠になる。報酬は三十万。家賃二ヶ月分。
「——くだらねえ」
呟いて、ビールを煽った。喉を落ちる冷たさだけが、今の自分に許された刺激だった。泡の苦味が舌の奥に残る。浮気調査、素行調査、身辺調査。人の暗部を覗くだけの仕事だ。だが他にできることがない。拳以外に取り柄のない男の末路が、これだった。
デスクの電話機を見る。赤いランプは点いていない。留守電なし。着信履歴は三日前の一件だけ。柊芳江。八十二歳。月に一度、猫探しや近所の不審者調査を依頼してくる唯一の常連だった。三日前の電話には出られなかった。張り込みの最中だった。
折り返したとき、もう繋がらなかった。
窓の外で雨脚が強まる。蓮司はビールを置き、携帯を開いた。芳江の番号をもう一度押す。呼び出し音が八回鳴って、留守番電話に切り替わった。「ただいま電話に出ることができません」。録音された声は穏やかだった。生きていた頃と同じ声。蓮司は携帯を耳に当てたまま、しばらく動かなかった。録音の向こうに、あの小さな居間が見えるような気がした。仏壇の横に置かれた黒電話、畳に敷かれた座布団、いつも淹れてくれた玄米茶の湯気。
三日前。柊芳江、自宅にて死亡。死因は心不全。享年八十二。
昼間、所轄の知り合いに聞いた。事件性なし。独居老人の孤独死。それだけの話だ。
それだけの話のはずだった。
蓮司は缶ビールをデスクに置き、椅子の背もたれに体を預けた。天井の染みを数える。七つ。前に数えたときも七つだった。築四十年。空調は夏に壊れたまま。冬は石油ストーブ、夏は窓を開ける。それで十分だった。
四年前に警察を追われた。傷害——Loss被疑者への過剰な制圧行為。蓮司に言わせれば、あの男は抵抗した。だが監視カメラの映像は蓮司に不利だった。懲戒免職。退職金なし。元妻は離婚届を置いて出ていった。テーブルの上に書類一枚。言葉はなかった。弁解する隙すら与えない去り方だった。
残ったのは、殴ることだけだ。
拳を開いて見る。右手の中指と薬指の関節が変形している。骨の隆起が皮膚の下に歪な稜線を描いていた。何度も折れて、そのたびに自分で固定した。割り箸とテーピングテープ。医者にかかる金はなかった。痛みには慣れている。痛みだけが、自分がまだ何かに執着している証拠だった。
携帯が震えた。
画面を見る。知らない番号。蓮司は一瞬迷い、出た。
「神代蓮司さんですか。柊芳江さんの遺品整理を担当しております、行政書士の水谷と申します」
「遺品整理」
「はい。柊さんの遺言書に、神代さんへお届けするよう指定された封筒がございまして」
蓮司の眉が動いた。芳江が遺言書を用意していた。八十二歳の独居老人が、わざわざ行政書士を通して、探偵に封筒を残した。
「届けてくれ。住所は——」
「本日中にお届けします。配達の者が向かっております」
電話が切れた。手際が良すぎる。芳江が事前に段取りしていたということだ。死ぬことを、わかっていたのか。
十五分後、インターホンが鳴った。配達員から受け取ったA4サイズの封筒。表面に「神代蓮司様」と芳江の筆跡。角の丸い、穏やかな文字だった。達筆ではないが、一画一画に迷いがない。裏面には封蝋。赤い蝋に、桜の刻印が押されていた。蝋の表面は滑らかで、割れも欠けもなかった。丁寧に、最後の最後まで丁寧に準備されたものだった。
蓮司は封筒をデスクに置き、しばらく見つめた。ビールの缶を握る手に力が入る。蛍光灯の光が封蝋の赤を照らし、桜の刻印が小さな影を落としていた。芳江の顔が浮かんだ。皺だらけの目元を細めて笑う、あの表情。「蓮司さん、今月もお願いしますね」。いつもそう言って、茶菓子の入った紙袋を差し出した。
開封した。
中身は二つ。一枚の便箋と、B5サイズの紙に手書きされた数列の羅列。
便箋を先に読んだ。
「蓮司さん。あなたに会えて幸せでした。最後のお仕事をお願いします。この数列を解いてください。あなただけが解けます。——芳江」
文字は震えていた。だが一字一字、丁寧に書かれている。時間をかけて、心を込めて書いた文字だった。「幸せでした」の「し」の字がほんの少し滲んでいた。インクか、それとも別の何かが落ちた痕か。蓮司は指先で便箋の表面に触れた。紙の繊維の凹凸が指紋に引っかかった。
数列の紙に目を移す。
`7-3-21-0-15-8-42-6-19-11` `4-28-1-33-7-22-0-14-9-36` `12-5-0-27-8-41-3-18-6-30` `88-2-K-4419`
四行。最初の三行は数字の羅列。四行目だけ形式が違う。数字にアルファベットが混じっている。
蓮司は数列を睨んだ。暗号か。芳江が「あなただけが解ける」と書いた。つまり蓮司個人に紐づく知識がなければ解けない仕組みのはずだ。
最初の三行を無視して、四行目に集中する。
`88-2-K-4419`
88。2。K。4419。
蓮司の指が止まった。
4419。
この数字を、知っている。
警察官番号。警視庁に在籍していた時代、蓮司に割り振られた個人識別番号。四四一九。他の誰も使わない、蓮司だけの番号。退職届ではなく懲戒免職通知に印刷された、あの番号。
なぜ芳江がこの番号を知っている。月に一度の猫探しの依頼人が、元刑事の警察官番号を。
蓮司はデスクの引き出しを開けた。奥に押し込んでいた警察手帳——返納を拒否して持ち出した違法な手帳を引っ張り出す。手帳の革は乾ききっていた。四年間、一度も手入れをしていない。開く。番号を確認する。
K-4419。K管轄、個人番号4419。
一致した。
背筋を冷たいものが這い上がった。雨音が強くなった。事務所の窓ガラスを叩く水滴が、蛍光灯の光を散らす。蓮司は便箋をもう一度読んだ。「あなただけが解けます」。
芳江は知っていた。蓮司の過去を。警察にいたことを。番号まで。
月に一度の依頼。いつも世間話をした。芳江は蓮司の生い立ちをよく聞きたがった。両親のこと。幼少期のこと。蓮司は「覚えてない」としか答えなかった。施設育ちだ。三歳以前の記憶がない。それ以上は話さなかった。
芳江はいつも、少し悲しそうに笑っていた。皺の奥に何かを押し込めるような、そんな笑い方だった。蓮司はそれを老人の感傷だと思っていた。独り暮らしの寂しさが滲んでいるのだと。だが今、その笑みの意味が変わり始めていた。あれは感傷ではなく、何かを堪えていた顔だったのではないか。言いたくて、けれど言えない何かを。
「何を知ってたんだ、あんた——」
声が掠れた。デスクの電話を見る。赤いランプは点いていない。もう、あの穏やかな声が応答することはない。
蓮司は数列の紙を掴み、立ち上がった。椅子が軋んで後ろに下がった。残りの三行。ここに芳江が遺した「最後の仕事」がある。四行目が鍵なら、最初の三行が本体だ。
缶ビールの残りを一気に飲み干す。アルミを握り潰した。潰れた缶がデスクの端に転がり、写真の束に当たって止まった。浮気調査の男女の顔が裏返しになる。もう、あの依頼はどうでもよかった。
窓の外で、雨は降り続いていた。歌舞伎町のネオンが水滴を通して歪み、事務所の壁に赤い光の粒を散らしている。
眠る気はなかった。