第1話
第1話
廃病院の三階、小児科病棟の廊下を歩いていると、世界から音が消える瞬間がある。
自分の足音。天井から落ちる水滴。それだけ。街の喧騒も、上司の嫌味も、母親の溜息まじりの電話も、ここには届かない。私はその静寂を吸い込むように深呼吸して、懐中電灯の光を壁に這わせた。
塗装が浮き上がり、めくれた壁紙の隙間から灰色のコンクリートが覗いている。床に散らばったカルテの残骸。錆びた車椅子が廊下の奥で傾いていて、風が吹くたびにきぃ、と小さな悲鳴を上げる。
——いい場所だ。
スマートフォンを取り出して、壁の落書きを撮影する。赤いスプレーで殴り書きされた「出口」という文字。矢印は壁を向いている。誰かの悪ふざけか、それとも本気で出口を探していたのか。どちらにしても、この場所はもう誰のものでもない。
私は鼻の奥にかすかに残る消毒液の匂いを嗅ぎながら、その矢印の写真を撮った。十五年経っても染みついて消えない匂いがある。壁や床に浸み込んだアルコールとヨードの記憶。生きている病院を知らない私にも、ここがかつて誰かを治そうとした場所だったことがわかる。
佐伯奈緒、二十八歳。趣味は廃墟探索。職業は市役所の窓口業務。それ以外に自分を説明する言葉を、私は持っていない。
月曜から金曜まで、市民課のカウンターに座る。住民票、印鑑証明、戸籍謄本。書類を受け取り、端末を叩き、番号を呼ぶ。その繰り返し。窓口に来る人たちは必要な紙を受け取ると、私の顔も名前も覚えずに帰っていく。それでいい。それが仕事だから。
ただ、ときどき思うのだ。
この窓口から私が消えても、明日には別の誰かが座って、同じ番号を呼んで、何も変わらないだろうと。上司は気づかないかもしれない。同僚は三日くらいで名前を忘れるかもしれない。私という人間は、住民票の発行件数以上の痕跡をこの世界に残していない。
けれど廃墟は違う。
誰にも必要とされなくなった場所。役目を終えて、取り壊しすら後回しにされた建物。そういう場所に立つと、不思議と呼吸が楽になる。期待されない場所では、期待に応えられない自分を責めなくていい。朽ちた壁も、割れた窓も、私を見て失望しない。
SNSの廃墟愛好サークル「残響倶楽部」に入ったのは二年前のことだ。メンバーは私を含めて五人。週末になると各地の廃墟を巡り、写真を撮り、記録を残す。仲間たちは私のことを「奈緒さんは静かだけど、誰よりも廃墟を愛してる」と言ってくれる。
愛しているのかどうかは、わからない。ただ、ここにいる間だけは息ができる。それだけだ。
今日は平日の単独探索。残響倶楽部の仲間には場所だけ伝えてある。県境に近いこの廃病院は、十五年前に経営破綻で閉鎖された。地元では肝試しスポットとして知られているらしいが、平日の夕方に来る物好きは私くらいのものだろう。
小児科病棟の奥に進む。ナースステーションだった場所のカウンターに、埃を被ったぬいぐるみが一つ残されていた。くまの形をしている。片方の目が取れて、綿がはみ出している。誰かが置き忘れたのか、誰かが置いていったのか。
私はしゃがみこんでぬいぐるみを撮影した。こういう残留物が好きだった。建物は朽ちても、誰かがここにいた証拠だけが残る。それは寂しいことだけれど、同時に少しだけ救いでもある。
完全に忘れられるまでには、まだ時間がある、ということだから。
ぬいぐるみの周りには、他にもいくつかの痕跡があった。カウンターの内側に貼られたままのシール——黄色い星型で、角が丸まって剥がれかけている。「がんばったね」と印刷されたそれは、きっと小さな患者に渡すためのものだったのだろう。注射を我慢した子。薬を飲めた子。泣かなかった子。この場所には確かに、痛みと、それを和らげようとする手があった。私は指先でシールの端に触れた。粘着力はとうに失われていて、触れただけで紙片がカウンターの上にひらりと落ちた。
その時、配管の奥から音が聞こえた。
ごおん、と低く、長い音。空気が管の中を通り抜ける振動。この手の建物ではよくあることだ。配管が温度差で収縮したり、風が隙間から入り込んだりする。
私は立ち上がって、音の方向に懐中電灯を向けた。廊下の突き当たり、手術室と書かれたプレートの先は暗かった。
もう一度、ごおん。
今度は少し高い音が混じっていた。金属の共鳴とは違う、もっと——湿った音。配管の中に水が溜まっているのかもしれない。
私は廊下を進んだ。足元のリノリウムが剥がれて、コンクリートの下地が露出している場所を避けながら歩く。一歩ごとに靴底が砂利を噛む感触がして、その音だけが暗い廊下に吸い込まれていく。壁に掛けられた案内板が一枚、ネジが外れて斜めにぶら下がっていた。「手術室→」。その矢印に従うように、私は足を進めた。手術室のドアは半開きで、蝶番が腐食して動かなくなっていた。隙間から懐中電灯の光を差し入れる。
手術台はすでに撤去されていて、床にタイルの剥がれた跡だけが四角く残っている。壁際のキャビネットが倒れ、ガラスの破片が散乱していた。天井の一角が崩落して、そこから夕暮れの薄い光が差し込んでいる。
——ただの空き部屋だ。
何を期待していたわけでもない。私は壁に手をついて部屋の中を見渡した。湿気が重く、息を吸うと肺の底に冷たい空気が沈む。手のひらに触れる壁の表面はじっとりと湿っていて、指を離すと薄い灰色の跡がついた。この部屋だけ、他の場所より明らかに空気が重い。天井の穴から雨水が入り込むせいだろう。床の隅に小さな水たまりが光を受けて鈍く光っていた。
配管の音は止んでいた。
代わりに、別の音が聞こえた気がした。
うう、と。
人の呻きのような、喉の奥から絞り出すような音。かすかで、空気の振動とほとんど見分けがつかない。
私は耳を澄ませた。呼吸を止めて、全身を耳にした。心臓の鼓動が邪魔だった。静寂の中で自分の脈拍だけがやけに大きく聞こえる。五秒。十秒。音は繰り返されなかった。
——風だ。
崩落した天井の穴から風が入り込んで、建物のどこかの隙間を通り抜けている。ただそれだけのこと。廃墟ではよくある。初心者の頃は何度もこの手の音にびくついたものだ。
「風の通り道が悪いだけ」
声に出して呟くと、自分の声が思いのほか大きく響いて、少しだけ恥ずかしくなった。誰もいない場所で独り言。廃墟探索者の職業病みたいなものだ。
私は手術室を出て、来た道を戻り始めた。もう日が落ちる。単独探索で暗くなるのは危険だ。足元が見えなくなれば、床の穴に落ちることだってありえる。
廊下を歩きながら、最後にもう一枚だけ写真を撮ろうと思った。さっき通り過ぎた窓際に、夕陽が射し込んで廊下に長い影を作っていたはずだ。
窓の前に立つ。ガラスは割れずに残っていた。汚れて曇っているけれど、外の景色がぼんやりと透けて見える。木々の輪郭。オレンジ色に染まりかけた空。夕陽の光が窓ガラスの汚れを通して、廊下の壁に淡い琥珀色の模様を描いていた。埃が光の筋の中でゆっくりと舞っている。この瞬間だけは、廃墟が廃墟であることを忘れるような、穏やかな美しさがあった。
私はスマートフォンを構えて、窓ガラス越しの夕景を撮影した。
液晶画面の中、窓ガラスに自分の姿が薄く映り込んでいた。懐中電灯を持った、地味な女。黒いパーカーにジーンズ。どこにでもいて、どこにもいない顔。
——透明人間の自画像としては、なかなかいい構図だ。
そう思って、シャッターを切った。
帰り道、車の中で撮った写真を見返すことはしなかった。運転しながらラジオの天気予報を聞き、コンビニで弁当を買い、アパートの階段を上り、いつもの夜が始まる。
だから奈緒は気づかない。
あの窓ガラスに映っていたのが、自分だけではなかったことに。
彼女の右肩の後ろ、半歩分だけ奥に、もう一つの輪郭があった。背丈は低い。子どものような影が、奈緒の方をじっと見つめていた。
スマートフォンの写真フォルダの中で、その影は今も奈緒を見ている。